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何故殴ったのかと、怒りではなく悲しみでもって責めるように見つめる目が心の中に突き刺さり、消し去りたい一心でビールを飲んでいたのは、ウーヴェのクリニックの近くにあるパブに駆け込んだリオンだった。
己の行動が許せないのは理解出来るが、何よりも大切な人であるウーヴェの心身に深い傷を負わせた男を許せる筈などなく、リオンにしてみればあのぐらいで拳を納めたことを誉めて欲しいと言いたくなる程だった。
リオンのことを幼い頃から見守り続け、ことがあれば叱り諭し、それでも最後には必ず愛情を持って抱きしめてくれるマザー・カタリーナならば理解出来ると言ってくれるだろうかとぼんやりと考えていると隣で飲んでいる同年代の男が親しげに語りかけてくる。
それに上の空で返しながらビールを飲んでいたリオンだったが、ふと男に向き直るように身体を開き、一つ教えてくれないかと口を開くと男が興味深そうに首を傾げる。
「あんたさ、今恋人はいるか?」
「ああ、世界で一番可愛い彼女がいる」
「そっか。じゃあその彼女がレイプされたらどうする?」
「は!?ヘヴィな質問だな」
「良いから、どうするんだ?」
男が躊躇うように身体を引くがどうなんだと更に問いかければ、少し考えた後に男が顎を引いて真剣な話と前置きをして咳払いをする。
「どうだろうな…その時にならないと分からないが、相手が分かっているのなら殴ってやりたいね」
「やりたい?実際には殴らないか?」
男の言葉にリオンが意外そうに目を瞠り、殴ってしまうほど腹が立たないのかと呟くと、そりゃあ殴りつけて蹴り飛ばして再起不能にしてやりたいが、それをしても彼女の傷は癒えないと肩を竦められて目を細め、報復をしたことを彼女に自慢しても喜ばないとも告げられて口を閉ざす。
「俺の彼女は平和主義なんだ。殴られたから殴り返すなんて考えはこれっぽっちも持っていないからな」
それどころか、右の頬を殴られたら左の頬を出せと本気で言い出しかねないと、半ば自嘲気味に呟く男にリオンが呆気に取られ、これはまたすごい聖女だなと口笛を吹いてしまう。
「あんたはどうするんだ?」
「俺か?────殴りに行って…何故そんな事をするんだって泣きそうな顔で責められた」
つい先程の光景が脳裏に浮かび、それにあわせて今にも涙を浮かべそうな悲しい目で見つめられたことを思い出すとつい舌打ちをしてしまい、男の視線に気付いて咳払いをする。
「聖女じゃないが…暴力が本当に嫌いだからな」
「無条件に暴力反対と言ってこっちの気持ちを考えないタイプか?」
「いや、そうじゃない。俺の気持ちをまず考えるタイプだな」
「そうか…なら、あんたに殴りに行かせてしまったという思いが強いんじゃないのか?」
「へ?」
男の言葉が心底意外で、今までそのような考え方をする人間がいなかった為に想像もしなかったと呟くと、あんたに暴力を振るわせたことが悲しいんじゃないのかとグラスを持つ手で指し示されてそういう考え方もあるのかと呟いてしまう。
「俺も今の彼女と付き合いだしてから教えられた事だけどな」
「そっか……」
その一言で何かの憑き物が落ちたような清々しさを感じ、残っていたビールを飲んだリオンは、カウンターにグラスを置いて男に笑顔で礼を言う。
子どもじみたというよりは何か突き抜けたような明るい笑みに男が驚きに目を瞠り、こんな顔で笑える男もいるんだなと苦笑してしまう。
「ダンケ」
「どういたしまして」
胸の裡に巣くっていたやるせなさや苛立たしさが一気に昇華され、靄が晴れた心に広がるのはウーヴェに対する愛情だけで、また己も同じように彼から愛されていることを改めて気づけたことに軽く目を伏せたリオンは、二人分のビールを注文し、グラスを目の高さに掲げて乾杯と笑みを浮かべる。
「乾杯────お互いの平和主義の彼女に」
「ああ」
もっともこちらは彼女ではなく彼氏だがと内心で告げてビールを一気に飲み干し、お互いにとって気持ちの良い笑みを浮かべて支払いを済ませて店を出る。
「……オーヴェに謝らなきゃいけないなぁ…」
