第3話 月影の誓い
夕暮れの光は校舎の角を淡く洗い流し、影は長く伸びていた。
綾音は二階の渡り廊下に立ち、風の通り道の真ん中で目を閉じた。
耳の奥に残る旋律は、昨夜よりもはっきりしている。
息を吸うと胸の奥が微かに痛み、吐き出すたびに、その音は言葉にならない祈りへと近づいた。
彼女は手すりに指を添える。
そして、指先の震えを数えるようにして、自分の心を落ち着かせようとした。
風の止む場所
廊下の先で、姫歌は立ち止まっていた。
黒いコートの裾が風に揺れるたび、影が床に溶けて広がっては、また細く戻る。
彼女の視線は綾音の横顔を捉え、言葉の代わりに深く息を沈めた。
近づけば、また綾音の夢は濃くなるのか。
離れれば、彼女は孤独に沈んでしまうのか。
姫歌は一歩を踏み出し、そしてその一歩分だけ立ち止まった。
胸の内で波がぶつかり合い、静けさと焦燥が同時に形を持つ。
綾音の肩が微かに震えた瞬間、姫歌はやっと声を探した。
「…綾音」
視線が絡む。
綾音は驚いたように瞬き、そしてほんの少し微笑んだ。
痩せた微笑みには、疲労と、それでも折れない柔らかさが宿っていた。
風は止み、言葉だけが廊下に残った。
「昨日の…ありがとう。あの時、私、逃げようとして…でも、足が動かなくて」
「逃げなくてよかったよ。あなたは、ちゃんと止まっていた。怖くても、止まるという選択ができた」
綾音は目を伏せ、手すりの冷たさに爪を立てた。
彼女の内側で旋律が少し強くなり、それは姫歌の声に似ている気がした。
言葉のない歌。闇より深く、光より静かに。
図書室の影
放課後、二人は言葉少なに図書室へ降りた。
古い本は呼吸を潜め、ページの匂いが夕暮れを吸い込んでいる。
綾音は前に見つけた古書の棚の前で立ち止まり、擦り切れた表紙をそっと撫でた。
挿絵の黒い布は川面に広がり、炎を飲み込む瞬間だけが永遠に切り取られていた。
姫歌は横に立ち、指先でページの隅を整えた。
彼女の手から、夜の気配が薄い霧になって滲み出る。
その霧は言葉ではなく、触れれば消える音のようだった。
綾音は震える息を整え、ゆっくりと口を開いた。
「この絵、ずっと見ていると、私の夢が深くなるの。怖いのに…どうしても離れられない」
「離れなくてもいい。怖さは消えなくても、形を変えることはできる」
姫歌の声は、祈りの断片を思わせた。
綾音は視線を上げ、姫歌の横顔に浮かぶ影の輪郭を見つめる。
黒い髪が夕陽を食むように微かに輝いた。
胸の奥で、熱ではない温度が静かに灯った。
そこへ、まどかがドアを押して入ってきた。
彼女は空気の重さに目を丸くし、一瞬、言葉を探して黙る。
だがすぐに空気を読み、無理に明るく笑った。
「綾音、今日も図書室?…姫歌さんも一緒なんだね」
綾音は小さく頷き、まどかは何も聞かずに、隣の棚で適当に本を探すふりをした。
優しさは、時に沈黙の形をとる。
綾音は、その沈黙に救われたのだった。
夢の鍵
その夜、綾音はまた夢に落ちた。
廊下は炎で満ち、天井は低く軋んでいる。
誰かが叫ぶ声は遠く、足元が崩れ、空気が重い。
だが今回は、影の歌が最初からそこにあった。
言葉にならない旋律が火の間を縫い、綾音の胸を抱きしめる。
彼女は走るのを止め、影の方へ向いた。
影は綾音の手を取った。
冷たい掌に触れた瞬間、熱が薄まる。
金属の匂いが、雨上がりの匂いに変わる。
綾音は額で影に触れ、目を閉じた。
涙は落ちる前に蒸発し、残ったのは歌だけだった。
「…あなたは誰?」
影は答えなかった。
代わりに歌が強くなり、綾音の背骨に沿ってまっすぐ流れた。
目を開くと、炎の向こうに小さな明星があった。
闇の布の縁に、光の粒が点り、彼女の名前を知らない声が、確かに彼女を呼んでいた。
目覚めた綾音は、枕に顔を埋めたまま長く息を吐いた。
汗で髪が張り付き、心臓は急ぐのをやっと止める。
窓の外の空はまだ夜の色で、遠くで鳥が小さく鳴いた。
彼女は手を伸ばし、空白の上に文字を書くように、見えない名前をなぞった。
崩れる境目
翌朝の教室。
綾音はいつもより早く席につき、窓の外の曇り空を見ていた。
