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……苦しい。


胸が押し潰されるようで、息がままならない。



ドンッという大きな衝撃。

悲鳴。

身体がひしゃげるような痛み。


苦しくて、痛くて怖くて―――はっとして、目が開いた。




酸素を取り入れようと、ぜいぜいと息をする。

全身に嫌な汗がまとわりついていた。


(ここは……)


石造りの天井が目に入る。

木綿のシーツ越しに、ベッドの硬い感触が伝わってきた。

見慣れた部屋のようで、どこかまだ夢を見ているような心地がする。


自分は……こことは全く違うところで過ごしていたような感じもしたからだ。


(私……)


重い体を起こしかけた時、ドアが開く音がした。

入ってきたのは年配の修道女で、目が合うなり「困った人だ」とでもいいたげな苦笑いをこぼす。


「オリビア、寝坊ですよ」


近づいてきた修道女は、ベッドの端に腰を掛け、私の額に手を当てた。


「熱はないようですね。寝坊なんて珍しい。顔色がすこしばかり悪いですが、緊張しているのですか?」


(緊張……?)


思い当たる節がなく、記憶を辿ろうとして、ぼんやりとだが異なるふたつの記憶が浮かび上がってくる。



(え……?)


それはここでの暮らしと、“詩織”として生きた別の記憶で―――。



不思議な違和感に思考を止めた時、額から修道女の手が離れた。


「いよいよ出立の時が来ましたね。今日はあなたの20歳の誕生日。定めの時です」


言われて顔を上げた。

厳格そうな、でも優しさも感じる修道女と目が合う。


……そうだ。今日は私の誕生日。

以前から伝えられていた、王宮に入る日だ。


「……ご心配をおかけしました。シスター・テレジア。すぐに着替えます」


記憶が定まったからか、目の前にいる修道女の名前がするりと出てきた。


シスター・テレジアが退室すると、ベッドを降りて古い箪笥に近づく。

習慣でグレーの修道服を手に取ろうとして、あっと思い直し、下の引き出しをあけた。

詰襟の真っ白な衣服が顔を覗かせる。


純白という色は、普段司祭さまや司教さましか着ることがない。

けれど私は王宮に入る時、この衣服を着るよう言われていた。


初めて袖を通す衣服を身につけ、鏡の前に立つ。

腰のあたりまである銀色の髪を丁寧に梳き、改めて鏡の中の自分を見つめた。


銀色の髪と蒼い目。

それはいにしえから伝わる、聖女の証。


私―――オリビアは、生まれながらに聖女として生を受けた。



両親のことは覚えていない。

私が聖女だとわかると、両親はこの由緒ある修道院に私を預けたそうだ。

それからは、この外界との接点をほとんど持たない、断崖絶壁にあるエルマーナ女修道院で暮らしてきた。



ルクレ王国はこのエルマーナ女修道院はもちろん、各地にある教会を保護している。

幼き日、修道長が私に言った。


“オリビア。あなたはこの国唯一の聖女です。聖女は20歳になれば、神だけではなく国にも仕えるのですよ”


その意味を当時の私は理解せず、ただ特別な存在なのだと無邪気に喜んでいた。

10歳の時、修道長から「時がくれば力を使える」と言われ、いずれ聖女として国に奉仕するのが務めだと思って生きてきた。



王宮に移るとなると、ここでの生活も最後になる。

いろいろなことが思い出される中で、ふいに頭の隅から別の記憶も顔をもたげた。



“立野さん”



聞き覚えのある名前に、かすかな懐かしさが胸をかすめる。


クリーム色の病院の廊下。

同僚の声。

カルテの山。

【小児病棟】のプレート。



(あ……)


頭に浮かぶ切れ切れの映像を、“夢”ではないと感じた。


この感覚は夢ではない。

断片的に思い出される記憶が、紐のように連なって次々と記憶を連れてくる。


(……そうだ、私は―――)


これは……オリビアとして生きる前の記憶だ。




ぼんやりしていた私は、はっとして鏡に映る自分を見つめた。


“立野詩織”


それが……私のもうひとつの名前だ。


立野詩織は銀髪碧眼ではなく、黒髪で茶色い瞳を持つ27歳。

そして、小児科の看護師だった。



カトリック系の総合病院に勤務し、その日は夜勤で夜道を病院へと歩いていた。

でも―――。



大きな衝撃と悲鳴。

身体がひしゃげるような痛み。


息が苦しくて、できなくなって―――。


意識を手放したところで、“詩織”としての意識も途切れていた。




さっきうなされながら目覚めたことが蘇る。

そうか、私……。



信号無視してきたトラックが飛び出してきたところまでは覚えている。

けれど、その先はわからない。

衝撃と痛みしか記憶がないことから、たぶん私は轢かれて死んでしまったんだろう。




“立野さん。小児の緩和ケアが設立されるそうよ”


