テラーノベル
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「うぅー…暑い…死ぬ。」
いつもの朝の比にならないほどの汗が染み込んだ寝起きのままのTシャツは、もはや“着ている”というより“背負ってる”と言ったほうが近いほど汗でぐっしょりで、ぼくはその不快さに顔をしかめながら、ふらふらとリビングの扉を開けた。
が、分かってはいたけど、期待していた涼しさはどこにもなく、むしろ熱気が一気に顔にまとわりついてきて、ぼくは更に顔をしかめた。
「…お”ーは”ーよ”ー。」
「…ガリッ…はよぉ。」
「…おはよう。」
リビングに入ると、扇風機の前を陣取って声が宇宙人みたいになっている若井と、器に入った氷をガリガリと食べるという奇行に走ってる涼ちゃんが居た。
「暑い暑い暑い!もぉー!誰だよ!エアコン禁止にしたの!」
「…も”と”き”じゃん”。」
「…元貴でしょ。」
「うぅー!分かってるよ!」
まるでコントみたいなやり取りが、汗だくのリビングに響く。
なぜ、こんな暑さの中、エアコンを封印しているのかと言うと、理由は先月の電気代。
テレビで電気代が上がると言うニュースを小耳には挟んだ事はあるけど、どこか他人事のように思っていた。
が、しかし、先月の電気代を見たぼく達は絶句。
まさかあんな金額になるなんて…
親からの仕送りだけで生活をしているぼく達にとって、それはもうほぼ事故レベル。
完全に予算オーバーだった。
『これじゃ破産する…』と頭を抱えた末、『8月は…エアコン禁止だー!』と、勢いに任せてぼくが宣言したのが、この全てのはじまりだった。
そして、今。
リビングは蒸し風呂。
Tシャツは汗で背中に張り付き、床に足を付けただけでじんわり暑い。
「元貴のせいで、溶けるー。」
「だーかーら!分かってるってばぁ!」
何度言われても、エアコンのリモコンには触れられない。
触れたら最後、文明に屈することになるから。
「でも、やっと試験も終わって、今日から夏休みなのに、このままじゃ休みを満喫する前に死んじゃうって!」
若井がとうとう限界に達したらしく、汗まみれのTシャツをパタパタと仰ぎながら、叫ぶように言った。
そう、やっと昨日、大変だった期末試験が終わったばかり。
そして今日、8月1日。
待ちに待った夏休みの始まりの日だ。
なのに、この地獄みたいな状況に、自分のせいではあるけど、気持ちはよく分かる。
せっかくの夏休み、こんな状態じゃ、楽しむどころか、生存も危うい。
「でも、お金ないのも事実じゃない?」
しかし、そんな若井の心からの叫びに、既に暑さで半分以上溶けている氷を口に運びながら、涼ちゃんは正論を口にした。
「冷房ガンガンでアイス食べながらゲームして寝たい…」
「でも、その生活したら今月も電気代爆上がりで、また来月“溶ける”の繰り返しじゃない?」
「うっ…ぐぅ…」
ぐうの音も出ない。
涼ちゃんの正論に打ち負かされながら、ぼくもよろよろと扇風機の前に向かう。
そして、なんとか少しでも涼もうと、顔を近づけてみるが…
「…ぬるっ。」
頬を撫でる風は、もはやドライヤーと大差ない。
空気自体が熱を持っているから、風を浴びたところで焼け石に水だ。
「気持ちが折れそう…。」
思わず口から漏れた言葉に、誰も突っ込む元気はなかった。
若井は床に大の字になって、まるで生気を吸われたみたいに天井を見つめてるし、
涼ちゃんは、うちわ片手に、無言で冷蔵庫の扉を開けては閉めるという、意味のない行動を繰り返している。
「…ねぇ、いっそ、図書館とか行かない?」
と、若井がぽつり。
「今日休館日。」
即答する涼ちゃん。
「…じゃあカフェ…。」
「お金ないでしょ?」
「…。」
…なんだこの絶望的なラリー。
夏はまだ始まったばかりだというのに、ぼくたちの気力と体力は、もうすでにクライマックスを迎えている気がした。
…と、思ったその時、若井が『あ!』と大声を上げた。
「そういえば、サークルの先輩にバイトに誘われてたんだ!」
「まじ?!なんでそれを早く言わないんだよ!」
「いやっ、期末試験があったらからすっかり忘れてた。」
「若井っ、早くその人に電話しよ!で、ついでに僕達も行けるか聞いてっ。」
「頼む!若井!このままだとまじで命が危うい!」
涼ちゃんは若井を急かすように背中を押し、ぼくは神様でも仏様でもいいから誰か助けてくれと、心の中で真剣に祈った。
若井は少し離れたところでスマホを耳に当てると、何度か頷きながら、時おり『うん』『マジっすか?助かります!』なんて言葉を返していた。
ぼくと涼ちゃんはじっとその様子を見守りながら、全身から汗とは別の変な緊張感まで滲んできた頃…
「―よしっ。」
若井がスマホを切ってこちらに振り返り、にかっと笑うと、勢いよく親指を立てた。
「いけるって!三人とも、OKだってさ!」
「「やったー!!」」
ぼくと涼ちゃんは、思わず手を取り合ってその場でぴょんぴょん跳ねた。
暑さで死にかけていた直前までのテンションとは思えないほど、急激に命が吹き返る。
「で、で、どんなバイトなの?冷房ある?アイス食べ放題とか…?」
「えーっとね…プールの監視員。」
「え?」
「プール?」
涼ちゃんとぼくの声がハモる。
「いや、絶対暑いじゃん!」
「ていうか、むしろ今より暑いまであるよね!?」
ぼく達のツッコミに、若井は苦笑しながらも肩をすくめた。
「でも、給料は日払いだし、ウォータースライダーとかもある大型施設で、バイトが終わる時間帯によっては、そのまま遊んでもいいし、賄いとかはないけど、売店のフードはスタッフ割引で安く食べれるらしいよ?」
「…まじ?日払いは助かる。」
「それに、タダで遊べちゃうのは激アツかもぉ。」
“エアコン”という文明の利器には勝てないけど、それでも“夏らしいこと”が出来るのは悪くない。
なにより、電気代の呪縛から少しでも解放されるなら、それに越したことはない。
「決まりだね!じゃあ、明日から夏のバイト、がんばろっか!」
「「おー!!」」
こうして、“暑さからの避難”という名目で始まったぼく達の夏のバイト生活は、思っていたよりずっと濃くて、眩しいものになっていく予感がした…
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