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ウーヴェがリオンの部屋の鍵を受け取った次の日から今度はウーヴェがオイゲンの携帯に電話をかけるが、今までの意趣返しのように彼が電話に出ることがなかったため、ようやく冷静に話が出来ると思うから連絡をくれと留守電にメッセージを残していた。
そのメッセージを聞いて連絡をくれれば良いが、先日までの己の行動を振り返ると電話に出てくれる可能性は低く感じ、今もまた虚しくコールを数えるだけの携帯をデスクに置いて溜息を零す。
今日の患者はいつも以上に注意を払わなければならない人が多く、その為に何だかまるで休み無く働き続けた時のような疲労感からデスクの端に尻を乗せて気分転換を兼ねて窓の外を見る。
天気予報でアルプス寄りの地域では低温注意の予報が出る程で、二重窓の向こうの空はすっかりと冬空に近づいていた。
その空を見上げてやるせない溜息を零した時、ふと胸元に金属の冷たさを、それが意味する温もりを思い出せと言うように感じ取り、たった今感じた疲労感もやるせなさも少し遠退いていく。
クリニックにいる間は胸元を見せる事はない為、誰にも首からぶら下げている鍵とチェーンの存在を知られていなかったが、あの時まるで我が事のように心配してくれた彼女にだけは報告しておこうと思い、翌日出勤してきた彼女に簡単ではあったがリオンとの話し合いを持てたこと、その結果自分がなすべきことが見えたこと、そして部屋の鍵を貰った事を伝えた。
その報告が嬉しかったのか、彼女が朝一番に見るには眩しすぎる笑みを浮かべて本当に良かったと睫毛を震わせて目を伏せた為、心配を掛けた事を詫びてお茶は自分が用意をすることを伝えたのだ。
その約束を思い出してデスクから腰を上げ、診察室を出て仕事をしている筈の彼女に声を掛けようとするが、彼女と向き合う形で立っている男性に気付いて首を傾げる。
「……久しぶりだね、ウーヴェ」
男性と視線が重なった瞬間ににこりと笑みを浮かべて名を呼ばれ、程なくして誰であるのかを思い出すと、複雑な笑みを浮かべながらも手を差し出す。
「久しぶりです、ドナルド」
「本当に久しぶりだ。いつもオイゲンから話は聞いているから、元気だとは分かっていたけどね」
手を握り返すのはウーヴェの兄と同年代の男で、オイゲンの叔父であり登山のパートナーであるドナルドだった。
旧知の仲ではあるがお互いオイゲン抜きに会う事などほとんど無く、今日はどうしたのですかと問いかけながら診察室へと案内し、肩越しに振り返ってリアに目で合図を送ると、総てを承知している顔で頷かれ、彼を窓際の応接セットに案内して自らもお気に入りのチェアに腰を下ろす。
「これを…オイゲンから預かった」
「…これは?」
差し出されたのは宛先も差出人も記入されていない少し古びた封筒で、開封された痕跡のあるそれを受け取ったウーヴェが鄭重な手付きで封筒の中身を確かめるように逆さまにすると、コーヒーテーブルの上で澄んだ音を立てながら小さな鍵が弾み、ひらりと便せんが後を追いかけるように落ちてくる。
「鍵…?」
「ああ。自分が戻れない時にはきみに渡して欲しいと言っていたものだ」
私には何の鍵かは分からないがきみには分かるとオイゲンの言葉を伝えた彼は、表情を切り替えてウーヴェを見つめると、腿の上で拳を握りながら小声で告げる。
「あの子が遭難したそうだ」
「!?」
その言葉の意味を理解したウーヴェの脳裏に、日に焼けた肌で自慢気に白い歯を見せて今回の登頂記念だと笑って小石を差し出すオイゲンの顔が浮かぶが、次の瞬間にはその笑顔が掻き消えて何も見えなくなってしまう。
「────っ!!」
咄嗟に悲鳴を押し殺すように口元に手を宛がうもののどうしても手が震えてしまい、その震えが全身へと伝播した時にリアが二人分のお茶を運んでくる。
「……ありがとう、フラウ」
