やっと今日の仕事が終わった。
もう色々と限界だな、筋肉も悲鳴を上げているし。転職したいなあ。今の仕事は漫画の編集者以外の仕事には全く興味がないから適当に決めただけだし。
とは言っても、適当すぎた。どうして僕は、一番向いていない肉体労働を選んだのだろう。当時の僕がよほど精神的に参っていたのが分かる。
そんなことを考えながら、家路につく。アパートが見えてきたところで、部屋の明かりがついていることを確認。今日も白雪さんが来てくれているみたいだ。
彼女が来てくれるようになってから、僕は救われた。生活が一変した。
まさに、僕にとっての癒やしの女神様だ。
家に帰ると、その日の食事の用意されている。これはとても幸せなこと。でも、僕にとって一番幸せに感じることは、白雪さんが帰りを待ってくれているということなんだ。笑顔で出迎えてくれることなんだ。
僕は、彼女の笑顔に救われているんだ。
「ただいまー」
「あ、響さん! お帰りなさい。今日も一日、お仕事本当にお疲れ様でした。ちょうど今、お味噌汁ができたところですよ」
白雪さんはとてとてと歩いて、僕を笑顔で玄関まで出迎えてくれた。僕の心が一気に潤う。それを如実に感じた。鼻腔に、お味噌汁の匂いが広がる。
「白雪さん、いつも本当にありがとうね」
「いえいえ、そんな。お礼を言うのは私の方ですよ。お仕事で疲れているのに、いつも漫画作りについて教えてくれて。本当に感謝しています」
今日はどうやら学校が終わってそのままやって来たらしく、白雪さんはブレザーの制服の上からピンクのエプロンをまとっていた。ああ、可愛い。ずっと見ていたい。でも、できれば裸エプ――ごほんごほん。馬鹿か僕は。なんてことを考えているんだ。白雪さんに対して失礼すぎるだろ。デリカシーなさすぎ。漫画だったら都条例に引っかかるって。
「どうしました? 考え事ですか?」
「い、いや、なんでもないよ。気にしないでね」
「もし悩み事があったら言ってくださいね。話を聞くことしかできないかもしれないですけど、言えばスッキリすることもありますし」
「う、うん、ありがとうね」
裸エプロンを所望しているだなんて言えるわけがない! 言ったら白雪さんが家に来てくれなくなってしまう!
「それじゃあ、今すぐご飯の用意しますね。その間に響さんはシャワー浴びてきてください。きっと汗でベタベタしてるはずですし」
笑顔の白雪さんが眩しく映る。この子、本当に天使だ。寂しいオジサンの元に舞い降りた天使。救いの女神様。今時、漫画でもなかなかないベタな展開ではあるけど、僕にはそう思えて仕方がなかった。
* * *
「「いただきまーす」」
手を合わせ、声を合わせて、僕達は食事、食材、その他諸々に感謝の言葉を述べる。今晩のおかずは肉じゃがだった。
じゃがいもを一口食べると、味がしっかりと染み込んでいてとても美味しい。次に味噌汁に口をつける。具は、あれ? こちらもじゃがいもだった。見ると、小鉢にはポテトサラダ。じゃがいも多すぎない?
「あ、バレちゃいました? 今日、じゃがいもがすっごく安かったんです。それでちょっと買いすぎまして、えへへ」
そう言って笑いながら、白雪さんは顔をほころばせて肉じゃがをぱくぱくと食べていった。女の子が美味しそうにご飯を食べているところを見ていると、なんだか嬉しい。
たくさん食べる女子は最高だ。ダイエット? 若い子がそんなの気にすることはない。どんどん食べて、どんどん大きく育てばいい。
「どうしたんですか響さん? なんか嬉しそう」
「嬉しそうなんじゃなくて、嬉しいんだよ。今まで僕は、ずっと一人きりで食事を取ってきたからね。だからこうして白雪さんと一緒にご飯を食べられて、本当に幸せなんだ。それに、白雪さんが作ってくれる食事はいつも美味しい」
「本当ですか! そう言ってもらえると私も作り甲斐があります。それに私も、響さんと一緒にご飯が食べられてすごく嬉しいです」
白雪さんは幸せそうに頬を緩ませる。やっぱり彼女の笑顔は素敵だ。僕の心の癒やし。毎日荒んだ職場で働いているから余計にそう思う。あの皆川さんからは休憩室で顔を合わすたびにものすごく怖い目で睨まれるようになったしな!