まどかが来て、机に小さなキャンディを置き、何も言わずに座る。
甘さは言葉の代わりになる。
綾音はキャンディの包み紙を指で撫でながら、小さく笑った。
前の方で、風間凛が配布物を手伝っている。
彼は時々綾音の方を見て、何か言いたげな顔をする。
けれど、踏み込まない。
踏み込まないこともまた、優しさの種類の一つだと綾音は知っていた。
昼休み、理科室でまた小さな騒ぎが起きた。
今度は器具が勝手に熱を持ち、触れていないビーカーで泡が弾けた。
教師が駆けつけ、窓を開ける。
蒸気は白い耳を持つ狼のように、廊下へ逃げていった。
綾音の視界が一瞬にして狭まる。
音が遠のき、空気が重くなる。
走り出したいのに足が動かない。
息の代わりに夢が胸に満ち、彼女は壁に背を預けた。
顔の前で、影が揺れる。
その瞬間、姫歌の影が廊下に落ちた。
彼女は人の波を裂くように歩き、窓辺に立った。
指先から冷たい霧が滲み、白い蒸気の輪郭をなぞって消す。
熱は静まり、壊れた音は耳の奥から抜けていく。
教師は安堵の息を吐き、何が起きたのか理解できずに黙った。
綾音は膝を抱え、目の奥で光がわずかに揺れた。
姫歌を見上げると、彼女の瞳は決意を宿していた。
怖いのに、安心する。
矛盾は一つの形に束ねられ、綾音の胸に重く。
しかし確かに落ちる。
夜、姫歌は屋上にいた。
風は冷たく、月は薄い光で校舎を洗っていた。
彼女は柵にそっと指を置き、鉄の冷たさで心を引き締める。
守るという言葉は軽くない。
言えば重くなる。
黙れば重くなる。
ならばどうするのか。
彼女は目を閉じ、自分の内側で歌を拾う。
綾音の夢の中の歌。
それは姫歌の祈りの断片に似ている。
いつの間にか、二人の間に通い合っていたもの。
闇より深く、光より静かに。
彼女はその一節を胸に置き、手を広げた。
冷たい霧が指の間から零れる。
屋上の影は丸く広がり、月を飲み込むように沈む。
姫歌は言葉を持たず、代わりに誓いを持った。
嫌われてもいい。
拒絶されてもいい。
彼女が安心できるなら。
何度でも闇になる。
「綾音」
彼女は小さく呟き、風に溶けた声を聞いた。
返事はない。
だが、遠くで揺れる窓の光が、まるで頷くように震えた。
触れない手
数日後の放課後、綾音は校庭のベンチでまどかと座っていた。
風は柔らかく、空は低く広がっている。
まどかは綾音の肩に軽く触れ、何か話をしたい顔をして、結局それをやめた。
沈黙は、綾音の鼓動を乱さない。
翼が通りかかり、救急箱を手にして立ち止まる。
彼は目を細め、綾音の顔に浮かぶ影を見て、バンドエイドを一枚差し出した。
意味はなく、意味があった。
綾音は受け取り、小さく礼を言う。
人の優しさは斜めに絡みつき、姫歌の影へ少しだけ光を落とす。
その帰り道、綾音は姫歌を見つけた。
校舎の影が長く伸びる中、彼女はいつもの場所に立っている。
綾音は足を止め、勇気をかき集めるように息を吸った。
「教えて。あなたは…あの時の子?」
姫歌は目を伏せ、そして顔を上げた。彼女の瞳に小さな揺れが走り、やがて静けさに吸い込まれる。
「わからない、と言ったら嘘になる。でも、答えを出すことであなたが傷つくなら、私はそれを選べない」
綾音は目を見開き、膝が震えた。
どうして、と喉が鳴る。
触れたいのに、触れられない。
言葉は壁になる。壁は守りにもなる。
姫歌はそっと距離を保ったまま、低い声で続けた。
「あなたが安心できるなら、私は何でもする。私のすべてを投げ出すことも、黙っていることも。どちらも痛い。でも、あなたの痛みよりは軽い」
綾音は目を閉じ、涙をそっと拭った。
彼女の内側で歌が鳴り、音の粒が頬に落ちる。
手を伸ばす代わりに、彼女は小さく頷いた。
ひび割れの音
その夜から、綾音の夢は様相を変えた。
炎は相変わらず燃え続けているのに、熱の中心に空洞が生まれた。
その空洞の中で、影が歌う。
綾音はその空洞に身を寄せ、額を影に添える。
あたたかいのに冷たい。
安らぐのに、痛む。
夢の最後で、いつも何かが砕ける音がする。
鏡ではない。骨でもない。