ウーヴェが悲壮な顔できつく目を閉じ、肩や口を覆う手が震えていることから良くない知らせを聞いた事を察した彼女は、同じく蒼白な顔でそれでも礼を言う客人に一礼し何も言わずに踵を返すが、診察室を出る寸前に聞こえたウーヴェの声に後ろ髪を引かれそうになる。
「……イェニー…っ!」
どれだけの感情が籠もっているのか、思わず彼女が振り返ってしまいたくなるような悲痛な声が届くが、必死にその思いを堪えて診察室を出た彼女は、客人が差し出した名刺とオイゲンの叔父という言葉を頼りに情報収集に取り掛かるのだった。
リアが独自にウーヴェの悲嘆の理由を探し出した時、当人であるウーヴェは冷静になろうと何度か深呼吸をし、落ち着きを取り戻した頃にドナルドに対して取り乱したことを詫びてチェアに座り直す。
「……何故、遭難したと分かったのですか?」
「友人が独りで山に入るオイゲンに声を掛けて下山後の約束をしたそうだが、下りてこなかった」
「……その方に声を掛けずに帰ったとは…?」
友人が山で遭難した事実が間違いであって欲しい一心で問いかけるウーヴェにドナルドが一瞬だけ嬉しそうな色を双眸に浮かべるが、ウーヴェが気付く前に表情を切り替えて神妙な面持ちで首を左右に振る。
「私も彼もそう思ったが、クレバスにヤッケの切れ端とザックが引っ掛かっているのを見つけて引き上げたそうだ」
ザックの中身は無事だった為、オイゲンの身分証入りの財布が出てきたことで連絡が入ったと、伏し目がちに沈痛な声で語るドナルドに何も言えずに拳を握っていたウーヴェは、その山はどこだとようやく問いかける。
「アイガーという名前を聞いたことはあるかな?」
「…次に登る山だと言ってました」
「そうか……私はその登山計画を聞いていなかった」
単独で初冬のアイガー登頂に向かったことになるが、単独ならば必ず行く前に連絡があるはずなのにそれすらもなかったこと、その友人が言うには何やら思い詰めた顔をしていたことを伝えられてグッと拳を握ったウーヴェは、ここ数日ずっと連絡を取ろうとしていたが電話に出なかったと伝えると、やるせない溜息を零してドナルドが背もたれに寄り掛かる。
「登山をする者にとって山での遭難はいつ誰の身に降りかかってもおかしくないことだが、やはりまだ信じられない」
ヤッケの切れ端とザックを確かめたが間違いなくどちらもオイゲンのものだったと溜息混じりに説明をし、アイガーとぽつりと呟いて天井を振り仰ぐ。
そんなドナルドの前ではウーヴェが蒼白な顔で手を口に宛がい、必死に現実を受け入れようとするが、心の何処かが全力でもってそれを阻止しようとしていた。
何があっても必ず帰ってくるとオイゲンはいつも約束し、そして日に焼けた肌と対照的な白い歯で学生時代から見慣れていた笑みを浮かべて帰ってくると山での出来事を話してくれていたのだ。
先日の悲しい事件があったとしても彼は今までウーヴェに嘘を吐いたことはなく、帰ってくると言えば必ずその通りになったことを思い出すが、さすがに今回は駄目ではないのかとの思いが強くなる。
登山のパートナーであるドナルドにすら伝えてなかった今回の登山は計画的なものというよりは突発的なものであることを教えてくれ、そして単独登山の理由も密かに伝えてくれていた。
会って謝りたいと何度も言われていたが、それを受け入れることも直接オイゲンを怒鳴る勇気もなくただ沈黙してしまい、そうすることでウーヴェもその事実から逃げていたことを先日ようやく認めて話をしようと決めたばかりだった。
その間、ウーヴェからの言葉を待ち続けていただろう彼の心を思えば、初冬の単独登山に突発的に出向かせるだけの絶望が芽生えていたに違いないと気付き、胸元を握りしめて身体を屈めて歯を噛み締める。
はっきりと答えを出せずにずるずると引きずってしまった己の弱さがオイゲンを山へと向かわせ、結果的に遭難させてしまったのではないかという思いが一気に溢れ、歯を噛み締めることで口から流れ出そうとする叫び声を閉じこめる。
そんなウーヴェを前にドナルドが無表情に彼を見つめているが、長い時間に感じる一瞬の後、肺を空にするような溜息を吐いて腿の上で拳を握る。