「ちなみに白雪さん、ネームの調子はどう? いい感じで描けてる?」
「あ、はい。実はもうほとんど描き終わりまして。ご飯が終わって少し休んだら、ネームを見てもらっていいですか?」「もちろん、ぜひ見させてもらうよ」
「も、もしかしたら、怒られるかもしれないですが……」
言って、急に小さく縮こまる白雪さん。
その理由はこの後すぐに分かった。
* * *
「こ、これ、僕!!?」
ネームを見てビックリした。鉛筆でさらさらと描いただけとはいえ、そこにいたキャラクターが僕にそっくりなのだ。僕だけではない。そこには白雪さんもいた。
「は、はい……響さんに怒られちゃうかもとは思ったんですけど、キャラのモデルにさせてもらっちゃいました」
「も、モデル? いやいや、怒りはしないけど……」
ちょっとビックリした。よく特徴を捉えている。僕の骨格、眉の具合、目の形、それに頬にあるホクロまで。『特徴のないところが特徴』と言われてきた無個性な僕の顔を、まさかここまで忠実に再現してしまうとは。
ただ、ひとつ。どうしても気になるところがあった。
「ねえ白雪さん。それにしても僕のことカッコ良く描きすぎじゃない? 僕ってこんなに美形じゃないし。これじゃまるで王子様だよ」
「そ、それは、ほら! 少女漫画ですから。やっぱりヒロインが恋する相手はカッコ良く描かないと、読者さんにウケませんし」
「まあ、それもそうか。うん、とりあえず読ませてもらうね」
「はい! お、お願いします!」
白雪さんのネームをペラペラと捲る。全部で32ページ。この前よりもページ数が増えている。今までは16ページだったのに。
「あれ? これって」
「あ、気付きました? 私が響さんと出会ってからの出来事を漫画にしてみました」
僕はネームを読み進める。一人の漫画家を目指す主人公の女子高生が、ファミレスで偶然、元漫画編集者の男性と出会うところから物語は始まる。おお、小林もいる。似てるなあ、ふてぶてしいところとかそっくりだよ。
押しかける形で、女子高生は元編集者――男性主人公の家で漫画を教えてもらうことになる。そして一緒に買物に行ったり、一緒にご飯を食べたり、取材という名のデートをしたりする。そして次第に、女子高生は男性主人公の優しさに惹かれて恋に落ちる。いわゆる年の差恋愛漫画だ。
「よ、読んでてちょっと恥ずかしくなるんですけど」
「わ、私も描いてて顔がポッポしてきました。で、でも! こ、これはあくまで漫画で、私の妄想ですから! フィクションです!」
「それは分かってるけど」
「……分かってないですよ」
小さく、白雪さんが何かを呟いた。
「ん? 何か言った?」
「いいえ、何も」
再び、僕は読み進める。白雪さん渾身のネームを。そして驚いた。白雪さんの中で、一体何があったんだ。
そのネームは今までのものとは全く違った。まるで、別人が描いたように感じる程。キャラクターの感情が僕の中に流れ込んでくる。
漫画家は時として、何かをキッカケにして急激に伸びることがある。その理由のほとんどが、精神的なもの。それが起因する。
元々、白雪さんは吸収力が高く、伸びる要素はたくさんあった。だけれど、ここまでの急激な伸び方は今までなかった。
彼女の中で、何かが『変化』したんだ。
「ど、どうでしょうか……」
不安げな表情を見せるものだから、安心させよう。そして、僕が感じたことを全て伝えよう。また、何かしらの『変化』が起こるかもしれない。
「すごい」
「え? す、すごい?」
「うん、すごいよ。今までのネームとはまるで違う。まるでキャラクターが意思を持っているみたいだ。自然と引き込まれる。あと、僕の中にキャラクターの感情が流れてきて、伝わってくる。その感情の細かな部分まで。ここまで変わるには何かキッカケがあったはず。思い当たる節はある?」
この時、本当は気付いていた。だけれど、彼女の言葉でそれを聞きたかった。