クリニックを飛び出す寸前、ウーヴェの口から己の思いが告げられないことに苛立ちを感じて舌打ちをしたが、ウーヴェは心の奥底でひっそりと出番を待っている思いを口にすることはまだまだ苦手で、どうしてもあのように辿々しいものになってしまうことを冷静になった今ならば思い出せるが、あの時は考えられなかったと空を見上げ、もう家に帰っただろうかと白い息を吐き出す。
ブルゾンのポケットから携帯を出してウーヴェの声を聞こうとダイヤルするが、残念ながら聞こえてくるのは呼び出し音だけで、不思議と心の中に入り込んでくる穏やかな声が流れ出す事は無かった。
何度か呼び出してみても出る事はなく、仕方がないと溜息をつきながらクリニックのあるアパートに駆け足で戻り、地下駐車場の定位置にキャレラホワイトのスパイダーが停まっているのを確認すると、エレベーター横の階段を一気に駆け上がってクリニックのあるフロアに向かうが、廊下に出る寸前に下ってくる青年に気付いて足を止める。
「リオン?久しぶりだなぁ」
「おー、クリスかー。仕事は終わったのか?」
ウーヴェのクリニックのワンフロア上にデンタルクリニックがあり、そこのドクターであるベンカーの助手を務める貴族然とした青年、クリスが久しぶりだと白い歯を見せるが、リオンは返事もそこそこに手を挙げ、その背中にウーヴェならば30分ほど前に暗い顔でクリニックを閉めて帰ったことを教えられて再度足を止める。
「帰った?」
「暗い顔をして歩いて帰っていったね」
スパイダーは駐車場に置いてあるのにおかしいと思いながらも見送ったことを教えられ、慌ててクリスの前に駆け戻ったリオンは、何処に行ったか分からないかと問い掛けるものの帰る姿を見かけただけだと肩を竦められて自嘲する。
「ケンカでもしたのか?」
「まあそう言う所だな。うん」
「そうか…早く仲直りしろよ」
「もちろん。今すぐ仲直りするさ」
クリニックの上下の誼なのかそれともウーヴェと自分を応援してくれているのか、ひと昔もふた昔も前ならば間違いなく名の通った貴族として社交界で名を馳せていただろう風貌を持つ青年の励ましに太い笑みを浮かべて頷き、ウーヴェがクリニックにいないことが分かった為、それならば自由に動ける己の愛車-古びた青い自転車-がある方が便利だと気付いて今度は自宅に向けて走り出すのだった。
閉ざされた視界に遠くを走る車のクラクションや行き交う人々の悲喜交々の声が響いていたが、そのどれもが己を責めているようにしか聞こえなかった。
自分の精神状態の悪化は顕著だったが、危険水域にまで達していることをぼんやりと考えると同時に、何度か携帯が震動で着信を伝えてくれたように感じ、膝を抱えて冷たいコンクリに座り込んでいたウーヴェは、のろのろと顔を上げて携帯を探り、コートのポケットから取りだして着信を確かめる。
何度か着信があったのは間違いではなかったようで、履歴にはリオンの名前とオイゲンの名前が表示され、どちらに電話をかけ直したとしてもきっと思うように口が動かないことと別れ際のリオンの冷たい目を思い出せばどうしても躊躇ってしまい、携帯をポケットに戻して溜息をつく。
オイゲンへの思いは暴力でもって己の思いを伝えてきた事が許せないとの思いと、それでもやはり己が信じた友人だからこそ許したいという思いが混ざり合ってどちらの感情にも振り子が揺れているような状態で、そうは思っていても現実的に今のように電話やメールを貰ってもそれを目にし、きっと書かれているであろう謝罪を受け入れられるのかも分からなかった。
だが、今はオイゲンとの関係の未来を思うよりももっと重要でそれこそ生死に関わりかねないことがあると顔を上げ、リダイヤルからリオンに電話をかけようとするが冷たい目を思い出してやはり躊躇してしまうものの、左足薬指を定位置としたリザードから力をもらって何度目かの躊躇いを振り切り、微かに震える指でリオンに電話をかけるが、コールがいつもの倍になっても声は聞こえてこなかったため、まだ腹を立てているか呆れているのだろうと自嘲し、膝頭に額を押し当てて唇を噛み締める。
