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『和葉のおかげで、未来は平和だと分かった。しかし、和葉は好きに生きれず悩んでいる。その苦しみは分かる。俺も、平和な時代を生きたこともあるから。だから戦時時代に比べたら今は幸せだから悩むな、なんて言う気はない。ただこの戦いで死ぬ立場の者から一つ言わせて欲しい』
その文面に指がピクッとなるも、恐る恐るページを捲る。
『明日を迎えられるか分からない境遇に立った時、君は後悔しませんか? 好きに生きたら良かったと、嘆きませんか? 俺は赤紙を受け取った時に今までの人生が走馬灯のように駆け巡ったが、悔いることは何一つなかった。だって俺は大学で文学の勉強出来て、小説書いて、それを本にして、俺が書いた話を好きやと言ってくれる人が居てくれた。和葉に出会えて、一緒に小説が書けた。和葉のおかげでまた万年筆を握れた。もう一度夢と希望を持てたからこそ、この物語を書けたんや。もし和葉に出会えてなかったら、俺はこのまま断筆したまま出征せなアカンかった。多分、後悔の言葉を口にしながら汽車に乗っていたやろうな』
「……そうですね」
そう呟いた私は、目に涙を浮かべながら笑っていた。だって、本当のことだったから。
菅原平成先生の出征を見送った村の人達が聞いた言葉の一つは、「もっと書けば良かった」だったらしい。
その後に名を残す文豪らしいとされるエピソードだけど、私には「何一つ後悔はない」と言い残していた。
もらってばかりだと思っていたけど、私が大志さんに渡しているものがあったなんて。
『ありがとうな。知らんフリしてくれて。運命を変えようとしてくれて。死に行く俺に心を痛めて、たった一日の嫁になるなんて申し出てくれて。死ぬ運命にある男と最後まで共に暮らすのは、苦しかったやろう?
本当にごめんな、優しい和葉を苦しめて。だから、だからこそ。お願いがあります。
俺のことは忘れてください。
和葉は、これからの人生を生きてください。
平和な世界で幸せに生きてください。
書きたい小説を書いてください。俺が書けなかった分まで』
そのように、私への文面は締めくくられていた。
最後のページに記載されていたのは、この原稿は親戚や同郷だった人々の手によって本にされたらしい。
大志さんの死亡通知を受け、鍵を預かっていた菊さんや親戚の人が遺品整理の為に家に立ち入った時に原稿を見つけて、それを……。
だから、この本が世に出たんだ。
戦争の悲惨さを描き、当たり前の平和ではなかったということを今の私達に伝えてくれる内容が。
死を覚悟した文豪が後悔しないように生きて欲しいと、未来を生きる私達に遺してくれた。
この遺作によって。
タイムスリップした理由が、ようやく分かったような気がした。
まだ何も初めてないくせに言い訳ばっかして諦めている私を、菅原平成先生があの時代へ|誘《いざな》ってくれたんだ。
そう心付いた私は、ゴミ箱に捨てた冊子を拾い上げる。それは文学部が専攻出来る大学が発行している物だった。
『小説家になることだけを追い求めるのは辞めとき。それだけを軸にしたらアカン』
『それ一本やと、上手くいかんかった時に立ち回らんくなるから』
『だからな、その軸さえあれば俺は夢を追っていいと思うで』
あの星空の下で、その言葉を落としてくれた日を思い出す。
冊子をペラペラと捲ると文学部を卒業したら取得出来る資格、卒業生達の就職先、中には働きながらコツコツと小説を書き文学賞を受賞し兼業作家として活躍している人も居るとのことだった。
私がそんな逸材になれるなんて、身の程を知らないことを言うつもりはない。だけど就職先としてライターや編集者などの、文章を書いたり物語に触れる仕事をしてみたいと望むことすら出来ないのだろうか?
机上に置かれた紙を見ると、それは進路希望表。
そこには私の希望と掛け離れた大学名が記入してあり、字は乱雑。投げやりに書き込んだ私の荒れた心が露わになっている。
そんなグチャグチャな気持ちと共に字を消そうと、小さくなった消しゴムを親指と人差し指で握るけど、私の指先は震えていた。
大学で勉強しながら、小説を書くの?
今まで出来なかったんだよ? そこまでの覚悟ある?
お母さんとお父さんを説得? 兼業作家になりたいから文学を大学で勉強したいと頼むの?
……私なんかに出来る?
両親の咎めるような顔が容易に浮かび、次は唇が震え出した。
しばらく考え込んだ私は指に力をいれ、文字をゴシゴシと消していた。
出来るかじゃない、やるんでしょう?
私は生きる為に、重たいバケツに入った水を腕がもげるかと思いながら何往復もしながら運んで。多量の汗をかいて目と喉の痛みに耐えながら息を切らせて、釜戸の火を焚いてご飯と味噌汁を毎日作って。洗濯板で腕がパンパンになりながらゴシゴシ洗濯して。腰の痛みに耐え、手の平のマメが潰れるぐらいに畑仕事したんだよ?
出来るよ。あの過酷な時代を経験したのだから。
明日が来てくれるか分からない、怖さを知ったのだから。
大切な人の死を、受け入れたのだから。
遺された本を手に取り、強く抱き締め思う。
だけど私は、あなたを忘れることだけは出来ません。
柔らかな笑顔も、温かな声も、優しく包み込んでくれる体も、伝えてくれた大切なことも、全て私の心に刻まれたことだから。
目を閉じ、ただその死を悼んでいると、温かな風が髪を優しく揺らしてくれる。
『頑張りや、和葉』
あまりにも柔らかな声に目を開けると、窓からは金色に輝く黄昏時の空が広がっていた。
それは大志さんと出会ったあの日の空に続いている。そんな気がした。
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