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オメガバース×記憶喪失『恋人の記憶を失ったΩは、名前も知らないαを探し続ける』~m×s~
side佐久間
――――――――「佐久間君」
誰かが俺の名前を呼んだ気がした。
低くて静かで、それなのに耳ではなく胸のいちばん深いところへ届くような声。
その声を知っている。
そう思った瞬間、俺は目を覚ました。
白い天井。
閉じられた薄い色のカーテン。
枕元に置かれたままのスマホ。
見慣れたはずの自分の部屋は、朝の頼りない光に沈んでいた。
夢だったんだろうか。
ぼんやりした頭でそう考えながら、俺は隣へ手を伸ばした。
何かを探すように。
誰かの温度を確かめるように。
けれど、指先に触れたのは冷えたシーツだけだった。
そこでようやく気づく。
枕が二つある。
俺が頭を乗せているものとは別に、もう一つ。
綺麗に整えられた枕がすぐ隣に並んでいた。
どうして。
俺は一人暮らしだったはずなのに。
いや。
本当にそうだったっけ。
胸の奥がざわついた。
答えを探そうとした途端、頭の内側を針で突かれたような鋭い痛みが走る。
「っ……」
思わずこめかみを押さえた。
痛みはすぐに消えた。
なのに胸の苦しさだけが残った。
空っぽ。
そう思った。
部屋が空っぽなんじゃない。
俺の中が空っぽだった。
何か大切なものを根こそぎ抜き取られて、その跡だけが大きな穴になって残っている。
失くしたものが何かも分からないのに、失くしたということだけは分かる。
そんな気持ちの悪い喪失感が、朝目覚めた瞬間から俺の胸に居座っていた。
「なんなの……これ……」
声に出しても誰も答えてくれない。
静かすぎる部屋に、自分の掠れた声だけが落ちる。
俺は重たい体を起こした。
足を床につけた時、ふわりと何かの匂いがした。
雨が上がった後の土みたいな。
深い森の中に差し込む朝の光みたいな。
落ち着くのに、なぜか泣きたくなる匂い。
反射的に息を吸い込む。
もう一度確かめようとしたけれど、それは気のせいだったみたいに消えていた。
俺はΩだ。
自分の第二性を忘れたわけじゃない。
洗面台の引き出しには抑制剤が入っているし、首筋には昨日貼り替えたばかりの匂い止めのパッチがある。
αの匂いには人より敏感だった。
だから今の匂いも、きっとαのものだと思う。
けれど、誰のものかは分からない。
どうして俺の部屋にαの匂いが残っているんだろう。
どうしてその匂いを嗅いだだけで、こんなにも胸が痛むんだろう。
分からない。
何も分からない。
立ち上がって寝室を出る。
小さな台所へ向かうと、食器棚に二つのマグカップが並んでいた。
一つは俺がいつも使っているもの。
もう一つは、飾り気のない黒いマグカップ。
手に取ってみる。
大きくて、少し重い。
底の近くに小さな傷があった。
初めて触ったはずなのに、俺の指は迷わずその傷をなぞった。
知っている。
この傷がいつできたのか、俺は知っていたはずだ。
それなのに思い出せない。
「誰の……?」
問いかけた瞬間、また頭が痛んだ。
――佐久間君。
ふいに、さっき夢の中で聞いた声が蘇る。
優しく俺を呼ぶ声。
たった二文字の名前を、大切なものみたいに包み込んでくれる声。
ズキリ。
頭の奥が大きく脈打った。
黒いマグカップが手から滑りそうになり、慌てて両手で抱える。
「っ、誰……?」
その声の持ち主に聞いたつもりだった。
もちろん返事なんてない。
ただ、頬に温かいものが流れた。
一滴。
また一滴。
何が悲しいのかも分からないまま、涙だけが次々と溢れてくる。
「なんで……俺、なんで泣いてるの……?」
袖で拭っても止まらない。
黒いマグカップを胸に抱いたまま、俺はその場にしゃがみ込んだ。
苦しい。
会いたい。
誰に。
分からない。
顔も知らない。
名前も知らない。
それでも会いたくてたまらなかった。
俺の名前を呼んでくれた人。
きっと何度も優しく呼んでくれた人。
そんな大切な人の名前さえ思い出せない自分が、どうしようもなく悲しかった。
――――――――――――
俺が病院で目を覚ましたのは三日前のことだった。
自宅の玄関で倒れているところを、様子を見に来た友人に発見されたらしい。
頭を打った形跡はなく、検査をしても脳に異常は見つからなかった。
目を覚ました俺は自分の名前も年齢も覚えていた。
住んでいる場所も、普段関わっている人たちのことも、これまで生きてきた大まかな出来事も覚えていた。
何も問題はないように見えた。
