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東京都新宿区。
都内某所にある国立高度医療センター。
その最上階にある特別個室の窓からは、曇天の東京の街並みが広がっていた。
無機質な電子音だけが、一定のリズムで時を刻んでいる。
ピッ、ピッ、ピッ……。
心電図モニターの波形は、この部屋の主の命が風前の灯火であることを、残酷に示していた。
ベッドに横たわっている男の名は、鬼塚(おにづか)ゲン。
警視庁公安部外事課。
その世界で「鬼のゲン」と呼ばれ、数々のテロリストやスパイを震え上がらせた伝説の捜査官だ。
だが今の彼に、その面影はない。
年齢は五十五歳だが、見た目は七十を超えた老人のように枯れ果てている。
頬はこけ、眼窩は落ち窪み、かつて鋼のようだった筋肉は削げ落ちて、骨と皮だけになっていた。
「……ふぅ、ふぅ……」
浅い呼吸を繰り返すたびに、胸の奥で錆びた刃物が暴れるような激痛が走る。
膵臓癌。ステージ4。
発見された時には、既に手遅れで、肝臓や肺にも転移していた。
現代医療の敗北。
余命宣告は「あと一ヶ月」。
だが鬼塚自身は悟っていた。
おそらく今週が山場だろう。
コンコン。
控えめなノックの後、かつての部下たちが顔を出した。
彼らは高級なメロンや花束を抱え、痛々しいほど気を遣った表情をしている。
その視線にあるのは「憐れみ」だ。
かつての鬼上司が見る影もなく衰弱している姿に対する、残酷なほどの同情。
それが鬼塚のプライドを、何よりも傷つけた。
十分ほどの当たり障りのない会話の後、彼らは逃げるように去っていった。
再び静寂と、電子音だけが残る。
鬼塚は目を閉じた。
これでいい。老兵は静かに消え去るのみだ。
だが、その静寂を破るように、再びドアが開いた。
今度はノックなしだ。
「……お父さん」
凛とした、しかし微かに震える声。
鬼塚はゆっくりと目を開けた。
そこに立っていたのは、一人の若い女性だった。
黒いスーツに身を包み、髪を後ろで束ねた知的な美女。
一人娘のマリだ。
彼女もまた父の背中を追って公安警察の道を歩んでいる。
現在は内閣情報調査室に出向中だ。
「……マリか。仕事はどうした」
「休憩時間に来たの。……顔色が悪いわね」
マリはベッドの脇に立ち、父親の痩せ細った手を握った。
その手は冷たく、血管が浮き出ている。
彼女は悲しみを押し殺すように、唇を噛んだ。
「……お父さん。今日は話があって来たの」
「遺産の話なら、もう整理してあるぞ」
「違うわ。……もっと重要な任務の話よ」
マリは周囲を警戒するように、一度廊下を確認し、声を潜めた。
そして鞄から一枚の書類を取り出した。
『未承認医療技術・臨床試験同意書』。
その上部には、見たこともないプロジェクトコードが刻印されている。
「……政府が極秘に入手した、未知の『新薬』があるの。
劇的な細胞修復効果があると言われているわ。
ただ、データが不足している。
人間に投与した場合の副作用も、長期的な影響も未知数。
……つまり、モルモットよ」
マリの声が震えた。
実の父親に人体実験の検体になれと言うのだ。
娘として、これほど辛いことはないだろう。
「政府は被験者を探していたわ。
身元が確かで、守秘義務を絶対に守り、そして……万が一のことがあっても社会的な影響が少ない人間を」
鬼塚は書類を見つめた。
なるほど。末期癌の元公安刑事。
国への忠誠心は保証付き。
そして放っておいても数日で死ぬ命。
実験台として、これほど好都合な素材はない。
「……お前が推薦したのか?」
鬼塚の問いに、マリの肩がビクリと跳ねた。
「……ごめんなさい」
彼女の手が小刻みに震えているのが分かった。
内調のエリートとしての仮面が剥がれ落ち、ただの娘の顔になっていた。
