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──硝子張りの特設席。
静寂が張り詰めるその密室の中心に
アリアはティアナを膝に座していた。
腰かけた椅子は
アリアの為に時也が誂えたものだが
今はどこまでも無機質で冷たく感じる。
しかし、そこに佇む彼女の存在だけが
まるで〝神殿〟のような神聖さを
空間に宿らせていた。
彼女の前に置かれた白磁のカップは
既に空。
表面に残された褐色の輪郭が
時間の経過を無言で物語っている。
特設席の硝子は
外からの視線を遮るために
深紅のカーテンでしっかりと覆われていた。
ここには、一般客の目もカメラも届かない。
それは
アリアという存在を護るための〝檻〟であり
時也の愛と気遣いでもあり
同時に彼女自身が選び取った
孤独の象徴でもあった。
「申し訳ございません、アリア様。
混雑しております故
おかわりをお持ちすることがかなわず⋯⋯」
低く、丁寧に頭を下げる青龍。
幼子の姿ながら
その声音には一分の濁りもない。
アリアは、ただ小さく首を横に振った。
それだけで全てが伝わると
知っているからだ。
ゆっくりと立ち上がると
カーテンの隙間へと近付き
わずかに開いた隙間から外を覗いた。
そこに見えたのは──
額に滲む玉の汗。
唇を結び、硬く閉じた瞼。
痛みを堪えるように深く呼吸しながら
カウンターの奥で集中し続ける男の姿。
時也だった。
まるで
戦場の中心で声なき叫びを拾おうとする
修行僧のように
彼は一心不乱に心の声へと耳を澄ませていた
その肩には、疲労と重圧が宿っている。
誰も気付かないが、アリアには──
その輪郭が、悲しくもはっきりと見えた。
「⋯⋯⋯⋯」
視線を硝子から外す。
アリアは静かに振り返り
ソファの横に控えていた青龍を見下ろした。
ただ、真っ直ぐに。
言葉は交わされない。
だが、青龍にはわかっていた。
読心術など無くとも──
この視線の奥にある、アリアの〝願い〟を。
「⋯⋯ルキウスに
レイチェル様をお起こしするように
申し付けます。
少々、お待ちくださいませ」
その言葉とともに
青龍はカーテンの内側でそっと指を鳴らした
まるで静謐の中の鐘のように
小さな音が空気を震わせた。
⸻
──その頃、二階。
レイチェルの部屋の扉のすぐ外。
手作りされた止まり木の上で
ルキウスが静かに目を閉じていた。
室内からは
ふたりの少女の寝息がわずかに聞こえる。
そこに、青龍からの念が届く。
──ルキウス、レイチェル様とアビゲイル様を
「⋯⋯畏まりました」
低く、そして威厳に満ちた声でそう答えると
ルキウスは羽を広げた。
次の瞬間
その足元に広がった廊下の影へと
まるで水面に落ちる雫のように
音もなく身を沈める。
ぽたり──と
波紋も立てぬまま、影に溶けたその姿は
次の瞬間には──
部屋の中。
レースのカーテンがふわりと揺れる
日差しの柔らかい空間の中に
再び姿を現した。
ベッドの中央。
レイチェルとアビゲイルは
背中を向け合うようにして、毛布にくるまり
安らかな寝息を立てていた。
まるで幼い日の姉妹のように
穏やかなその姿の間に
ルキウスは音もなく舞い降りる。
──トン
羽音さえ立てずに降り立つと
重低音の、しかしどこか穏やかな声で
ふたりに呼びかけた。
「アビゲイル様、レイチェル様⋯⋯
起きてくださいませ」
その声は、夢の淵にいる二人の鼓膜を
確かに震わせた。
まず、レイチェルの睫毛が小刻みに震える。
次いでアビゲイルが
小さく呻くように身じろぎをした。
「ん⋯⋯?なに⋯⋯?」
「⋯⋯ルキウス⋯⋯?」
ふたりが同時に瞼を開け
視線を交わしたとき──
壁の時計の針が目に入る。
──その瞬間。
「「うそ⋯⋯遅刻ーーーーっ!?」」
部屋の天井が揺れるほどの叫び声が
喫茶桜の朝を裂いた。
そして下の階では
無言でそれを聞き届けたアリアが
ゆっくりとカップを持ち直していた。
空になったそれに
再びコーヒーが注がれるのは──
もう、そう遠くはなさそうだった。
──少女たちの叫び声が
居住スペースから響いたのは
ちょうど店内が騒然とし始めた
その瞬間だった。
バタバタと階段を駆け下りる足音。
廊下を滑るように突進してくる気配。
その音は
本来ならば苦笑と共に迎えるような
朝の賑やかさであるはずだったが──
今の時也とソーレンには
神に救われたかのような
〝救世主の雄叫び〟に思えた。
「きゃあああああああっっ!!