「えへへ、ありがとうございます。褒められ慣れてないから、なんだかくすぐったいですね。キッカケははっきりしています。響さんと一緒に行った取材です」
やっぱりそうか。それがキッカケだったか。でも取材という名のあのデート。あれだけでここまで変わるか? 他にも何かあったはずだ。
でも、今はそれを訊くのはやめておこう。僕が彼女の伸びしろを壊しかねない。
「そっか、取材か。うん、まだ読み進めているけど内容も面白いよ。感情が揺さぶられる感じがするよ。作品から魂を感じるんだ。……ん? あれ?」
ネームが途中で終わっていた。32ページ中、28ページ目のところで。それ以降はまだ真っ白。つまり、最後の4ページが存在しないのだ。
「どういうこと、白雪さん? ラスト目前のところで終わっちゃってるけど」
「そ、それはですね。ラストで悩んでいるんです。二パターン用意してあるんですけど、どちらを選ぶべきなのか、まだ悩んでいて」
「二パターン? どんなラストを考えているの?」
「幸せな結末と、悲しい結末です」
悲しい結末、か。少女漫画ではあまりウケが良くないんだよな。でも、今まで見せてもらった白雪さんのネームは、全てハッピーエンドだった。なのに、何故だ?
「僕は幸せな結末をお勧めするよ。やっぱり漫画はハッピーエンドじゃないと。確かに悲しい結末で読者さんの気持ちをごっそり持っていって余韻に浸させるのも手法のひとつかもしれない。でも、白雪さん。いや、風花うららの作風はそれじゃない」
「……考えます」
どうしたのだろう。白雪さんに先程までの元気がない。小さな絶望すら感じる程に。
確かに、どういうラストに持っていくか悩む気持ちはよく分かる。今まで担当してきた漫画家もラストを決める時にうんうん唸っていたし。
悩んでいるから元気がないのかな。
「ど、どうですかね響さん。ラストは追々考えるとして」
「ラストがカチッと決まっていないんじゃ、なんとも言えない。でも」
僕はネームの束を白雪さんに返す。そして彼女を安心させるために、自信を持たせるために、僕なりの笑顔を彼女に贈った。
「いいんじゃないかな、このネーム。ラストはまだ読んでいないけど、そこまでは最高だったよ。この原稿、大切に描いてあげてね」
「え!? そ、それじゃ」
「うん、とりあえずはネームオーケー。ラストが決まっていないのはちょっと気がかりだけど、原稿に取り掛かってください、風花先生」
白雪さんは目を大きく開き、それから顔いっぱいに宝石を散りばめて喜びを表現した。今まで見てきた彼女の笑顔の中で一番、輝いた笑顔だった。
「やったーー!!!! 響さんからネームのオーケーもらえましたーー!! ありがとうございます響さん! 全部響さんのおかげです!」
白雪さんはぴょんぴょん飛び跳ねて喜びを爆発させた。ここまで長かったもんね。白雪さん、本当に頑張ってたもんね。君のその努力を知っているから、僕も本当に嬉しいよ。担当編集冥利につきる瞬間だ。
「この漫画、原稿が完成したらちゃんと出版社か編プロに持ち込みに行くんだよ? チャンスを掴むんだ、白雪さん。せめて担当がついてくれれば、叶うかもしれない」
「か、叶うって、何がですか」
「プロの漫画家だよ」
ぺたん、と白雪さんは床に膝をついた。そしてポーッとした笑顔を浮かべて、天井を見上げて、すっかり夢の世界に行ってしまたようだ。頭の上でたくさんの花がポンポン咲いていくのが目に見えるようだった。
「漫画家、プロの漫画家かあ。えへへへへ」
* * *
僕がネームにオーケーを出した次の日から、白雪さんは原稿に取り掛かった。念の為、ネームの時点で潰せる箇所は全て潰しておいたし。
そして、まずは下描きからになるわけだけれど、これはあっという間に描き上げてしまった。下描きとはいえ、かなりの速筆。速さはひとつの武器になる。編集者にとって、とてもありがたいことだし、なにより仕事を依頼しやすい。