「私がリストに入れたの。
医者はもう無理だと言った。緩和ケアしかないって。
でも私は諦めたくなかった。
例え実験台でも、化け物になっても……お父さんに生きていてほしいの!」
涙が書類の上に、ポタリと落ちた。
彼女は自分が何をしたか分かっている。
父親を救うために、父親を国に売り渡したのだ。
もし実験が失敗して、苦しみながら死んだら、彼女は一生、親殺しの罪悪感を背負って生きることになる。
(……馬鹿な娘だ)
鬼塚は心の中で苦笑した。
だが、その不器用な愛情が、冷え切っていた彼の心に火を灯した。
「……ペンを貸せ、マリ」
「えっ……」
「国のためじゃない。
お前が俺を殺したと、一生悔やまないためにサインしてやる」
鬼塚は震える手でペンを取り、同意書にサインをした。
その筆跡は弱々しかったが、迷いはなかった。
鬼塚ゲン。
その署名が、彼の運命を大きく変える契約となった。
翌日。
鬼塚は厳重な警備体制の下、自衛隊中央病院の地下にある「特別隔離区画」へと移送された。
そこは病院というより、要塞の内部にある実験施設だった。
無影灯が眩しく輝く手術室。
分厚い防弾ガラスの向こうにある観察室には、白衣を着た医師団に加え、スーツ姿の政府高官たちの姿が見える。
その中には、内閣官房から派遣された日下部の姿もあった。
彼の手元には、赤いカバーの付いたコンソールがある。
『緊急浄化(パージ)』ボタン。
万が一、被験者が暴走し制御不能になった場合、手術室内に致死性の神経ガスを散布するための安全装置だ。
(……失敗すれば死体。成功しても怪物か)
日下部は胃の痛みを堪えながら、マイクに向かった。
「……これより、検体番号001に対する『医療用キット』の投与試験を開始します」
手術台に固定された鬼塚は、四肢を革製のベルトで拘束されている。
執刀医は防護服とゴーグルで完全武装している。
手には金属製の奇妙なデバイスが握られていた。
注射器ではない。
SF映画に出てくるような未来的なインジェクターだ。
シリンダーの中には、エメラルドグリーンに発光する液体が満たされている。
「バイタル、低下しています。……急いでください」
「投与開始します」
医師がデバイスを鬼塚の首筋に押し当てた。
プシュッ。
圧縮空気が解放される音。
冷たい液体が体内に滑り込んでくる。
その瞬間だった。
ドクンッ……ドクンッ……
心臓の鼓動が、奇妙なほどゆっくりと、しかし力強く聞こえた。
鼻をつく消毒液の匂いが消え、代わりに甘い花のような香りが脳髄を満たす。
感覚が変質していく。
そして、灼熱が走った。
「ぐっ……うううううっ!!」
鬼塚は歯を食いしばった。
痛いのではない。熱い。
全身の細胞が沸騰するかのように暴れ回っている。
骨が軋み、筋肉が収縮し、血管が脈動する。
「バイタル急変! 心拍数180! 体温42度突破!」
「代謝異常です! 細胞分裂の速度が測定限界を超えています!」
医師たちの狼狽する声が、スローモーションのように聞こえる。
だが鬼塚の体内で起きていたのは、崩壊ではなく「再構築」だった。
ナノマシン。
数兆の極小の機械たちが、プログラムされた通りに任務を遂行する。
膵臓の腫瘍が消滅する。
転移した肝臓の癌が、消しゴムで消すように綺麗になる。
萎縮した筋肉繊維が編み直され、脆くなった骨密度が鋼のように強化される。
観察室でモニターを見ていた医師の一人が、震える声で呟いた。
「……これは治療じゃない」
「え?」
「若返りでもない。人体の『設計図』そのものを書き換えているんだ。
老化した細胞を修復しているんじゃない。新品に取り替えている……!」
それは一分間の奇跡だった。
一人の人間が一生をかけて行う代謝と治癒を、六十秒に圧縮したかのようなエネルギーの奔流。