「…イェニーのザックが見つかったクレバスは…」
「かなり深いものだが、上部に人が滑落した跡があったそうだ」
だからそのクレバスに落ちたことは間違いないだろうが、奥深くにまで落ちてしまっていれば捜索することも不可能だと教えられ、胃の痛みを堪えるような顔で何とか頷く。
「彼の身体が見つかることは…?」
ウーヴェの言葉にドナルドがゆっくりと首を左右に振って否定し、おそらく出てこないだろうと告げてもう一度天井を仰ぎ、山に還っていってしまったと呟くと、目元を掌で覆い隠す。
「何故…突然アイガーに向かったんですか?」
自分は山に詳しくないが単独での登山となると周到な準備が必要な筈で、そんな気配を感じることはなかったこと、アイガーは近いうちに登る程度にしか聞いていなかった事を告げると、ドナルドの口が重いながらもオイゲンが妻と離婚した事実を伝えてくれる。
「離婚!?」
「ああ。あの子の弁護士から聞いたのは、妻が不倫していたということだった」
数える程しか顔をあわせた事のないオイゲンの妻が不倫をしていたことを聞かされ、それが引き金となって山へ向かったのかも知れないことを教えられて目を瞠り、オイゲンの家での態度から夫婦間で何か問題が起きていることは察していたが、それがまさか離婚問題にまで発展しているとは思わなかったと口に拳を当てる。
離婚という重大な問題が一朝一夕で沸き起こるはずもなく、結婚生活の間にゆっくりと蓄積されていったものだとも気付き、溜息をついて額に手を宛がったウーヴェは、離婚が原因かと呟くとひとつの理由だと返される。
その言葉に潜む感情を読み取ろうと脳味噌をフル活動させると、あの夜の出来事をドナルドは知っているという答えが導き出されるが、それを確かめようと顔を上げた瞬間、足を組み替えてウーヴェの次の質問を封じるように溜息をつく。
「家の問題、職場の問題、友人の問題…色々な問題が一気に起こったんだろうな」
心身ともに頑強な甥っ子だと思っていたが、さすがにこれだけの問題が一気に起きた為に耐えられなくなったと結論づけるように呟くドナルドに同意の頷きをしたウーヴェは、足の間で手を組んで正面に座る彼を見つめ、自分は彼の役に立てないが他に友人はいるのに残念だと手を握りしめる。
「────きみに一番に聞いて欲しかっただろうね」
「……そう、ですね」
自分も出来るのならば聞きたかったが、それが出来なくて本当に残念だと歯軋りするほどの強さで呟いて我に返ったように苦笑する。
自分の中でオイゲンへの思いが複雑な感情としてある以上に叔父であるドナルドにはもっと重く濃いそれがあるだろうと気付き、今ここで自らの感情を表に出すことは控えようとブレーキを掛けたウーヴェは、深く息を吸い込みながら目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのはやはり学生の頃から見てきた友の笑顔で、この顔が永遠に失われたとはどうしても思いたくなくて目を開けるとドナルドが真正面から己を見つめていることに気付いてひとつ肩を竦めれば、ドナルドが苦悩の表情でぽつりと呟く。
「……学生の頃に行動していればな」
その小さな呟きにウーヴェの肩がびくりと揺れてしまい、それを隠すように手を組んで視線を落とす。
学生当時は同性は恋愛対象外だったが、だからといって友人がゲイだからと嫌悪することなど無いだろうし、それまでの言動でそう伝えてきたつもりだったが彼には伝わっていなかったのだろうか。
もしそうだとすれば本当に残念だし悔しいことに気付いて苦笑し、見つめてくるドナルドの顔を正面から見つめてしっかりと頷く。
「本当に、そう…思います」
もしもそうならば、今とは違う未来が訪れていただろうが、あのような暴挙は様々な悩みを抱えて追いつめられていた今だからこそなのかも知れないと思った瞬間、ウーヴェの胸から波が引くように戸惑いや感情が消え去ったことに気付く。