胸の中で溢れそうになっている思いをそのまま口にする術は幼い頃からの教育の賜物で当然ながら持っていたが、事件に巻き込まれた時にそれらのすべて喪われてしまい、その後日常生活に復帰するリハビリとギムナジウムの入学に必要な学力を手に入れる為に複数人の家庭教師から教わっている時に改めてそれを取得したのだが、己の感情を口で説明することだけは未だに苦手だった。
クリニックに来る患者が悩み苦しむことへの助言など仕事に関することでは何の躊躇いもなく心の底から思っていることを告げられるのだが、自らのことになればどうしても喉に蓋がされたようになって言葉が出てこないのだ。
それがあの事件の後遺症であり、長い年月をかけても完治していない傷であることをウーヴェは誰よりも知っており、同じ時間をかけてもこの先完治する見込みがないことも良く知っていた。
ただ、以前までのウーヴェならば最早どうすることも出来ないと諦めていたそれだが、リオンと付き合いだしてから様々な感情を共有しあい、過去の一端すら共有しはじめてからは少しずつ意識が変化をしてきていた。
己の考えを素直に口にすると誰かが必ず負傷したり命を落としてしまうという強迫観念が常に存在していたが、リオンに優しかったり時には厳しい口調で諭されると、喉の蓋の下で言葉が細い水の流れのようにその隙間から零れるようになってきていた。
その小さな変化をリオンも感じ取ってくれていたと思っていたウーヴェだったが、クリニックを出て行く寸前のあの顔を見てしまえばそれはただの幻想だと、ようやく前を向いたウーヴェの顔を俯かせ手足を止めさせるような言葉が脳内に響いてしまう。
「─────!!」
そんなことはない、自分が愛しまた自分を愛してくれているリオンを信じられないでどうすると、リザードの冷たい熱を思い出して膝を抱えていた手で拳を作ったウーヴェは、掌に短く切った爪を食い込ませる勢いで手を握り、リオンならば話せば分かるだろうしまた分かって欲しいと奥歯を噛み締める。
例えいつものように滑らかに言葉が出てこなくともリオンが吐き捨てるように残した言葉への答えを伝えたいと握った拳を額に当てて腹を括り、ここに座り込んでいても仕方がないことにようやく思い至って立ち上がる。
目の前にある閉ざされたドアの向こうは己にとって掛け替えのない温もりと安堵を与えてくれる空間で、その部屋の主が不在の為に当然入ることが出来ずに待っていたが、ここで帰ってくるのを待っているのではなく自ら動こうと深呼吸を何度も繰り返して携帯を再度握りしめたその時、階段を勢いよく昇ってくる足音が響いて思わず飛び上がりそうになる。
「!?」
「オーヴェ!?」
いつもちょうど良いタイミングでクリニックに顔を出したり電話をしてきたりと、まるでセンサーか何かでも付いていて見計らったように顔を出すリオンだったが、さすがに今回ばかりはウーヴェもそのタイミングの良さを疑ってしまいたくなるが、それよりもただ顔を見ることができたという思いだけが溢れ、自宅前にまさかウーヴェがいるとは思ってもみなかった驚きを顔中で表現するリオンの顔を真っ直ぐに見つめる。
「リオン……話を聞いて…くれないか…?」
「うん……俺もオーヴェに聞いて欲しい話がある」
お互い手を伸ばせば触れあう距離で向かい合い、どちらも話したいことがあると伝えると、リオンが一つ肩を竦めてドアを開ける為に鍵を乱雑な手付きで突っ込んでドアを開ける。
「入れよ、オーヴェ」
「……ああ」
ドアを開けて招いてくれるリオンの背中を見ながら一歩を踏み出し、後ろ手でドアを閉めた瞬間、膝が崩れ落ちそうな程の安心感に包まれてしまう。
「オーヴェ?」
「何でも、ない……」
「そっか」
いつもならば何でもないと言えばいい顔をしないのに今夜は違うらしく、いつものように散らかっている部屋だがいつもの場所に座ってくれと告げられ、クッションをベッド傍の床に置いてその上に腰を下ろす。
安物のパイプベッドにもたれ掛かりながらクッションの上で落ち着ける姿勢を探し終えた頃、顔の前にビール瓶が差し出されて目を丸くする。
「喉渇いただろ?」
「…ありがとう、リオン」