「……数値、安定しました」
「心拍数60。血圧120の80。……正常値です」
「腫瘍マーカー……検出限界以下。癌細胞が完全に消失しました」
医師たちが呆然と立ち尽くす中、手術台の上の拘束ベルトがギチギチと音を立てた。
鬼塚が身じろぎをしたのだ。
日下部の指が、コンソールのボタンにかかる。
隣に控えるSAT隊員たちが、麻酔銃のセーフティを解除する音がした。
「……熱いな」
鬼塚が呟いた。
その声には、先ほどまでの枯れた響きは微塵もなかった。
腹の底から響く重厚で力強いバリトンボイス。
彼は目を開けた。
視界がクリアだ。
天井の無影灯のフィラメント一本一本までが見える。
彼はゆっくりと上半身を起こそうとした。
拘束ベルトが食い込む。
ブチッ。
革のベルトが、あっけなく引き千切れた。
無理やり引きちぎったのではない。
ただ「起き上がろうとした」だけの動作に、ベルトの強度が耐えられなかったのだ。
「ひっ……!」
執刀医が腰を抜かして後ずさる。
日下部が息を呑む。
だが鬼塚は暴れなかった。
彼は自分の手を見つめ、握り込み、そして静かに医師を見た。
「……先生。検査は終わりか?」
その瞳には理性の光があった。
だが同時に、猛獣のような底知れぬ生命力が宿っていた。
数時間後。
別室にて精密検査が行われていた。
MRI、CTスキャン、血液検査、運動能力測定。
あらゆるデータが、鬼塚の「完全復活」を裏付けていた。
「……主要臓器の機能は二十代前半相当。骨密度は若者の150%。
反射神経、動体視力ともにアスリートレベルを凌駕しています。
医学的には『奇跡』としか言いようがありません」
ソファに座った鬼塚は、支給された新しいスーツに袖を通していた。
筋肉量が増え、以前の服はサイズが合わなくなっていたため、ワンサイズ上の特注品だ。
その背筋はピンと伸び、かつての「鬼のゲン」の威圧感が完全に蘇っていた。
日下部が複雑な表情で書類をめくった。
「おめでとうございます、鬼塚さん。実験は成功です。
……ですが貴方は、もう『一般人』ではありません」
「分かっている。検査漬けの日々だろう?」
「ええ。それに貴方の存在そのものが国家機密です。
本日付けで貴方の戸籍上の死亡届は保留されますが、公安部への復帰もありません」
日下部は眼鏡を光らせ、冷徹な事務口調で告げた。
「貴方の新しい所属は、内閣官房直轄……『特別強化要員(仮称)』です。
要するに、政府のモルモット兼、使い捨ての番犬ですよ」
辛辣な言葉だ。
だが鬼塚はニヤリと笑った。
「上等だ。
どうせ拾った命だ。ベッドの上で腐っていくより、よほどマシだ」
彼はガラスの向こうにいる娘マリを見やった。
彼女は泣き崩れていた。
父親が生きて戻った安堵と、彼を人間ではない何かに変えてしまった罪悪感で、顔を覆っている。
(……泣くな、マリ)
鬼塚は心の中で語りかけた。
(俺は、お前に感謝しているんだ。
この体なら、まだ戦える。
国を、そしてお前を守るために)
「日下部さん。
この薬……『テラ・ノヴァ』からもたらされた物だと言ったな」
「ええ、そうです」
「なら俺の新しい職場はそこか?
それとも、この力を使って国内のゴミ掃除か?」
「両方、頼むかもしれません。
工藤創一氏という『特異点』の護衛や、機密保持のための汚れ仕事……色々と働いてもらいますよ」
「了解した」
鬼塚はネクタイを締め直し、ビシッと敬礼をした。
指先まで神経の行き届いた、美しい敬礼だった。
「鬼塚ゲン、只今より現役復帰する。
……国のために、この命、骨の髄まで使い潰してくれ」
老兵は死ななかった。
ただ人間としての余生を終え、国家の最高機密兵器として生まれ変わったのだ。
その背中には、医学の常識を超えた「ナノマシンの加護」と、国と娘への狂気じみた忠誠心が宿っていた。