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「お父様、どうか……もう少しだけ、待っていてください……」
私は祈るような心地で、ボロボロになった自分の手のひらを見つめた。
かつてはシルクのドレスを纏い
柔らかな陽光が差し込む庭園で、風にのせてハープを奏でていた手。
白く、細かった指先は、今や没落貴族の娘として泥にまみれ、家計を支えるために鍬を握り
夜通し針を通し続けたせいで、あちこちに小さな傷と吸い殻のような硬いタコができている。
けれど、そんな痛みなどどうでもよかった。
今、私の目の前に広がるのは、生者をも拒絶するような漆黒の口を開けた「禁忌の森」───
父を救うための最後の手がかりを求め、私はその境界線に足をかけようとしていた。
父、アランは、母を亡くしてから不器用な手つきで私の髪を結い、男手ひとつで私を慈しみ育ててくれた。
私にとっては、この世界で唯一の、太陽のような温かい存在。
その父が原因不明の病に倒れてから、季節は残酷にも一つ、巡ってしまった。
名だたる医者たちは一様に首を振り
「もはや時間の問題だ」と、まるで死神の宣告のような言葉を私に投げつけた。
絶望の淵で、私は縋るように街の古老の噂を拾い集めた。
『禁忌の森の最深部、そこに住まう孤高の狼──
獣人のもとへ辿り着けば、どんな病も霧散させる奇跡の治療薬が手に入る』
禁忌の森。そこは、一度足を踏み入れれば二度と戻っては来られないと恐れられる呪われた聖域。
そこに棲む獣人は、人を喰らい
骨まで砕く残虐な魔物だと子供の寝かしつけにまで使われる怪談の主だ。
それでも、私に迷いはなかった。
お父様が冷たくなっていく恐怖に比べれば、魔物に喰らわれる恐怖など、羽毛よりも軽い。
「お父様を助けられるなら……たとえ悪魔に魂を売ることになっても構わない」
私は震える足に力を込め、一歩、踏み込んだ。
森の中は、想像を絶するほどに暗く、粘りつくような湿気に満ちていた。
空を覆いつくすほど鬱蒼と茂る巨木が陽光をことごとく遮り、足元には見たこともない色彩の茸や
獲物を絡めとろうと這いずる毒々しい蔦がうごめいている。
時折、頭上でバサバサと不気味な羽ばたきが聞こえ
どこか遠くで地を這うような獣の唸り声が響く。
そのたびに、私の心臓は肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打った。
「落ち着け、ベル…お父様のためよ、大丈夫……」
自分に言い聞かせる声さえ、湿った空気に飲み込まれて消えていく。
古老から聞いた「三つのねじれた大木」を目印に
私はさらに奥へと、光の届かない闇の深淵へと進んでいった。
どれほどの時間を彷徨っただろうか。突然、空気の質が変わった。
#王子