集中している時の白雪さんはすごかった。まさに、鬼神の如く。ずっとリビングのローテーブルの前で原稿に向かい続けた。時には僕が帰ってきたことにも気付かないで、そのまま描き続けていたこともしばしばあった。
ただ、彼女は頑張りすぎていた。
「白雪さん、あんまり根詰めすぎないようにね。体壊しちゃうよ?」
「ご心配ありがとうございます。でも、描かなきゃ……」
「締め切りがあるわけじゃないんだから、少しペースを落とした方がいいよ? 最近すごく疲れた顔してるし」
「はい、正直疲れてます……」
白雪さんは疲労を滲ませた顔で、うんと背中を思い切り伸ばした。疲れるのも当たり前だ。昼間は学校に行って勉学に励み、僕のアパートに来て家事を行い、それから遅くまで原稿を描いているのだ。
「響さん、栄養ドリンクって効果ありますか? 飲んだことがないのでちょっと分からなくて。どうなんでしょう。」
「駄目だって! 絶対に駄目! 確かに値段が高いやつはかなり効果があるけど、でも一時的な効果しかないんだ。そもそも高校生がそんなものに頼ってどうするのさ」
「だって……あまりに進みが遅いから。焦っちゃって」
一度ペンを起き、ぱたんと床に倒れて大の字になる白雪さん。ぼーっとした表情で天井の一点を見つめている。これは無理やりにでも休ませなければ。
進みが遅いと言った白雪さんだが、ここにきて彼女の弱点が露呈した感じだった。最初にあのファミレスで原稿を見た時にも感じたけれど、彼女はGペンの使い方に慣れていないのだ。基本、Gペンは筆圧とスピードによって線に強弱をつける。そのコツがまだ掴めていないんだ。白雪さんの描く線は、所々潰れてしまっていた。
だから何度も何度も描き直していた。原稿用紙がもったいないのでスケッチブックに何本も線を引いて練習した。しかし、それでもまだ拙いままだった。
「私、本当にプロになれるのかな」
「何言ってるの。今から弱音を吐いてどうするのさ」
「だって……」
そう言って、白雪さんはごろんと床で丸くなり、ぶつぶつと独り言。いかん、完全に自信喪失モードに入ってしまっている。
でもここを乗り越えなければ、壁をぶち破らなければ、プロになんかなれない。仮になれたとしても、弱音ばかり吐いていたら、すぐに編集部に捨てられてしまう。
でも今、それを言っても白雪さんを余計に追い詰めるだけだ。とりあえず、彼女の気分転換になることをしよう。
「白雪さん、僕とちょっとお喋りしようよ。漫画から少し離れてさ」
「響さんとお喋り。私、したいです」
元気のない声でそう返事をしてくれた。
「そっか、良かった。じゃあそうしよう。何についてお喋りする? くだらないことでも何でもいいよ。白雪さんの興味のある話題にしよう」
「私の興味のあること、ですか」
ごろんと横になったまま、白雪さんは話題を考える。そして声に小さな戸惑いを滲ませながら、僕に話題を提案したのであった。
「あの、私、ずっと訊きたかったことがあるんです。響さんに」
「訊きたいこと? いいよ、どんと来い。なんでも答えてあげるよ」
天井を見つめながら、白雪さんは少し迷っていた。言葉にするべきか、しないべきか。
それは、白雪さんの優しさだった。僕を傷付けたくないと思ったに違いなかった。それでも、白雪さんは知りたかったのだ。
僕のことを。響政宗の過去を。
「響さん、どうして漫画の編集を辞めちゃったんですか?」
当然の疑問だった。白雪さんは漫画家なのだから。将来関わっていくかもしれない、漫画編集者。その人間がどうして編集の道を捨てたのか。諦めたのか。知りたい気持ちでいっぱいだっただろう。
でも、今までそれを訊かないでいてくれた。大好きな仕事を辞めるわけだから、それ相応の理由があったに違いないと思ったはずだ。
