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210
### 私しか知らない紫陽花
水族館を出た時には、空はすっかり曇っていた。
さっきまで見ていたクラゲたちの青い光が、まだ瞼の裏に残っている。
「楽しかったですね」
紫陽花がそう言う。
玲奈は少しだけ笑った。
「うん」
それだけだった。
けれど紫陽花は知っている。
玲奈が本当に楽しかった時ほど、言葉は短くなる。
二人は並んで歩く。
休日の街。
少し冷たい風。
そして。
ぽつり。
紫陽花の頬に雨粒が落ちた。
「あ」
顔を上げる。
次の瞬間には空が崩れた。
激しい雨だった。
慌てて近くの屋根の下へ駆け込む。
通りには同じように雨宿りする人が増えていた。
「すごいですね」
「思ったより酷い」
玲奈も苦笑する。
紫陽花はスマホを取り出した。
雨雲レーダーを確認する。
そして露骨に顔をしかめた。
「どうしました?」
「見ます?」
差し出された画面を見て玲奈も黙った。
真っ赤だった。
どこを見ても真っ赤だった。
「長い?」
「二時間以上です」
二人は同時にため息を吐いた。
近くのカフェへ向かう。
満席。
レストランも満席。
チェーン店も行列。
雨宿りできそうな場所はどこも人で溢れていた。
「詰みましたね」
紫陽花が小さく笑う。
玲奈も笑うしかない。
行き場がない。
帰るには雨が強すぎる。
その時だった。
紫陽花が足を止める。
玲奈も視線を向けた。
雨の向こう。
ネオンが滲んでいる。
紫や青や赤の光が濡れた路面に揺れていた。
見慣れない看板。
並ぶ建物。
ここがどういう場所なのか。
二人とも知っている。
だから何も言えなかった。
「……」
「……」
妙に長い沈黙だった。
玲奈は小さく息を吐く。
それから紫陽花を見る。
頬は少し赤い。
視線も落ちている。
きっと意識している。
だから玲奈は先に逃げ道を用意した。
「別の場所探そうか」
優しい声だった。
冗談もからかいもない。
ただ紫陽花が困らないように。
いつも通りの玲奈らしい言葉。
紫陽花は小さく頷いた。
「そうですね」
二人は歩き出した。
けれど。
十分後。
二人は再び同じ通りへ戻ってきていた。
どこもいっぱいだった。
雨はさらに強くなっている。
雷まで鳴り始めた。
紫陽花は小さく肩を震わせる。
玲奈はそれに気付く。
けれど何も言わない。
その優しさが少し嬉しかった。
再び沈黙が落ちる。
雨音だけが響いていた。
玲奈はもう一度息を吐く。
「やっぱり別の――」
言いかけて。
一歩後ろへ下がる。
その瞬間だった。
指先に柔らかい感触が触れた。
玲奈は目を見開く。
視線を落とす。
紫陽花の小指だった。
俯いたまま。
顔は見えない。
けれど耳だけが真っ赤だった。
玲奈の呼吸が止まる。
紫陽花は何も言わない。
ただ。
そっと。
玲奈の小指へ自分の小指を絡める。
そして。
くいっ。
ほんの少しだけ引いた。
玲奈が振り返る。
紫陽花はまだ俯いている。
恥ずかしくて仕方がないのだろう。
それでも。
指だけは離さない。
雨音が響く。
ネオンが揺れる。
数秒。
誰も何も言わない。
そして。
くいっ。
もう一度。
今度は少しだけはっきりと。
玲奈の小指を引いた。
まるで。
「待って」
そう伝えるみたいに。
玲奈は言葉を失った。
紫陽花の肩は小さく震えている。
勇気を出しているのが分かった。
帰りたくない。
もう少し一緒にいたい。
その気持ちが。
言葉にならないまま伝わってくる。
「……紫陽花」
名前を呼ぶ。
紫陽花は答えない。
代わりに小さく唇を噛む。
玲奈は困ったように笑った。
本当にずるい。
こんな風に引き留められたら。
離れられるはずがない。
「もしかして」
玲奈が言う。
紫陽花の肩が跳ねる。
「最初から計画してた?」
「え?」
「水族館」
「え?」
「雨」
「え?」
「私」
玲奈は指を折る。
「全部計画だった?」
「ち、違います!」
即答だった。
ようやく顔を上げる。
真っ赤だった。
玲奈は思わず吹き出しそうになる。
「本当に?」
「本当です!」
「怪しい」
「怪しくありません!」
玲奈は笑う。
紫陽花は恨めしそうに睨む。
けれど全然怖くない。
むしろ可愛い。
そして玲奈は小さく呟いた。
「でも」
紫陽花が固まる。
「誘ったよね」
その一言で。
紫陽花は何も言えなくなった。
雨音だけが響く。
やがて。
勇気を振り絞るように。
小さな声が落ちた。
「……帰りたくないです」
玲奈は黙って聞いている。
「もう少しだけ」
紫陽花の小指が少し震える。
「一緒にいてください」
沈黙。
長い沈黙。
けれど玲奈の返事は決まっていた。
「安心して」
紫陽花が顔を上げる。
玲奈は優しく笑った。
「計画だったとしても」
そして続ける。
「私は嬉しいから」
紫陽花は何も言えなくなる。
胸の奥が熱かった。
雨はまだ止まない。
玲奈はそっと歩き出す。
紫陽花の隣へ。
「行こうか」
紫陽花は小さく頷いた。
雨音に背中を押されながら。
二人は並んで入口へ向かう。
絡んだ小指だけを残したまま。
コメント
1件
うわあ…雨の描写と小指の絡めるシーン、めっちゃ刺さった…。 玲奈の「計画だったとしても嬉しい」ってセリフに全部持ってかれたわ。紫陽花が勇気振り絞って引っ張る感じとか、耳まで真っ赤になってるとことか、もう尊すぎて胸が苦しい…。 この空気感、すごく好き。次の話も楽しみにしてます!