テラーノベル
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第十五話 無様に
ウラシェルを抱えて、急いで馬車を降りる。
御者が私の嘘を信じ、手伝ってくれたおかげでなんとか館までウラシェルを運ぶことができた。
次女に見つからないように裏口から館へと戻る。
アルプスに行くには上着を取ろう。
私の部屋へ向かったが、そのときに思い出した。
小さくなったからと、上着を処分したのだった。
でも、ドレス一つでアルプスは……。
そうだ、父から借りようか。
私は父の書斎へ急いだ。
「上着か。私のは大きすぎるだろうから、母のを借りなさい。ほら、そこに置いてある」
父の目線の先には、畳まれた上着。
かつて母が着ていたものだった。
「ありがとうございます、お父様」
「上着を着て、どこへ行くのだ?」
私は本当のことを言おうか躊躇った。
でもアルプスに登るなんて言ったら、護衛を連れて行かれる。
ウラシェルを隠せない。証拠が残る。
「……今日は風がかなり強かった、ので、あまりにも寒くて……取りに帰ってきたのです」
「そうか。気をつけて行ってきなさい」
私は書斎を後に、廊下と階段を駆けた。
何を思ったのか、私はまた自分の部屋へ足を運んでいた。
栄光の手。
気のせいかわからないけれど、少し元気がなさそう。だらんとなっている気がする。
布で包み、懐へ。
力の象徴。我が家系の名誉。
これを見ると、安心する。
やる気になる。なんとかなる気がする。
ウラシェルの手も栄光の手にしても構わない。
大丈夫。きっとうまくいく。うまく。
栄光の手をご覧。
戦いの栄光がまだ残っている。きっと。
ウラシェルを抱え、アルプス近くの村行きの馬車を頼む。
ここからは、御者には頼めない。
アルプスまで、最後まで、彼のことは私が見るのだ。
思わず息を吸う。
腕の痺れで眠気が飛んだ。
ウラシェルの上着の上部を引きずり歩く。
疲れで息が荒くなってくる。
思っていたよりずっと重い。
けれど、離す気はなかった。
馬車を降りてから、どれくらい歩いただろう。
もう村の灯りは見えない。風の音だけが、山の斜面を削るように吹き抜けている。
御者が手伝おうかと言ったとき、断ってよかった。
この人を運ぶのは、私の役目だ。
私が始めたことなのだから。
足を引きずりながら、雪の残る石だらけの斜面を進む。ドレスの裾は泥と氷で重くなり、靴底は何度も滑った。
息が苦しい。胸が焼ける。
私は今、どんなに無様な有り様だろうか。
きっと、垂れ下がった栄光の手のような有様だろう。
それでも止まらない。
止まったら、考えてしまうから。
村を通っているとき、視界の端に古い石の柱が見えた。
見覚えがある形だった。
あの村は、母が最後に立っていた場所。
あの日のことは、今でも鮮明に──
思い出してはいけない。
私は首を振り、視線を上げた。
目指すのはもっと上。もっと人のいない場所。
風が強くなる。木々が減る。
空気が薄い。
ウラシェルの体は静かだ。それはもちろん、もう……私が……。
その顔を見ないように、私は前だけを見る。
冷たいウラシェルのその体が温まるまで、私の体が温まるまで、歩きましょう。
やがて指先の感覚が鈍くなっていることに気づいた。
暗くなる前に火がいる。
でも、火の起こし方なんて知らない。暖炉はいつも誰かが用意していた。
どうしよう、と辺りを見回したとき、足元に小さな音がした。
革の袋。
ウラシェルの懐から落ちたらしい。
こんなものをウラシェルは盗んだのかと思い手に取る。
開けると、火打ち金と石、それから黒く焦げた布のようなものが入っていた。
火打ち金は知っている。これで火が起きる筈だ。
落ちている一番太い枝を探して打ちつける。火花は散るけれど、何も起きない。
枝が悪いのか。
他に太い枝が無いか探したが、一番大きくて手首ほどの枝しか見当たらなかった。
その枝の先に、琥珀色の塊がついていた。べたついていて、汚らしい。
こんなもの、触りたくない。
でも他に太い枝はない。
何かで隠したい。見たくない。
ああ、布。
私は栄光の手を包んでいた布を出そうとしたが、大切なものを守るための布をこんなものに使いたくない。
ドレスを裂くなんてできない。
そこで思い出す。
あのとき巻いた、ウラシェルの包帯。
私はしゃがみ込み、彼の手袋を外し、包帯をほどいた。
また手袋をはめ直してから、その包帯を枝の先に巻きつける。
火花を落とす。
一瞬だけ赤くなって、すぐ消えた。
苛立ちがこみ上げる。
何度も何度も打ちつける。
「なんで……ああもう!なんで、なんでなんでなんでっ!」
その拍子に、袋の奥から黒い布切れが転がり出た。
煤だらけの、ただのゴミみたいな布。
気持ち悪い。
言うならウラシェルが初めてきた時の汚れを全てまとめたような汚さ。
火打ち道具に入っているなら、庶民はこの汚い布に火をつけていたのか。
火花を落とすと、その布はじわりと赤く光り始めた。
小さな命みたいに、消えずに残る。
私はそれを枝の先に押し当てる。
だんだんと火が大きくなり、手に当たりそうで怖かった。
包帯の隙間に入れ込んで、アルプスの風と共に息を吹きかける。
煙。
焦げる匂い。
包帯が燃え移り、琥珀色の塊が溶けて、ぱっと炎が立ち上がった。
思わず息を呑む。
火。
揺れる橙の光が、雪と岩と、私の手を照らす。
そして足元に横たわるウラシェルの顔も。
風が吹き、炎が大きく揺れる。
笑っているみたいに見えた。
祝福か、嘲りか。
分からないまま、私は松明を握りしめた。
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