ごめんなさーい!!」
叫び声と共に
喫茶店と居住区を繋ぐ重厚な扉が
勢いよく開かれた。
ふわりと風をまといながら
レイチェルが転がり込むように現れる。
その姿は、未だ寝癖が残る髪
制服の裾をバタつかせ
まさに〝戦場に遅刻した天使〟だった。
「きゃあああっっっ!!
なにこの、お客様の数は!?!?」
視界いっぱいに広がる、長蛇の列。
椅子という椅子が埋まり
注文が飛び交うその光景に
レイチェルの目が一瞬、見開かれる。
「レイチェル!
スペシャルドリンクの大量オーダーだ!!」
ソーレンが怒号のように叫ぶ。
だがそれは責めではなく
まさに〝戦友の帰還〟を祝う声だった。
レイチェルはカウンター奥の
時也の顔を見る。
無数の心の声に押されて
額には玉の汗、頬は蒼白、瞼は重く──
苦悶にも似た集中を続ける彼の姿に
全てを察する。
「アビィ!
私の部屋のスケブ
このくらいの大きさに切って
一から──二十でいいわ!
数字書いて持ってきて!?」
レイチェルは
指で四角形を描くように
空間を切り取りながら
アビゲイルへ指示を飛ばす。
「わ、わかりましたわ!!」
アビゲイルは
スカートの裾をつまんでくるりと踵を返すと
階段を駆け上がっていく。
その小さな背中に
レイチェルは静かに願う──
間に合って、と。
そして、自らはソーレンの隣へと立ち
息を吸い込むと
即座にドリンクの補助へと入った。
氷を砕く音、ミルクの香り
シロップの甘い匂い。
厨房は再び生命を取り戻したかのように
忙しなく熱を帯びていく。
やがて──
「お待たせしましたわ!」
アビゲイルが
細くカットされた紙に
手書きで数字を記した札を抱えて戻ってきた
丁寧な丸数字が並ぶその束を
レイチェルは手早く受け取る。
そして、カウンター前に立ち
朗らかに、けれど透き通る声で宣言した。
「お客様に、お知らせいたしまーす!
スペシャルドリンクオーダーの際に
番号札をお渡しいたしますので
番号を呼ばれた方から
願いを心で念じてくださーい!!」
その声は
ざわめく店内の空気を裂くように
真っ直ぐに響いた。
客たちは一瞬目を見開き
そして次々に頷いた。
秩序が、そこに生まれる。
心の声の渦を
静かに順番に整理するための
新たな〝法〟が施かれた瞬間だった。
カウンター裏。
その声を聞いた時也は
初めて瞼を開いた。
青ざめた顔に少しだけ紅が戻り
安堵の吐息が喉奥から流れ出る。
「──っ⋯⋯」
彼は力が抜けたように
カウンターに両手をつき
深く深く、息を吐いた。
肩がわずかに震える。
ようやく、一息つける──
そう、誰かが背負いに気づいて
手を添えてくれた瞬間だった。
そして、特設席の中。
アリアは硝子の隙間から
それをただ見ていた。
表情は変わらない。
だが、彼女の眼差しの奥には
ひとひらだけ微かな光が灯っていた。
それは
誰にも知られぬまま咲いた
安堵の桜だった。