もっと柔らかい、名前のないもの。
目覚めると、その音の余韻が彼女の胸に薄く残っている。
朝の光は優しく、世界は日常を装う。
だが綾音は、装いの下にあるものを知ってしまった。
教室の端で、姫歌は綾音を遠くから見守る。
彼女は何度も自分の手を見下ろし、夜の冷たさを確かめる。
そして、ふと、図書室で見つけた紙切れを思い出す。
「闇より深く、光より静かに」
指先がその文字をなぞる感覚が、今も手のひらに刻まれている。
姫歌は決める。
夢の源に触れる。
危うさは承知の上。
綾音の恐怖は濃くなるかもしれない。
けれど、核心を避け続けることは彼女の孤独を延長するだけだ。
ならば、共に歩く。
夜の塔
校舎の三階、地図室。
夜はいつも人が来ない。
窓は高く、外の街灯が細い筋になって床に落ちる。
姫歌は扉を閉め、影を静かに呼吸させる。
指先から滲む霧は薄い翼の形になり、床の上で微かに震えた。
彼女は目を閉じ、歌を、祈りの断片を、静かに紡ぐ。
言葉はない。
音だけがある。
闇が温度を持ち、光が沈黙を持つ。
影は塔になる。
塔は狭く、高く、彼女の内側をまっすぐ貫く。
その塔の頂で、姫歌は初めて自分の恐怖を見た。
綾音を傷つけるかもしれない恐怖。
嫌われるかもしれない恐怖。
守るという誓いが、時に相手の心を縛るものになる恐怖。
彼女は目を逸らさない。
塔は歌でできている。
歌は逃げない。
吹き込む風が、わずかに紙を鳴らす。
姫歌の瞳に、決意が宿る。
彼女は塔を解き、影を折り畳み、静かに息を吐いた。
明日、綾音に伝える。
すべてではない。
けれど、鍵になる一節を。
名前のない朝
朝、綾音は鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。
涙の跡は薄れ、瞼の赤みは少し退いている。
胸の奥の音は、昨夜よりも穏やかだ。
彼女は小さく笑い、その笑みの奥に覚悟の色を見た。
教室に入ると、まどかが両手を広げるようにして迎え、綾音の顔を覗き込む。
「今日の綾音、ちょっと違うね」
綾音は頷き、窓際の席に座る。
外の空は薄曇り、光は柔らかい。
姫歌は少し遅れて教室に入り、静かに席についた。
視線は絡まない。
絡めない。
けれど、二人の間には見えない糸が緩やかに張られていた。
近づく嵐
放課後、理科室で試験準備が進む。
薬品棚は整頓され、器具は光を持つ。
教師は注意を促し、生徒たちは素直に従う。
だが、空気の奥に、微かな違和があった。
過去より小さく、未来より近いひび割れ。
綾音は廊下の隅に立ち、深呼吸を繰り返した。
怖い。
けれど、逃げないと決めたのは自分だ。
彼女は両手を胸元で重ねる。
その形は祈りではない。
合図に近い。
自分に向けた、小さな約束。
姫歌は人の輪の外側に立ち、影を薄く広げる。
彼女は手のひらに歌の欠片を乗せ、夜よりも静かな息でそれを守った。
嵐はまだ来ない。
だが、前触れは確かに近づいている。
薬品の蒸気が、予期せぬ反応を起こした。
熱ではなく、音の波。
ガラスがぴんと張り詰め、音もなく細いひびが走る。
教師が振り向く前に、空気が軋んだ。
姫歌の影が走る。
彼女は窓辺に立ち、両手を広げる。
霧は翼になり、音の波を柔らかく包む。
ひび割れは止まり、静けさが戻る。
綾音は壁に背を預けながら、その光景をまっすぐ見ていた。
彼女は初めて、目を逸らさなかった。
歌の一節
騒ぎが収まった後、二人は校舎の裏の小さな庭へ出た。
人の気配は薄く、草は秋の色をまとっている。
綾音は深く息を吸い、姫歌の横顔を見た。
「教えて。全部じゃなくていい。私、何かに触れたい。怖いけど、逃げない」
姫歌は小さく頷き、目を閉じた。
彼女の指先が微かに震え、影が土の上で丸く広がる。
風は止み、音だけが残る。
姫歌はゆっくりと口を開き、言葉にならない歌の一節を、息で紡いだ。
闇より深く、光より静かに。
綾音の胸に、あの旋律がそのまま落ちた。
夢の中で何度も聞いた音。
彼女の背骨に沿ってまっすぐ流れ、足元から上へ、首筋へ、額へ。