その知らせを同僚から受けた時、これだ、と浮足立つ気持ちになった。


治療を受けて元気になる人もいるし、どう手を施しても救えない命もある。

そんな場面に直面する度、やるせなさに打ちひしがれた。

小児科に配属されてからは、幼い命が亡くなる度に、ことさら胸が痛んだ。



どうにもならないとわかっていても、なんとかしたい、役に立ちたいという気持ちは強くなる。

だから、小児にも緩和ケアができるというのは嬉しかった。

少しでも痛みに寄り添い、気持ちが和らぐ道はないか探したいと、緩和ケア担当の看護師を志願したばかりだったのに―――。





身の周りを整え、向かった広間には大勢の人が集まっていた。

ここで暮らすすべての修道女のほか、教区を担当する司祭さまも来られていたのには驚いた。

王宮へ出立するなんて稀なことだろうが、私ひとりが行くのに、まるで祭事のような顔ぶれだ。


「オリビア。これまでその身を神に捧げてきました。これからは聖女として、民のため、国のためにも奉仕するように」


恐縮しつつ修道長の言葉を聞き、教会に移って司祭さまから出立の洗礼を受けた。


物心つく前から修道院で暮らしてきた私は、固く閉ざされた修道院の外に出たことはない。


初めて見る門扉の向こうには、岩肌を巻くように作られた小道があった。

そのずいぶん下に、王宮からの迎えと思しき馬車が止まっているのが見える。


「行ってまいります」


これまでの感謝を述べ、石と砂利の小道を下って馬車に乗った。



馬車は広くないが、椅子は布張りで、修道院の木製の椅子より座り心地がいい。

馬車に乗ることも初めての私は、緊張しつつも物珍しさで車内を眺めた。


はすむかいに座る王宮からの従者とは挨拶はしたが、それ以上の言葉はない。


(これからどうなるのだろう)


出がけに修道長から、王宮や王族について簡単に話はあったが、それだけでは心もとなく不安になってくる。



でも……私のやるべきことは、聖女としての務めでしかない。

国のため、民のために身を捧げなくては……。





王宮に着いたのは、修道院を出て半日が過ぎようとする頃だった。


馬車の窓は閉じていたため、道中の景色はわからず、いきなり着いたと言われれば、長旅の疲労より再び緊張が表立つ。


おそるおそる外に出て、まわりを見渡した瞬間―――目に飛び込んできた景色に、束の間緊張が吹き飛んだ。


(すごい……)


まばゆいばかりの壮大な宮殿に、目をみはった。


宮殿へ続く石畳の道の横には、左右対称の芝の庭がある。

植木は刈り込まれ、花壇は赤を基調としており、宮殿を主として調和の取れた風景は見事だった。



宮殿正面玄関へは、半円を描くふたつの石造りの階段があった。

出迎えてくれた従者に続いて中に入っていく。


廊下は数々の絵画や装飾で彩られていた。

質素を主とする修道院で暮らしていた私にはまばゆいばかりで、興味はあるが気後れしてしまう。


(しっかりしないと……)


自分を奮い立たせ、入った謁見の部屋は、ひときわ豪奢な造りだった。

太いアーチ状の柱には聖典をモチーフにしたフレスコ画が描かれ、天井からはいくつものシャンデリアが下がっている。天井そのものも精緻な彫りが入っていて、金箔もあしらわれているようだった。



部屋の奥、赤いじゅうたんの壇上では、立派な椅子がひとつあった。

そこに黄金色の髪をした、20代半ばに見える男性が座っている。

その横には美しい女性の姿があった。


(あれは……)


この国の王レオ・ドゥ・クルーゼルさまと、妻であるカリナさまだ。

出自の関係で、カリナさまは正妃ではないと修道院を出る前に教えられたが、それ以上のことはわからない。



国王陛下は笑みのない無表情でこちらを見ていた。

濃紺の胴衣には金糸で王族の紋章が入っており、宝玉があしらわれたベルトは権力の象徴のように思える。

その横のカリナさまは、可憐な面立ちを際立たせるラベンダー色のふんわりしたドレスを身につけ、胸元や裾にかけてはふんだんにレースやフリルがあしらわれていた。



「ようこそ、シェーンポール宮殿へ。聖女を歓迎する。これからは我が国のために尽力せよ」


国王陛下の言葉に、はっとして丁重に礼をとった。

すこしして、上から小鳥のように軽やかな声がする。



「宮中でなにかございましたら、なんなりとお話しください。至らないこともあるかと思いますが、力になります」



再び礼をとった後、顔をあげる。

ゆるりと口元をあげて微笑んだ、カリナさまと目があった。

国王陛下は近寄りがたい雰囲気があるが、その横で柔らかい笑顔を浮かべるカリナさまは、まるで国王陛下のとなりに咲いた可憐な花だ。


緊張していたが、優しい言葉をかけてもらい、すこしだけほっとする。



「では早速だが、聖女に仕事だ」



ほっとしたのも束の間、国王陛下の言葉に緊張が強まった。


国王陛下が臣下に目配せをし、さらに別の臣下が扉から出ていく。

なにが起こるのだろうと不安になりながら扉のほうを見ていると、しばらくして担架で担がれただれかが入ってきた。


(えっ)


