高かった太陽も、今は西の空に傾き、赤みを増している。太陽は低くなったが、気温はまだまだ高い。外に出ているだけで、じっとりと汗ばんでくる。まだ青い稲穂を揺らす風は生温く、多量の湿気を含んでいた。
いつもと変わらない午後。特質すべき出来事のない、片田舎の土曜日。
天野安川高校の生徒も教師も、後にこの日の出来事を振り返って、皆一様に首を傾げた。
誰かに言われたわけでも、指示されたわけでもない。それなのに、皆一斉に、同時刻に帰宅をしたのだ。学校を預かる宿直の教師も、自分の行動を疑うことなく家路についた。
後日、宿直だった現代文の教師は、この不思議な出来事を思い出したとき、『鈴の音を聞いた気がする』と証言した。その音色は美しく澄み渡り、何処までも深みがあった。空気を振るわせるのではなく、聞く人の魂を振るわせる音色。そうのように教師は証言した。他にも、何人かの生徒が同じように『鈴の音を聞いた気がする』と、曖昧な証言をしていた。
リーーーーン………
風に乗り、鈴の音が広がっていく。不思議な事に、その音色は小さい音でありながらも、何処までも広がっていった。
リーーーーン………
もう一度、鈴の音が鳴った。
程なくすると、学校から沢山の生徒、教師が出てくる。中には、柔道着やサッカーのユニフォーム、水泳部なのだろう、水着の上にパーカーを羽織っただけの生徒が、水を滴らせながら歩いている。何とも異様な集団は、一言も話さず、それぞれの家路についた。
自転車で帰宅する生徒の流れに逆らうように、一人の青年が天野安川高校へ向かっていた。
地獄から帰還した那由多は、ヴァレフォールを従え、悠然とした足取りで天野安川高校へ向かっていた。夕日を受けてオレンジ色に光り輝く高校。一見すると美しい高校だが、那由多の目には禍々しい気配に覆われている、万魔殿(パンデモニウム)のように映っていた。
那由多の後ろには、紫色のイブニングドレスを着たヴァレフォールが三日月に乗って移動しているが、誰も不思議がらなかった。それもそのはず。悪魔であるヴァレフォールは、常人には見えるどころか気配すら感じない。
リーーーーン………
ヴァレフォールが左手に掲げた鈴から音が出ていた。彼女は、一定間隔で鈴を鳴らし、人々を催眠状態に陥れ、操っていた。
ベリアルと同じく、ソロモンの霊の七二人の一人でヴァレフォールは、同時にエノクのデーモンでもあり、『盗賊の顔』をもち、絞首台に上がるまでは、盗賊と親しく関わるという。他にも、秘密の魔術を召喚者に与えると言われている。
校門に差し掛かった所で、那由多の足は止まった。
「マスター」
ヴァレフォールが那由多を守るように、前に出ようとするが、那由多は手を上げてヴァレフォールを制した。
「誰ですか? 随分と剣呑な気配ですけど?」
明らかに人とは違う気配。かといって、純粋な神でもない。もっと俗っぽい荒々しい気配。どちらかというと、妖怪や神の眷属に似ている。
「流石、デヴァナガライと言われるだけはあるわね」
校門の影から出てきたのは、浅黄色の絽を着た美しい女性だった。だが、相手の見た目だけで惑わされるような那由多ではない。清楚で華奢そうに見えるが、彼女の力はかなりの物だ。並の男性なら、一瞬のうちに屠られていても不思議ではない。それほどの力を持った女性だ。
「こうして、顔を合わせるのは初めてかしら?」
女性は微笑む。笑ったときの目元が、典晶によく似ていた。
「もしかして……、歌蝶……さん、ですか?」
心当たりのある名前を挙げた。どうやら、正解だったようだ。歌蝶は背後の学校を振り返ると、小さく溜息をついた。
「そろそろ、やばそうだったから私が行こうと思ったけど……」
「いらない世話ですよ。ここから先は、この俺、デヴァナガライが仕切りますから」
「宇迦が言ったとおり、君に任せた方が良さそうね。みんなを、無事に連れ帰ってきてね」
「そういう約束ですから」
那由多は肩を竦める。
「すぐに済みますから。高天原商店街で待っててください」
「分かったわ。宇迦も心配しているでしょうから、全て順調だって伝えておくわ」
「はい、よろしくお願いします」
那由多は頭を下げると、再び悠然と歩き、歌蝶とすれ違った。学校の敷地内に足を踏み入れた那由多は、拳を固めた右手を内から外に払った。瞬間、見えない壁紙をはいだかのように、空間に亀裂が走った。何度か同じ動作を繰り返した那由多は、人一人が十分通れるほどの穴を開けると、現実世界からハロが作り出した異空間に迷うことなく足を踏み入れた。
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