朝の空気は澄んでいて、吐く息が白く淡く浮かぶ。
鳥のさえずりと、竹箒の「さら、さら」という音だけが境内に響いていた。
巫女――名を「紗良」という。
紗良は欠伸をかみ殺しながら、石畳の上に散った落ち葉を集めていた。
朱色の鳥居の向こうには、まだ人の気配はない。
参拝客が訪れるのは、もう少し日が高くなってからだ。
「……ふぁぁ……今日も静かねぇ」
誰に言うでもなく呟いたその声に、かすかに風鈴が応えたような音がした。
神社の拝殿の方から、ひゅう、と柔らかな風が吹き抜ける。
その風に混じって、微かな鈴の音が――聞こえた気がした。
「……ん?」
紗良は箒を止め、拝殿を見やった。
古びた御神木の影が朝日で黄金色に染まり、その根元あたりに、何か光るものが見える。
「また、誰か落とし物かしら」
そう言って近づいてみると、それは小さな狐の面だった。
子供の手のひらほどの大きさで、紐もなく、まるでそこに“置かれていた”かのようだった。
紗良がそれを拾い上げた瞬間――
背後の空気がふっと震え、彼女の耳元で小さな声が囁いた。
「……おはよう、巫女さん。」
びくりと肩を跳ね上げ、振り向いたが、誰もいない。
ただ、狐の面の奥で、淡く金色の光が瞬いた。
「……まさか、また神様のいたずら……?」
紗良は眉をひそめた。
けれどその口元には、ほんの少しだけ、眠気とは違う笑みが浮かんでいた。
こんな不思議な朝も、悪くない。
――その日、神社に小さな“変化”が訪れようとしていることを、
まだ紗良は知らなかった。
紗良が狐の面を手にしたまま、しばらく息を潜めていると、
掌の中の面がじんわりと温かくなった。
まるで小さな心臓が、そこに鼓動しているように。
「……なに、これ……?」
驚いて手を離そうとした瞬間、
面の目の穴から、ふわりと白い光が漏れ出した。
次の瞬間――
光は空中でくるくると舞い、淡い煙のように形を変え、
やがて掌ほどの大きさの小さな白狐になった。
「……っ!?」
尻もちをつく紗良の前で、白狐はふわふわと浮かびながら、
金色の瞳で彼女を見上げ、首をかしげる。
「おはよう、巫女さん。びっくりさせちゃった?」
声はさっきの囁きそのものだった。
けれど今度は、ちゃんと姿がある。
小さな狐の尾が二本、ゆらゆらと揺れている。
「……しゃ、喋った……!? え、夢……?」
「夢じゃないよ。ずっとここにいたんだ。
でも、君が拾ってくれなきゃ、目を覚ませなかった。」
紗良は口を半開きにしたまま、狐を見つめた。
白狐はにこりと微笑み――いや、狐が笑ったように見えた。
「僕はコハク。この神社に仕える神使。
君、紗良でしょ? やっと会えたね。」
「……やっと?」
「うん。ずっと、君が来るのを待ってたんだ。
“主(あるじ)”がそう言ってたから。」
朝の光が少しずつ強くなり、
境内の影が短くなっていく。
白狐の尾がきらりと光を反射し、
その瞬間、紗良の胸の奥で――何か古い記憶が微かにざわめいた。
紗良は狐の言葉に耳を傾けながらも、まだ現実感が追いついていなかった。目の前にいる小さな白狐の言葉が意味するところが理解できず、ただぼんやりとその金色の瞳を見つめている。
「主が待っていたって、どういうこと?」
紗良はゆっくりと、けれど確かめるように訊ねた。
コハクはその質問に少し間を置いて、ふっと微笑んだ。まるで紗良がこの瞬間を受け入れる準備が整うのを待っていたかのようだった。
「君が来るのを、ずっと待ってたんだよ。」
コハクの声には、どこか懐かしさが滲んでいる。
「でも、まだ君にはわからないかもしれないね。君が神社に来たときから、すべてが少しずつ動き始めたんだ。」
紗良は狐の話に混乱しながらも、ついに意を決してもう一度尋ねた。
「“主”って、誰?」
コハクはしばらく沈黙を保った。風が木々を揺らし、境内の静けさが少しだけ重く感じられる。
「……その質問の答えを知るには、少しだけ時間がかかる。」
コハクはぽつりと言った。
「でも、君が覚えているはずだよ。あの日――あの夜に、君が見た夢の中で、彼の声を聞いたことがあるはず。」
紗良の胸の奥で、何かがひっかかる。記憶の片隅に、ぼんやりと浮かぶ映像があった。確かに、数年前のある晩、夢の中で声が聞こえたことがあった。優しく、どこか懐かしさを感じる声だった。だが、その声が誰のものだったのか、どうして自分の夢に現れたのか、全く思い出せなかった。
「……私は、何も覚えていないわ。」紗良はゆっくりと、でも確かに言った。
「でも、もし本当に何か大事なことがあるのなら……」
その時、再び風がさっと吹き抜け、目の前の狐が少し浮かび上がるように動いた。
「大事なことがあるのは、紗良、君自身だよ。」
その言葉に、紗良は思わず目を見開いた。彼女は知らず知らずのうちに胸の奥で何かが動き出すのを感じていた。それは長い間閉じ込められていた何かだった。
「君が思っているよりも、この神社には深い歴史がある。そして、その歴史に君が関わっている。」
コハクは続けた。
「それがどういうことか、すぐには言えないけれど、君の中には答えがある。それを思い出すことで、全てが明らかになる。」
紗良は狐の言葉に少しずつ引き込まれていった。何か大きな力が動いている――そう感じた。
「でも、私には何も覚えがない。」
紗良は少し困惑した表情を浮かべた。
「私、ただの巫女よ。神社を守っているだけで……」
コハクはその言葉に微笑んだ。
「君は決して“ただの巫女”なんかじゃない。君がここにいる意味、そしてこれから起こることには、君が深く関わっている。」
その瞬間、遠くの竹林から不意に鳥の鳴き声が聞こえ、空気が一層澄んだように感じた。
何かが、確かに動き出している――そんな予感が、紗良の中で膨らんでいった。
「君が覚えるべきことを、少しずつ教えていこう。」
コハクは優しく言った。
「でもその前に、君にはまず自分の力を感じ取ってもらわないと。」
「力?」
紗良は不安げに尋ねた。
「私に、力なんてあるの?」
コハクはうなずき、尾を一振りすると、すぐにその姿が宙に浮かんで、紗良の手のひらに小さく光を集め始めた。
光は次第に形を成し、やがてそれが小さな神の力の象徴のようなものに変わっていった。
「これが、君の力の兆しだよ。」
コハクの目が輝く。
「君がそれを感じ取れば、君自身の力を引き出すことができる。」
紗良は目の前で起こっていることに驚きながらも、どこか懐かしさと共にその光を見つめた。
何かが確かに、彼女の中で目覚めようとしている。
「少しずつでいい。」
コハクは言った。
「君が思い出していくこと、それが神社の運命を決めることになる。」
そしてその瞬間、紗良の体の中で何かが静かに動き、ほんの少しだけ、古の力を感じ取ったような気がした。
それは、まだ小さな一歩だったけれど、確かに“何か”が始まったことを、彼女は感じていた。
――この日から、神社に小さな“変化”が訪れ、紗良の人生は大きく変わり始めることになるのだった。
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