その人は包帯を全身に巻かれ、血も滲んでいる。

顔にも包帯が巻かれていたが、その下から覗く表情は苦痛に歪んでいた。


(どうしたの)


ただごとじゃない様子に、看護師としての性が働き、とっさに体が前に出た。

その時、国王陛下の声が聞こえる。



「この者を治せ」



短い言葉に、動きがそこで止まった。


(え……)


壇上を振り仰げば、さっきと変わらない無表情で、国王陛下がこちらを見ている。



「聖力を使え」



聞きなじみのない言葉に、混乱はますます強くなった。



聖、力……?


おそらく私が持っているとされる“力”を指すのだろうが、私自身それがどのような力なのか知らない。


聖女として育ったものの、修道院で特別な力を感じたことはなく、なにか教えてもらったわけでもない。

ここへ来ればだれかが教えてくれるのだろうと、なんとなくだが思っていたところもあった。


鼓動が早鐘を打った。

この場全員の注目を浴びる中、どうすればいいかわからず頭の中が真っ白になる。

国王陛下の冷たい視線に耐えかねて、無意識にケガを負っている人に目を移した。


担架の上にいるのは男の人だった。

男性は相変わらず苦しそうにうめいている。

痛ましい姿を見ながら動けずにいると、ややあってカリナさまの小さな声が聞こえた。



「まぁ……。もしかして聖女さまは、この者を治せないのでしょうか……」



ひとり言のような物言いだったが、水を打ったように静まり返っていた広間は、弾かれたようにざわめいた。

見ればカリナさまは、口元に手を当て、困ったように微笑んでいる。



……どうしよう。

どうすればいいの。


冷汗が額に滲んだ。


焦りと不安。

このままでは役立たずだと処罰されるのではないかというおそろしさ、目の前のケガを負っている人を助けられないかもしれない怖さが湧きあがってくる。


(どうしよう)


なにもせずほうっておけば、この人はどうなるかわからない。

とにかく状態を見なければ、と、その一心で近づいた。


担架の前で膝をつくと、男性は切り傷と全身の打撲がひどいようだった。

“詩織”として病院に勤務していた頃、倒壊した建物から救助された人がこのような有り様で運び込まれてきたことを思い出す。


(どうしよう)


なにかないかと、自然と視線がさまよった。


治せと言われても、ここには治療道具も薬もない。

清潔な水も包帯の替えすらもない。


それでもなにかできないかと、看護の知識を引っ張りだしかけた時、今は“オリビア”として生きていることを思い出した。


この世界では、医療といえば医術ではなく祈りが主だ。

ルクレ王国では万物の命は神が決めるという考えから、薬は最低限の使用に留められている。

例外は王族で、神に選ばれた人間だとされる彼らの健康の維持に薬が使用されているが、民は別だ。


病気やケガをした人々に対し、司教さまをお呼びしたり、位の高い修道女が祈りを捧げたりしていたが、治癒効果はいわゆるプラセボ効果―――“期待効果”に頼るものだった。

神や神官に対する信頼、神へ信仰の深さにより救われるという暗示で効果を得られる人もいたが、根本的な治療ではない。


改めて男性の全身を見れば、やみくもに包帯を取ったりすれば、皮膚が損傷してしまうように思えた。


司祭さまが患者にしていたのを思い出し、見よう見まねで男性の手を取る。

包帯が巻かれていない部分の肌は冷え切っていて、体温もずいぶん低かった。


(せめてこの人に、私の体温がすこしでもわけられればいいのに―――)


祈りだけでどうにかなるとは思えないが、せめて私を暖として、この人がすこしでも温まってくれないだろうか。


男性の手を握り、すがるように祈る。


神さま。どうかこの方をお救いください。

……私に聖女としての力があるなら、どうか―――。


包み込むようにして男性の手を握っていると、心なしか自分の指先が温かくなった。


(こうやって、私の熱をこの人に分けてあげられないだろうか)


せめて神さまにそれだけでも聞き入れてほしい。


お願いします、と強く強く祈っていると、指先は一段と温かくなってきた。

だんだんと指先から手全体が温かくなっていき、感じた違和感に思わず目をあけた。


(え……)


男性の手を握る私の手は、うっすらとだが光を帯びていた。


(えっ)


驚きで大きく目を開くのと、光が強まるのは同時だった。


その時、自分の中から、なにか熱いものがするりと出ていく感じがする。



「―――」


ドクン、と大きく脈を打った。


それと同時に、男性に向かって、指からあたたかな光が飛び出した。

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