綾音は目を閉じ、震えながら息を受け取った。涙は落ちず、音だけが落ちた。
「…姫歌、なの」
綾音の声は針のように細く、しかし確かに刺さった。
姫歌は目を開き、逃げなかった。
彼女の瞳は静かに綾音を見つめ、言葉ではなく目で頷いた。
その瞬間、綾音の夢の核心に小さな穴が開いた。
恐怖は消えない。
焦げた匂いはまだ残る。
だが穴から光が差し込む。
黒い影の縁に明星が増える。
綾音は手を伸ばし、姫歌の指先に触れた。
触れたのはほんの僅か。
温かくて、冷たい。
矛盾は形になり、二人の間に橋が架かった。
揺れる心の中心
その夜、綾音は夢の中で走らなかった。
炎は遠くで燃え、影は彼女の側にいて、歌った。
言葉はない。
音だけ。
綾音は額を寄せ、目を閉じ、音を吸い込んだ。
砕ける音はしなかった。
代わりに、遠くで水の音がした。
雨ではない。流れる、水の音。
目覚めた綾音は、窓を開けた。
夜の終わりの匂い。
街の灯りはまだ眠らず、星は残り少ない。
彼女は手を出し、風に触れた。
怖いのに、少しだけ安らいだ。
恐怖の形が、輪郭を柔らかく変え始めていた。
姫歌は同じ夜、屋上で目を閉じた。
歌は彼女の内側にも流れ、塔は静かに低くなった。
誓いは重いまま。
けれど、その重さを一人で持つのではなく、音で分かち合うことができると、彼女は初めて知った。
小さな告白
翌日、図書室で。
綾音は古い本を閉じ、姫歌の方へ向いた。
彼女の目は赤くなく、揺れは小さい。
姫歌は静かに頷き、席を詰めた。
二人の間に、本一冊分の距離。それは、今の彼女たちにはちょうどよかった。
「私、忘れてた。忘れることで守ってたんだと思う。守ってたのは自分の心だけじゃない。…あなたの心も」
姫歌は目を伏せ、そして笑った。
笑いはほとんど見えず、声にもならない。
でも、確かにそこにあった。
「ありがとう」
その言葉は短く、軽く、重かった。
綾音はその重さを受け取り、胸に置いた。
今日、彼女は逃げなかった。
それだけで、世界を少し変えた。
嵐の前触れ
静かに進む時間の底で、前触れは強さを増していた。
理科室の器具は週末の試験に向けて整えられ、校内は神経質なほどに規則正しく動く。
だが、どこかに僅かな歪みが生まれつつある。
姫歌はそれを感じ、綾音もまた、夢の縁でそれを聞いた。
歌は鍵になった。
鍵は扉を開ける。
扉の向こうに何があるのかは、まだ誰にも見えない。
影は守り、光は静かに寄り添う。
二人の距離は近づき、そして、その距離が新たな責任と痛みを生む。
まどかは二人の空気の変化を敏感に拾い、無理に踏み込まないで、ただ隣で笑う練習をした。
翼は何も知らないふりで、バンドエイドを机に一枚、何度か置いていった。
風間凛は、言葉を飲み込みながら、廊下の端で空を見上げた。
それぞれが、それぞれの沈黙で物語を支え始めていた。
月影の誓い
夜。校庭は静まり、月が高い。
姫歌は屋上に上がり、柵に指を置いた。
風が髪を揺らし、影が足元で丸くなる。
彼女は目を閉じ、歌を胸に集める。
闇より深く、光より静かに。
祈りは言葉を拒み、音だけを残す。
綾音は部屋の窓辺に座り、星の少ない空を見上げた。
彼女の耳の奥で、あの旋律が静かに鳴る。
もう、ただの恐怖ではない。
恐怖の中に、誰かの温度がある。
その温度に名前を与えたい。
与えるのが怖い。
けれど、与えないことは、もっと怖い。
「…姫歌」
小さく呟いた声は、夜に溶けた。
返事はない。
だけど彼女は笑った。
ほんの少し。
それで十分だった。
姫歌は柵から指を離し、手を胸に当てた。
誓いは古い。
黒い。
重い。
けれど今、それは音になり、月影と混じる。
彼女は目を開き、夜をまっすぐ見た。
「守る。嫌われても、拒絶されても。…それでも、守る」
言葉は短く、音は長い。
月影は薄く、誓いは深い。
遠くで風が歌った。
嵐はまだ来ない。
けれど、もう近い。
二人はそれを知っていた。
そして、物語はさらに深く、次の扉の前で息を潜めた。
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