それでも知りたいと思ってくれたのだ。
響政宗の過去を。
「うーん、まあ、それにはちょっとした理由があってね」
迷いはなかった。僕は自分にあった出来事を白雪さんに話すべきだと思ったし、不思議と彼女に話したいと思えたのだ。
「でも、簡単に言うと、そうだな」
僕自身、いい加減、乗り越えなければならないと思っていた。いつまでも過去をに囚われ、引きずっていても仕方がない。そう思えたのは、常に真っ直ぐ、前に進む白雪さんの姿を見てきたからだ。
だから、話す。そして伝える。僕が漫画編集を辞めた理由を。天職とまで思っていた仕事を、捨てた理由を。
「僕はね、一人の漫画家さんを壊してしまったんだよ」
僕のその言葉を聞いて、横になっていた白雪さんは勢い良くがばりと起き上がった。そして、しっかりと正座をして姿勢を正す。
白雪さんは、これから話すことを、響政宗の過去をしっかりと受け止めようとしていた。僕には、それが嬉しかった。
「響さんが、壊してしまった……」
「うん、そう。全部話すよ。漫画家志望の白雪さんにとって、この話はきっと将来の役に立つかもしれないと思うし、それに個人的に、白雪さんには知っていてほしくて。僕の過去のことを」
こくりと、白雪さんは黙ったまま頷いた。
「壊してしまったのは、僕が初めて担当した作家さん。その人はプロデビューしてから三年目位だったかな。すごく真面目な人でさ。僕の意見にもしっかりと耳を傾けてくれて。だから僕も、その作家さんには特別な想いを抱いていたんだ」
そう、本当に真面目な人だった。努力家だった。先輩から引き継ぐという形で担当したわけだけれど、この人を担当できて本当に良かったと思っていた。
でも、その作家さんは正直言って、お世辞にも上手いとは言えなくて。漫画力も画力もさほど高くない。絵柄も少し古い。でも、一番致命的だったのは、人物のパースを取るのが苦手だったこと。どうしても、俯瞰やあおりになると崩れてしまう。だから、その作家さんはものすごく努力をした。その欠点を直すために、人一倍。
でも、その努力が報われることはなかった。
「努力してるのに、頑張ってるのに、報われないのは辛かったでしょうね」
「そうだね。でも、それが現実なんだ。報われない努力なんて山程ある。この世は努力が報われる世界であってほしいと僕は思う。でも、実際は違うんだよね。だから僕なりにちょっと考えた。他の手段を使えるよう考え方のベクトルを変えて」
「ベクトル、ですか」
「そう、ベクトル。正直なところさ、僕は人物パースが上手く取れなくても別に構わないと思ってるんだ。そういう時は『嘘』を使えばいいから。いわゆる『嘘パース』。人物パースが取れなくても、『嘘』のパースを使って、要は違和感を感じないようにするの」
「確かにそうですね。違和感を感じなければ、問題点は問題点でなくなるわけですし。それで、どうだったんですか? その作家さんは」
「うん、駄目だった。それも使いこなすことが出来なかった。しかも、より人物パースを気にしすぎるようになっちゃって。人物パースから逃げるように描くようになって。あおりや俯瞰で人物を書くことをしなくなった。そうなるとさ、漫画が平面的になるじゃん」
「平面的……私でもなんとなく分かります。確かに引きや大コマを使ったアップとかをバランス良く描いても、それだけでは限界がありますよね」
「そう、まさにその通り」
せめて他の武器。例えば、飛び抜けた発想力や独特の絵柄を持ち合わせていれば、話はまた違っていただろう。しかし、その作家さんにはそれもない。武器がない。それがなければどうなるか、容易に想像はできた。
「あの、それで、その作家さんはどうなってしまったんですか?」
「うん、打ち切りが決まった。その時は僕も編集者になって五年くらい経っていたからよく分かった。その作家さん、よく持った方だと思う。読者アンケートでもいつも最下位だったし」