けれど、友人は俺の顔を見た瞬間からおかしなほど慎重に言葉を選んでいた。
まるで触れたら壊れるものを扱うみたいに。
「ねえ。俺、なんで倒れたの?」
病室でそう聞くと、友人はすぐには答えなかった。
膝の上で組んだ手を見つめ、何度も唇を開きかけては閉じる。
その態度が余計に俺を不安にさせた。
「なんか隠してるよね」
「……隠してるわけじゃない」
「だったら言ってよ」
「お前……最近のこと、どこまで覚えてる?」
最近のこと。
聞かれて記憶をたどった。
昨日。
一昨日。
一週間前。
思い出そうとすると、ところどころに白い靄がかかった。
仕事へ行ったことは覚えている。
誰かと話したことも、食事をしたことも、帰宅したことも。
なのにどの記憶にも不自然な空間があった。
隣に誰かが立っていたような気がするのに、そこだけ綺麗に切り取られている。
二人分の食事が並んでいるのに、向かい側の椅子には誰もいない。
誰かの手を握った感触が残っているのに、その手がどんな形をしていたのか分からない。
「……なにこれ」
考えれば考えるほど頭痛が強くなった。
俺が額を押さえると、友人が慌てて看護師を呼ぼうと立ち上がった。
「待って。大丈夫だから」
「でも」
「俺、何を忘れてるの?」
友人は黙った。
その沈黙が答えだった。
何かを忘れている。
それも、きっと大切な何かを。
「物じゃないんだよね」
「……うん」
「人?」
また沈黙。
「俺、誰を忘れたの?」
今度こそ答えてほしかった。
けれど友人は苦しそうに眉を寄せただけだった。
「ごめん。俺の口からは言えない」
「なんでなの」
「先生からも、無理に刺激するのはよくないって言われてる。それに……あの人も、それを望んでない」
あの人。
その言葉に心臓が跳ねた。
「その人、俺が忘れた人?」
友人は小さく頷いた。
「会わせてよ」
考えるより先に言葉が出た。
「会ったら思い出すかもしれないでしょ」
「今は会わないって」
「なんで?」
「それも俺からは言えない」
「何それ。俺だけ何も知らないままにされるの?」
苛立ちで声が大きくなった。
知らないところで自分の人生を決められているような気がした。
俺が忘れた人は、俺のことを知っている。
俺との間に何があったのかも知っている。
それなのに俺からは姿を隠して、会わないと勝手に決めた。
ずるいよ。
俺だけが空っぽの場所に置いていかれたみたいじゃん。
「俺、その人に捨てられたの?」
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R-18『【関係性不明】抱かれてるのに、俺は恋人じゃないらしい』
本編とはひと味違う、特別な一篇。↓
「んっ……ぁ……っだめ……っれん……っ息……っ」
「……ふふ、もっと……っ」
蓮は俺の言葉をキスで塞ぎさらに強く俺の体を抱き寄せた。
蓮の硬い体が俺の体にぴったりと密着する。
服越しでも分かる蓮の熱と高鳴る心音。
それが俺のものと同じリズムを刻んでいるような気がしてどうしようもなく嬉しくてそして悲しかった。
(好き……)
心の中で何度でも叫ぶ。
でもその言葉が喉を越えて音になることはない。
言ってしまったらこのキスもこの温もりもすべて失ってしまうかもしれないから。
蓮にとって俺はただの欲処理の相手でしかない。
寂しい夜に都合よく呼び出せる相手。
それ以上の存在になれないことは俺が一番よく分かっている。
「んぁ……っはぁ……っんっ……ちゅ……っ」
切なさが込み上げて俺の目からポロリと涙がこぼれ落ちた。
それは蓮の頬を伝い二人の重なった唇の間に吸い込まれていく。
しょっぱい涙の味がした。
蓮はそれに気づいたのか一瞬だけ動きを止めゆっくりと唇を離した。
「……佐久間君?泣いてる……?」
※最初から最後まで甘く、濃く、容赦なく。読み応えたっぷりのR-18作品となっております。
コメント
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あおいです🤍 第1話、読み終わりました。 朝、目が覚めてから「何かが足りない」と感じる描写、すごく心に刺さりました。二つ並んだ枕、黒いマグカップの小さな傷、雨上がりの土のようなαの匂い——どれも「知っているのに思い出せない」もどかしさが伝わってきて、胸がぎゅっとなりました。特に、涙が止まらないのに理由が分からないところ、切なかったです。友人が「あの人もそれを望んでない」と言う伏線も気になります。続き、読みたいです…!