あの夜、何故と問い詰めたが、恐らくオイゲン自身にも明確な理由など分からず、様々な要因が重なった結果だとも気付き、静かに立ち上がったドナルドに少し遅れて立ち上がると、胸中で溢れる思いが外に出ないように手を握るが、彼が差し出す手に気付いてそっと握り返す。
「今度、時間を作ってアイガーに行ってみるよ」
「私も…麓まででも行ってみたいと思います」
オイゲンが行方不明になった山をこの目で見て見たいと告げてしっかりと手を握った後、小さな笑顔を残して踵を返すドナルドの背中を見送り、ドアが静かに閉まると同時にチェアに座り込んで額に手を押し当てる。
「イェニー…っ!!」
歯軋りの奥で名を呼ぶと、脳裏に日に焼けた精悍な顔に浮かぶ笑みとあの夜の顔が思い浮かび、最後に見たのが笑顔ではなく罪悪感に満ちている顔だったことに今更ながらに気付くと、何故もっと早く彼からの謝罪を受け入れる気持ちになれなかったんだという後悔の念が押し寄せてくる。
自分にあと少しの勇気があれば、謝罪をしたいと言っていた彼ともっと早くに直接話をして蟠りを解きほぐすことが出来たのに、その力がなかった為にこんなことになってしまったことを胸中で詫びると、ふとテーブルの上で光を弾くものがあることに気付く。
それはオイゲンがドナルドに託した古い小さな鍵で、自分にならば何の鍵かが分かると言われたのを思いだしたウーヴェは、リビングの暖炉の上に並ぶ石とその後ろの木箱を思い出し、それを受け取った夜のことも思い出す。
アビトゥーアに合格し、夢の道への門戸が開放された夜、オイゲンが少し顔を赤くしながら差し出した木箱だったが、あの夜から鍵が掛かったままで開ける術をウーヴェは持っていなかった。
その鍵だと気付いて手の中に握り込んだウーヴェは、木箱の中に入っているものを確かめれば当時の彼の気持ちと言葉の真意が理解できることに気付き、鍵をシャツの胸ポケットに落として窓の方へと顔を向ける。
二重窓の外の世界は次第に冬の色を強くしていて、この街は国内でも雪の多い地方だがそれでもまだまだアルプスを振り仰ぐ地方に比べれば暖かかった。
そんなアルプスにある世界的にも名を馳せている山を脳裏に描くと、その山に向かって一歩ずつ歩く長身の背中が思い浮かび、ぎゅっと両肘を握りしめて唇を噛み締める。
オイゲンを懐に抱いた山はすでに冬と呼べる気候になっているだろうが、その山に向かい、深いクレバスの底で独り永遠の眠りに就いた友の顔を想像すると堪えきれないものが湧き起こり、掌を使ってそれを押し止めようとする。
吐き出そうとする力と押し止めるそれが鬩ぎ合う場所からくぐもった声が流れ出し、次第に大きくなり始めるが、ドアがノックされていることに気付いてグッと押し止める。
「……どうぞ」
「お疲れさまでした」
「ああ……フラウ・オルガもお疲れさま」
彼女にはこれ以上心配をかけさせたくない一心で心を押し殺し、チェアの上でぼんやり外を見ている風を装ったウーヴェは、彼女の口から明日の予定を聞かされて気分を切り替え、リアが提案してくれる通りにやってみようと決める。
「今日はもう良い。お疲れさま」
「お疲れさまでした」
何かもの言いたげな彼女に口を開く隙を与えずに労いの言葉を掛けて笑顔で頷くと、彼女もそれを察したように一礼して診察室を出て行く。
何においても察しの良い彼女に心底感謝しながらぼんやりと窓の外を見るが、どのくらいの時間そうしていたのか、突如響いた物音にチェアの中で飛び上がる勢いで身体を起こしたウーヴェは、ドアにもたれ掛かりながら背中を預けたそれを拳でノックするリオンに気付いて苦笑する。
「ハロ、オーヴェ」
「ああ…仕事は終わったのか?」
「うん、終わった」
「そうか………」
そう呟いたきり動くでもないウーヴェに眉を寄せたリオンが、ブルゾンのポケットに手を突っ込んで軽い足取りでウーヴェの横に向かうと、のろのろと視線だけで追いかけられる。
「どうした?」
「………リオン…後で、良い、から…」