リオンの気遣いを有り難く受け取り、喉が渇いていることにたった今気付いた顔で一口飲んだウーヴェは、自身もいつもと同じようにベッドに腰を下ろすリオンの動きを視線で追いかけるが、小さく溜息を零したリオンがウーヴェと向かい合うように腰を下ろしなおして胡座を掻く。
「オーヴェの話って何だ?」
「……さっきのことだ」
「うん。違うって言ってたことだよな?」
クリニックでの口論について切り出したウーヴェにリオンもなるべく冷静さを保ったまま話を聞こうと姿勢で示してくれる為、ありがとうともう一度告げて一度深呼吸をする。
「違うと言ったのは…オイゲンを庇っている訳じゃない、そう、言いたかった」
「……でもさ、俺が殴りに行った事が許せないんだろ?」
リオンの脳裏に自宅に戻る前に飲んでいたパブで知り合った男の声が蘇るが、まだ少し納得出来ない気持ちもあり、ウーヴェと己の真意を確かめる為に目を細めると、ウーヴェの白い髪が照明の下で左右に揺れる。
「お前を、許せない、んじゃない…」
ボトルを床に置いて一度口を閉ざしたウーヴェだが、いつもと同じ穏やかな瞳でリオンを真っ直ぐに見つめ、俺が弱いばかりにお前に手を挙げさせてしまったと告げて目を伏せ、もっと強ければそんな事にならなかったとも告げてリオンの目を瞠らせてしまう。
「俺の為に…誰かを殴る必要なんて、ない、んだ、リオン」
「どうしてだ?お前は俺にとって誰よりも…何よりも大切な人だ。そのお前が傷を負った。相手を許せるはずがないだろう?」
「……それは…俺もお前と同じ気持ちだ。でも…良いんだ、リオン」
もうお前が笑顔で拳を振り上げて傷付く必要はないんだと、微かに震える声で囁いて同じく震える唇の両端を持ち上げたウーヴェは、告げられた言葉の重さに気付いた顔で身体を硬直させるリオンに、今の己が持ちうる限りの愛情を込めて名を呼び、もうお前自身が誰かのために傷を負わなくて良いと告げて腿の上で拳の形になっている左手を掴んで己の頬に触れさせる。
今回のようにお前の手に痣を作らせた原因である己の弱さを反省し、これからはそんな事が無いように強くなると告げてにこりと笑みを浮かべたウーヴェは、頬に宛がった手が微かに震えだしたことに気付いて今度は両手でその手を包む。
「ダンケ、リーオ……いつかもそうだったけど、また…俺を護ってくれて、ありがとう」
そしてこの手に誓う、あと少しだけ時間をくれたらオイゲンとの関係にもちゃんとした答えを出すことを告げて拳に額を触れさせ、次いで顔を上げてリオンが呆然となるほどの優しさと強さが混ざった笑みを浮かべる。
その笑顔を間近で見たリオンの脳裏に、いつだったかマザー・カタリーナに言われた言葉が浮かび、包まれていた手を逆に包み返してきつく目を閉じる。
「────オーヴェ、どうしてそんな顔で笑えるんだよ」
信じていた友人から暴行を受けて心身ともに傷付いているのに、何故そんなに優しい顔で穏やかに笑っていられるんだと俯きながら問いかけると少しだけ沈黙が流れるが、小さな小さな笑い声の後で密かに自慢するような口調で囁かれる言葉に今度は目を瞠る。
「そうだな……お前が傍にいて、護ってくれているから、だろうな」
「護ってねぇだろ?お前が一番辛かった時に傍にいられなかった…!」
「うん。でもリーオ、その後はずっと傍にいてくれている。護るのは何もその時だけじゃない。その後もだろう?」
傷を負った時もだがそれ以上に大切なのはその傷を癒す為の時間であり、癒す為の手助けがあるかどうかだと告げ、お前が傍にいてくれたお陰で自分でも信じられないほど冷静にオイゲンとのことを考えられるとも告げて笑うと、リオンの顔が上がってウーヴェが初めて見るような表情を浮かべて見つめてくる。
「お前がいなければきっと…リアにももっと心配を掛けていたと思う」
少し戯けた顔で肩を竦め、驚きと嬉しさと不甲斐なさが入り交じった顔で見つめてくるリオンの手の甲にこつんと額をぶつけ、これでもまだ疑うのかと片目を閉じる。
「……オーヴェ…」
「この手が護ってくれている、だから必ず答えを出す。だからもう暴力を振るうのではなく待っていて…くれ」
「……オーヴェ、ごめん」