編集長に呼ばれて、言われた。この漫画を一ヶ月以内に畳む用意をしろと。それを伝えておけと。いわゆるクビ宣告だ。
その事実を電話で済ませるのはさすがに失礼だと思い、僕はその作家さんの所まで行った。そして、伝えた。当たり前なことだけれど、その作家さんは深く落ち込んだ。
実際のところ、僕も落ち込んでいた。思い入れが強い分。でも担当編集者としての責務を果たすにも、落ち込んでいるところは見せなかった。
でも、今考えると当然のことだ。商業漫画は結果が命。ボランティアではない。どんなに努力しようが頑張ろうが、人気が出なければ、単行本が売れなければ、それらは全く意味を成さない。
でもその時、僕は初めてその作家さんの事情を把握した。
「ご家庭を持っていたんだ。ご結婚されていて、子供も二人いて。僕はあまり作家さんのプライベートには触れないようにしていてさ。情に流されやすいからね。プライベートを知ったら知ったで、一線を超えてしまう恐れがあると自分でも理解していて。だから、その時に初めて知ったんだ。ご家族を支えていかなければならない立場にあることを。連載打ち切りは、それこそ死活問題だった」
「原稿料がなければ、生活できなくなっちゃいますもんね」
「そう。漫画家は当然、漫画を描かなければお金がもらえない。お金がもらえなければどうするか。別の仕事をするしかないよね」
「家族を養うためだから、当然そうなりますよね」
「で、その作家さんは肉体労働を始めたんだ。毎日毎日、キツイ仕事をして、なんとか生活をしていた。でも、その作家さんはやっぱり漫画を描くのが大好きで、諦めきれなかったみたい。一生、漫画で食べていきたいと。でね、とある日、相談されてさ。『響さん、どうにかしてもらえませんか』って」
そう、今でも鮮明に覚えている。ファミレスで向かい合った僕に、一生懸命、頭を下げる作家さんの姿を。
「だから、僕は動いたんだ。必死になって編集長に掛け合ったり、他の編集部にまで行って、どうにか仕事をもらえないかと頭を下げてお願いして。それで、単発ではあるけど、なんとか仕事はもらうことができたんだ」
「単発って、つまり読み切り漫画ってことですか?」
「そう、読み切り。でもさ、それってただの一時凌ぎにしかならなくて。今なら冷静に考えることが出来るから分かるけど、僕がしてたことはただの延命治療でしかなかったんだよね。結局、その作家さんはたまにもらえる読み切り漫画の仕事と、肉体労働のダブルワークにならざるを得なくなっちゃって」
「でも、響さんがどうしてそんなに必死にならなきゃいけなかったんですか? 漫画家は自分で仕事をもらってくるものだと思ってたんですけど」
「まあ、そうなんだけどね。白雪さんの言う通り。だから、やっぱり僕は作家さんのプライベートには触れない方が良かったんだ。その作家さんが生活に困るようにならないようにしなきゃって、毎日悩むようになっちゃった」
「響さん、優しすぎますよ……」
そう言って、白雪さんは膝の上に置いた拳を力強くギュッと握った。
「長くなりすぎちゃったね。結果を話すよ。その作家さん、精神を病んでしまったんだ。それで、信じられないかもしれないけど、まるで小学生が描いたような絵になってしまったんだ。ハッキリ言って、僕は最低な編集者だったと思う。生きがいだった漫画すら描けないようにしちゃったわけだから。壊しちゃったんだよ、僕がその人を。その人の人生を。生きがいを。持っているものを、全部を」
そう。僕は一人の作家さんを壊してしまった。その時に、僕は入社した時から編集長に何度も言われていた言葉を思い出した。
『編集者はいつだって作家をクビにすることが出来る。だからお前も、常に自分をクビにする覚悟をしておけ。じゃないと、あまりにも不公平だ。だからこそ、命を賭けろ。命を賭けて、漫画編集に全力で打ち込め』