話を聞いてくれとウーヴェが告げるよりも先にリオンがその場に膝をついて少し冷えている掌をウーヴェの頬に宛がい、いつかとは違ってちゃんと話を聞くからお前も話してくれと囁かれ、その言葉が胸に浸透するのを目を閉じた世界で感じ取る。
「………うん」
「ここで話をするか?それとも…」
「────天国が良い」
ウーヴェの呟きにオウム返しに呟いたリオンは、恋人が告げた天国がどこにあるのかを想像するが、何事かを閃いた顔で頷きながらウーヴェの手を取ってチェアから立ち上がらせる。
「スパイダーの鍵はどこだ?」
立ち上がらせたウーヴェが運転出来るような精神状態ではないことを見抜き、鍵を受け取ったリオンは、明日の診察の準備が終わっていることを確かめると、今日はこのままでも良い事も確かめてウーヴェの身体を支えながらクリニックを後にするのだった。
リオンがウーヴェが天国と称した自宅に向けてスパイダーを走らせていたが、助手席から全く違う地区へ向かってくれと言われて瞬きを繰り返すものの何故そこに向かうのかを問いかけられる雰囲気ではなく、訝りながらも車を走らせるリオンにウーヴェが小さく感謝の言葉を告げ、それなりに高級住宅街として名前が知られている地区へと向かうと、一軒の大きな家の近くにスパイダーを停めさせる。
「オーヴェ?」
その大きな家には家に相応しい大きな窓が見えていて、静かな地区の中でもひときわ静けさに包まれているようだった。
その静けさの由来が住人が不在というよりは何やら悲しみに沈んでいるような雰囲気があり、リオンは己の職業柄から素早くそれを見抜いていた。
そんな家の近くで5分だろうか10分だろうか、まるで一晩のようにも感じる短い時間、身動ぎもせずに助手席の窓からじっと家を見つめていたウーヴェの口から小さな溜息が零れ、己の胸の裡に何かを仕舞い込んだ気配が伝わってくる。
「────ダンケ、リオン……帰ろう」
「?」
何の為にわざわざここに来たのかを説明せず、シフトレバーに置いたリオンの手にそっと己の手を重ねて目を閉じる。
その手から伝わる微かな震えと車窓から見えた表札から誰の家であるかを察したリオンは一瞬だけ複雑な色を双眸に浮かべるものの、重ねられた手の温もりからグッと感情を堪えて殊更陽気な声でウーヴェを天国にご案内と宣言すると、小さな小さな笑い声が一つだけこぼれ落ちるが、それ以外はリオンの自宅に着くまでは車内で聞こえる音はエンジン音だけだった。
ただリオンにとって救われた気がしたのは、リオンの自宅アパート下の定位置に車を停めた時にはウーヴェの様子もいつものように穏やかなものになっていたことだった。
それに安堵しつつ階段を昇りドアを開けてウーヴェを招き入れたリオンは、背後から急に抱きつかれて前につんのめってしまい、何とか踏ん張って倒れ込むことを阻止しつつ何事だと肩越しに振り返ろうとするが、くぐもった声が見るなと命令をする。
「……見ないでくれ」
「でもさ、このままだとちょっと苦しいからベッドに行かねぇか、オーヴェ?」
「ダメだ」
「むー…。またそんな我が儘を言う」
これだから俺の陛下はと溜息をついて両掌を上に向けたリオンは、そんな軽口に付き合うつもりがないらしいウーヴェに気付いてもう一度溜息をつき、見るなと命じられたが逆にそんな命令を封じてやると命令し、くるりと身体を反転させてウーヴェの背中を抱きしめる。
背中にリオンの腕が回った時、もしかすると彼もこんな風に自分と抱き合う温もりを感じたかったのかも知れないと気付き、こんなにも簡単なことなのに言葉に出来ずに行動で表してしまったオイゲンの弱さとそれに気付かなかった己の鈍さを堪えるようにリオンの胸に額を押しつける。
愛する者とキスをしハグをする、それだけのことなのに思いを口に出せなかったり気付かなかったりしたために今回のような結果になったことが本当に残念で悔しくて、しかもその思いをぶつける相手が遭難してしまったこともあり、ウーヴェの口から珍しく悔しいという言葉が流れ出す。
「どうした?」
「………いなくなってしまえば…口論することも許すことも…出来ない…っ!!」