自らの心の赴くままオイゲンを殴ってしまったが結果的にお前の心を蔑ろにしていたと唇を噛んで顔を下げたリオンの頬に手を宛がい、その謝罪を受け入れたウーヴェがそっとリオンを呼んで視線を合わせると、手の甲に浮かぶ痣を労るように撫で続ける。
「…もう平気だと…もう少しかかるかも知れないけど…お前がいれば言える、から…」
だから信じてくれと告げてリオンが言う所の優しい笑みを浮かべたウーヴェは、リオンの顔が様々な感情に歪んだのを見つめて一度目を伏せてゆっくりと瞼を持ち上げると、そっと眼鏡を外されて首を傾げる。
「────ウーヴェ」
「……うん」
リオンの掌が頬に宛がわれ顔が近づくのに気付いて自然と目を閉じると、微かに震える唇がそっと重ねられ、伝えられない感情が重なった場所から温もりと一緒に伝わってくる。
「────っ!!」
何だか随分と久しぶりにキスをした気がし、閉ざした瞼を微かに震わせたウーヴェは、身体が傾いて床に倒れたことを身体に感じる感触と体温と重さから知り、そっと目を開けて己の思いが間違いではないことに気付くと、オイゲン相手には出来なかった、総てを委ねるように全身から力を抜く。
「オーヴェ、オーヴェ」
ウーヴェの肩に顔を埋めるように寄せて何度も名前を呼ぶリオンの背中を抱きしめ、話し合って分かり合えたことに安堵し、それと同時に友人ともこうして言葉でもって理解しあいたかったと改めて気付き、前言を守ろうと決意をする。
「…リオン、近いうちにオイゲンに連絡を取る……」
だからその時、もしも可能なら近くにいて見守ってくれと囁き、小さな声でもちろんと返されてもう一度安堵の溜息を零すと、心でいつまでも引っ掛かっていた事への道を見いだせたことに安心し、ずっと名前を呼び続けるリオンの背中をどちらも満足するまで撫で続けるのだった。
どちらの気持ちも落ち着きを取り戻し、少し照れながら身体を離して起き上がった二人はどちらからともなく小さく笑い、笑えたという事実にまたじわりと胸を温めていた。
一日の終わりを迎える前の穏やかな時間-つい何時間か前まではこんなにも穏やかな気持ちで終わりを迎えられるとは思っていなかった二人は、起き上がってぼんやりとしていたが、床に直接座っていたリオンの腹が盛大な音を立てた為にウーヴェがくすくすと笑ってしまう。
「笑うなよ、オーヴェ…」
「…何か食べに行くか?」
「んー…ならオーヴェの家に帰ろうぜ」
食べるものもろくにないここではなく、最近では帰る回数がめっきりと増えたあのアパートに帰ろうと笑うと、ウーヴェが躊躇うように視線を落とし、出来れば今夜はここにいたいと小さな声で懇願する。
「オーヴェ?」
「ここが…良いんだ、リーオ」
この、雑多な物で溢れお世辞にも綺麗とは言えないこの部屋から今夜はいつも以上に離れがたくて素直にその思いを口にした途端、リオンがウーヴェの前で胡座を掻いた足首を掴みながら身体を前後に揺さぶり、何かを閃いた顔で掌に拳を打ち付ける。
「リオン?」
ウーヴェの訝る声にちょっと待っていろと返してサイドテーブルの引き出しを引き抜いてベッドに中身をぶちまけたリオンは、写真やライター、ピアスが入っているコインケースなどの雑然とした物の中からきらりと光るものを発掘してウーヴェの鼻先に突きつける。
「オーヴェ、これ」
「これは……」
「うん────お前に持っていて欲しいんだ、オーヴェ」
驚きに目を瞠るウーヴェに少し照れた顔で笑ったリオンが差し出したものをしげしげと眺め、今まで付き合ってきた彼女達にも渡したいと思った事はないと告げ、一転して真剣な顔でウーヴェの手にそっと握らせる。
「いつでもここに帰って来いよ、オーヴェ」
お前の家のように立派ではないが、お前の心が少しでも落ち着いて安らげるというのなら俺がいてもいなくてもこの鍵を使って帰ってこいと笑い、ただ目を瞠るウーヴェの頬を撫でて額にキスをする。
「────良い、のか?いつ帰って…きて、も…?」
「もちろん。あ、俺が仕事で留守でも良いよな?」
一人でこの家で待っていろとは言わないが、こんな狭くて散らかっている部屋で心身のリフレッシュを図れるのならば好きなだけ好きな時に使えばいいと片目を閉じ、少し俯くウーヴェの白い髪に手を差し入れて胸元に引き寄せる。
「持っていて欲しいな、オーヴェ」