「だから、僕は僕自身をクビにした。皆んなからは止められたよ、辞めるべきではないって。でも、それでは筋が通らないと思ってさ。ケジメをつけるためにも、僕は辞めるべきだと。辞めなければならないと。だから僕は、二度と漫画編集に携わるようにしないことにしたんだ」
全てを話し終えた。伝えることができた。いつか、白雪さんにはこの話をした方が良いと思っていたからスッキリした。
しかし、話し終えたその時だった。勢いよく、白雪さんは立ち上がった。そして叫んだ。
それは、白雪さんの心の底からの叫びだった。
「どうしてですか! どうして辞めちゃったんですか! 壊してしまったその時の苦しみや辛さは分かります! でも、間違いは誰にだってあるじゃないですか! たった一度の失敗で、大好きな漫画編集の道を捨てるなんて! 前から思ってました、響さんは優しすぎます! 優しすぎるし、自分に対して厳しすぎます!」
白雪さんは目に涙を浮かべ、溜まった涙が頬をつたう。そしてポロポロと、涙を流した。僕のために、泣いてくれている。優しすぎるのは僕ではないよ。白雪さん、君の方が優しい。優しすぎるよ。
「響さんがいてくれたから、私は頑張れているんです! 私のネーム、褒めてくれましたよね? それは全部、響さんのおかげなんですよ!」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、白雪さんは叫ぶ。彼女のその叫びは止まらなかった。
「響さんは一人の作家さんを壊しちゃったかもしれない! でも! それ以上に、たくさんの新しい芽を育てていけばいいじゃないですか! 私みたいに育ててあげてくださいよ! 私と同じように悩んでいる人達はいっぱいいるはずです! その人達も捨てるんですか!? 見捨てちゃうんですか!?」
「白雪さん……」
「私に諦めるなって言ってるくせに、響さんは諦めちゃうんですか! そんな人じゃないでしょ! 響さんは優しくて、とっても頼れて! でも、だらしないとこもあって、ちょっとエッチで! それで、もっともっと強い人のはずです!」
白雪さんの心が叫びが僕の心に強く響く。伝わってくる。
「私、知ってますから! 響さんは強いんだって!」
「強い、か。初めて言われたよ」
ふーふーと息遣い荒く、白雪さんは気持ちをいっぱいに込めて、僕に伝えてくれた。全力でぶつかってきてくれた。ぐじぐじと手のひらで涙を拭ってから、僕の前にすとんと腰を下ろす。彼女の顔がくっつくんじゃないかと思う程、近くに。
そして、優しい瞳で僕を見つめた。
「私、新しい夢ができたんです」
「新しい、夢?」
「そうです。私がプロになったら、いつか響さんに担当してもらうんです。それで、一緒に漫画を作っていくんです。今と同じ様に。私は、この夢を諦めません」
白雪さんの新しい夢。その中に、僕がいただなんてね。
「だから響さん。私の夢を叶えてください。戻ってください、漫画業界に」
優しい声音で、白雪さんは言う。まったく、この子はわがままだな。本当にわがままなお姫様だよ。この前のデートでもたくさんのお願いをしてきたけど、今回のそれはあまりにハードルが高すぎるよ。
だけど、高いからこそ、乗り越えたくなっちゃうじゃん。
僕は何もない天井を見上げる。よく見ると、小さな染みがいくつかあった。その染みの一点を見つめる。それから目を瞑り、思い描く。
白雪さんと一緒に仕事をする、未来の僕を。
「どうしてくれるんだよ、白雪さん。ただでさえ、業界にはずっと未練があったのにさ。それに叶えてあげたくなっちゃうじゃん。白雪さんの夢を」
「そ、それって……」
「白雪さんのその夢、僕も一緒に見ることにするよ」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!