くぐもった糾弾の声にリオンの目が細められて何かに気付いたように眉を顰めた後、白い髪に口を寄せながら彼がいなくなったのかと問い掛けるとウーヴェの背中が一つ震える。
「そっか…それは悔しいな」
ようやく決心がついたから話が出来ると思っていたのに、オイゲンが遭難したために出来なくなったと呟いたウーヴェは、気持ちを静めてくれるようなキスをこめかみで受け止めて深呼吸をすると、リオンの肩に両手をついて距離を取る。
「……イェニーが…アイガーで遭難したそうだ」
「アイガーってさ、何か聞いたことある」
「…クレバスに彼のザックが引っ掛かっていて、人が滑落したような跡があったらしい」
だからアイガーで遭難したのはほぼ間違いはないが、彼の身体が出てくるかどうかは分からないと呟くとリオンの手が肩に載せられて自然と顔を上げてしまう。
「…確かに逃げられたらケンカも仲直りもできねぇよな」
「……ああ」
長い付き合いだからかそれともギムナジウムという特別な時間を共に過ごしたからか、オイゲンに対してウーヴェが抱いているのは戸惑いと何故という疑問だけで、嫌悪や憎悪の感情は不思議と感じていなかった。
ただ彼に対してウーヴェが腹を立てているのは、話せば分かることなのにレイプという暴挙に出た事に対してだった。
それ以外では腹も立たないし呆れてもいないのに、それを伝えることすら出来ない所に行ってしまったオイゲンにウーヴェの口が悔しいと繰り返す。
「……イェニー…っ!」
「…山に逃げるんじゃなくて終わるまで向き合って欲しかったな」
ウーヴェの顔を胸に抱き寄せて白い髪に頬を宛がい、次いでキスをしてもう一度頬を宛てたリオンは、本当に残念だと呟いてウーヴェをベッドに座らせると、その前に膝をついてウーヴェのメガネをそっと外して顔を覗き込み、頬を両手で挟んで額を触れあわせる。
「…っ…逃げる…な…て…っ」
「……ああ。そうだな…ちゃんと話し合いたかったな」
ウーヴェの双眸が友人を喪った痛みとその原因を作った罪悪感に染まりだしたことに気付き、リオンが額を触れあわせたままウーヴェの名を呼ぶ。
「前も言ったけど、お前は何も悪くない」
「で、も…」
「確かに返事をしなかったけどまだ日が浅い。冷静に話なんか出来る筈もない」
だから彼の電話に出なかったことを悔やむ必要はないと、優しさと強さが混ざった声に断言されてウーヴェが息を飲み、こうして彼の話をしても落ち着いていられるのはウーヴェが本当に強いからだと手放しで誉められても素直に感謝の思いなど伝えられ無かった。
「オーヴェも仕事でレイプされた人のケアをしたことがあるだろ?」
「……ある…」
「その人達がそれと向き合うにはもっと時間が掛かってるんじゃないのか?その人達にオーヴェはあなたは何も悪くないと言ってるんじゃないのか?」
仕事で自分と同じ目に遭った人達を救おうとしているが、何故自らにその言葉を告げてやらないんだと見つめられて言葉を無くし、リオンが伝えようとしていることを必死になって感じ取ろうとする。
「もっと時間を掛けても良い。それよりも彼を責めても良い。いっそ二度と顔を見たくないと言って殴っても良い。でもオーヴェは出来ないだろ?」
「────!」
「一度友達になればどんな奴でも友達だもんな。そんな人を憎んだり嫌悪したり出来ないだろ?」
それが出来ないからこそ今まで苦しんだんだろうと囁かれ、こみ上げてくるものを堪えるように拳を握ると、大きな掌でその手を包まれる。
「オイゲンが遭難したのは…本当に残念だな」
「…っ、う、ん…っ」
膝立ちになってウーヴェを抱きしめると肩に顎が載せられたことを知り、背中を軽く叩いてやると耳の後ろ辺りで息を飲む音が聞こえ、次いで嗚咽が聞こえてくる。
「顔を見るなって言われたから見ないでおきますかー」
ふざけたような声でウーヴェに告げ、耳のすぐ近くで聞こえる嗚咽が低く小さくなっていくまでただ黙って抱きしめているのだった。
ウーヴェの心を感じ取ったように、細い糸のような雨が明け方まで静かに降り続けるのだった。