「────うん」
リオンの戯けつつも本心は真剣な声にウーヴェがくぐもった声で返事をし、掌の中で冷たい熱で存在を示す鍵を握りしめる。
合鍵を預けてくれる意味の重さとそこまでの信頼と愛情を受けていることに心底感謝し、安心すると同時に涙がこぼれ落ちそうになり、リオンのシャツに顔を押しつけて必死に堪える。
これを受け取った意味を噛み締め、その信頼に恥じないように前を向いて歩いて行こうとそっと決意をすると、自然と止まった涙に苦笑しつつ顔を上げる。
「リーオ────俺の…特別な…俺だけの太陽…」
「ダンケ、ウーヴェ」
ウーヴェの精一杯の告白に短く返したリオンは、ウーヴェの手に握られている鍵をキーホルダーにでも付けてくれと笑うが、再び何かを閃いた顔で頷き、ピアスが入っているコインケースを開けて中から細いゴールドのチェーンを取りだして鍵に通し、訝るウーヴェの目を見つめながら顔の前で左右に広げて首に掛けることを伝えて反応を待つ。
過去の事件からウーヴェは首を見せることはほとんどせず、いつも襟の高い服を着ているかアスコットタイなどで首元を隠していることが多かった。
だからではないが、その首に鍵のついたチェーンを掛けていても人に見つけられてあれこれ詮索されることもないだろうし、いつでも帰る場所がある安堵感を、ネクタイやシャツの乱れを治すたびに触れることからでも感じ取って欲しかった。
だから首に掛けても良いかと問いかけたのだが、微かに震える唇がうんと答えてくれた為、ウーヴェに何をしているのかを見せつけるようにチェーンを白い首に掛け、鍵を胸元にまで垂らすとどうだろうとウーヴェに問いかける。
「……不思議な感じだな」
「そうか?」
「ああ」
「…何かオーヴェ鍵っ子みてぇ」
大切な鍵を無くさないように首からぶら下げている子どもみたいだと笑い、似合っているけれどももしも過去への扉が開きそうになるのならばすぐに外してくれとウーヴェを気遣いながら問いかけたリオンは、その恋人が何かを確かめるように首からぶら下がっている鍵を矯めつ眇めつしチェーンの感触を確認すると、にこりと笑みを浮かべた事に心底驚いて言葉を無くす。
「大丈夫だ、リーオ」
過去への扉を開けるどころか逆にこの鍵でもって厳重に閉ざすことが出来る気がするとも笑い、この部屋は本当に傷付いた心身を癒す為の大切な場所であり、今の自分にとっては天国以上の場所だと伏し目がちに告げ、鍵の先に小さな音を立ててキスをする。
「────天国への鍵、だな。ダンケ、リオン」
「そっか」
頷くだけで精一杯のリオンに何かを言い掛けたウーヴェだったが、ベッドに広げられている雑多な小物を引き出しに戻さなければならない事を思い出し、リオンよりは丁寧に引き出しに戻して定位置に挿入すると、少しだけ疲れた顔でベッドに横臥する。
「大丈夫か、オーヴェ?」
「……少し、疲れた…だけ、だ」
「そっか……あ、明日の朝飯さ、いつものカフェで食わないか?」
よく考えるとウーヴェの愛車はクリニックに置きっぱなしなのだ、明日の出勤は当然ながら電車を使ったものになるため、それならばいつかの様に二人で朝食を食べてからそれぞれの職場に出勤しようとリオンが提案すると、ウーヴェが若干気怠げに賛成と声を挙げる。
そのウーヴェの横にもぞもぞと潜り込み、ウーヴェの腰に腕を回して落ちないように背中と胸を密着させたリオンは、腕の中でウーヴェが心地よい体勢を発見して落ち着いた証の溜息を零したことに気付き、こめかみにキスをして目覚ましをセットすると部屋の灯りを消す。
いつもより遙かに早い時間だがウーヴェの心身が経験した緊張と疲れを解消する為には少しでも長い睡眠が重要だと気付き、それに付き合うように目を閉じたリオンにも睡魔が訪れる。
リオンの大きな欠伸を背後に聞いたウーヴェも釣られるように欠伸をし、あの事件以来決して得られることの無かった穏やかな睡眠が訪れそうだと気付いて目を閉じる。
そのウーヴェの予感は的中していて、本当に珍しい事だが、リオンがセットした目覚ましが起床の時間を教えてくれるまで目を覚ますことなく、深く穏やかな眠りの中で心身の疲労を解消することが出来るのだった。