『犬養粧子』
ホテルに向かう高速道路は少し混んでいた。
あと少しで高速を降りて、街に着くと言うところだった。
早めに家を出たが、セイレンが指定した時間には少し遅れると思った。ノロノロとしか進まない車にはイライラする。
「面倒くさいわね。今すぐ皆、呪ってやろうかしら」
そうして排除出来たら、走りやすくていいのにと思った。
静かな車内にアタシの呟きはすぐに霧散する。そして前を見ながら『安良城らら』のことを思い出した。
国司さんの遊び相手。
若くてそこそこ可愛い顔をしていて、実にムカついたのを覚えている。
だからいつもより苛烈に脅して、金や犬を奪ってやった。あとは狗神の呪いで私達の前から、勝手に消えるだろうと思ったが。
「また現れるなんて。下品な女。思ったより悪運が強かったのかしら」
シートに背を預けて考える。
二日前。国司さんから『ららに訴えられる。弁護士が俺のところに来た!』と騒ぎ立ててアタシに連絡が来た。
話を聞くと、国司さんが喫茶店で一人ゆっくりとしているといきなり、安良城が乗り込んで来て訴える騒いだそうだ。
おまけに後から来た、林と名乗る男性の弁護士が一方的に水を掛けて。家に訴状が届くから待っていろと、やりとりがあり。二人はその場を去ったのだと言う。
「……普通、弁護士はそんなことをしない。依頼主と一緒に来るはず。もしくは電話対応。むしろ、国司さんの居場所を知っていて、喫茶店に乗り込むことが怪しいのよ……」
それはある程度。安良城と林という男が国司さんの動向を把握していたから、乗り込んで来たのだろう。
それも一目の付く。喫茶店と言うところを選んでいるのも気になった。
普通もっと静かな場所を選ぶ。だからこれはきっと脅し。本当の弁護士なんか雇ってない。
安良城が悪運で生き延びて、国司さんに嫌がらせをしたくてそう言う事を企てたのだろう。
「その林って男も、どうせ安良城が股を開いて、協力して貰った男でしょ」
はぁっと、ため息をつくと。
丁度、道路の混み具合が少し緩和され、するすると動き出してやっと高速を降りれた。
ずっと周囲が同じ風景が続き、飽きてきたところだった。
街の中に入ればホテルは目と鼻先にある。
車の時計を見ると17時を過ぎていた。
まぁ、少しぐらいセイレンを待たせてもいいだろう。問題ないと思った。それよりも問題あるのは、やはり安良城と言う女。
「全く、やな女。脅して金を取ったときも言われるがまま、金を差し出していた癖に。そのまま黙って大人しく死ねば良かったのよ」
迷惑極まりない女である。
一応。昨日は訴状が本当に届くかのか。
また狗神に何か異変が起きてはいないか。
その為に国司さんと、一日中家にいて様子を伺ってみたが。
訴状はやっぱり届かなかった。狗神にも特に何もなかった。これは嫌がらせだとそう思うべきだろう。
このような、まどろっこしいことをした安良城への疑問は残るが、これ以上は勘繰っても仕方ない。相手の出方を待つしかない。
そんな風に国司さんを宥めたが。まだ猜疑心を持っており。国司さんは今日も一日家にいると言うことだった。
アタシも一緒に居ようかと迷ったが、セイレンの存在が気になった。
セイレンが占い師と言うのならばこの状況をどう占うのか、ぜひ聞いてみたくなったのだ。
それに、狗神に異変は無かったがそろそろ贄を与えてもいいだろうと思い、犬を調達しようと思い、外出を選んだのだった。
「アタシはサクッと占って貰って、犬を適当に買って。スーパーで買い物がしたいのよ」
それは家でジリジリとしている国司さんに何か、美味しいものとか。好物を作ってあげたかったのだった。
国司さんは本当に訴状が届いたらどうしよう。あんなクソ女と遊ぶんじゃなかった。
俺にはやっぱり粧子だけだと、アタシにすがってきたのだ。
これに懲りて、女遊びは最後になるんじゃないかなと淡い期待を抱いていた。
ふっと、軽い笑みがこぼれたとき。
ぞくっと妙な寒気がアタシを襲った。
「えっ」
なんだろうと体をさする。
なんたが胸がドキドキして周囲を見ると、道は大通りに出てたところ。
景色は背の高いビルやコンビニ、ドラッグストア、パチンコ、飲食店がチラホラと並んでいた。
何も変わったことはない。
なのに違和感をゾクゾク感じる。
すると丁度。目の前の信号が赤になり。
車を止めた。
目の前に人が行き交う。
「やだ。風邪かしら……いえ、違うこれは……」
何か嫌な──予兆かと思った瞬間。
胸がズキリと痛み。
口から何かごぼりと溢れた。
突然の吐き気に襲われたと思い、慌てて口を抑えると。
手に付着したもの。それは真っ赤な鮮血だった。
「あっ……れ?」
言葉が出たらまた、喉の奥から血がごぼっと溢れて。咽せてしまった。
そして急に胸が痛んだ。
まるで刺されたよう!
痛い、痛いと叫びたくても口から、血が溢れて言葉に出来ない。
バタバタと座席で暴れる。
額に脂汗が浮かぶ。
道ゆく人たちが、ぎょっとしてこちらを見ているのがわかる。
なのに、この身に起きた出来事が全く分からず、ただ胸の痛みに耐えきれず、胸を掻きむしって暴れるしか出来ない。口からは血が溢れる。助けて。息が上手く出来ない。苦しい。助けて。
「な、なんで、どうして……っ!?」
なんとか声を出せたその瞬間。
ドスンっと胸に衝撃が襲ってきた。
「ぐっ、ぅあっ!」
痛みと衝撃で体が海老反りになり。シートベルトを目一杯、前に引っ張り、痛みで硬直する。
それはまるで。
アタシに恨みを持っている人間が、見えない刃物でアタシの心臓を刺したら、こうなんるんじゃないかと思えるようなもので──。
あまりの痛さに目を回した。
すると一気に視界が暗くなり。
意識も朦朧とする。
体から力抜けて、そのままハンドルへと倒れ込むと、プァーとクラクションが鳴り響いた。
耳にはわぁわぁと騒ぐ声。
それも遠くなり。
最後に思ったのは、国司さんの好物。
唐揚げを作ってあげたかった。
そんなことだった。
※※※
『青蓮寺霞』
犬養はバカみたいに哄笑し続ける。
「くふふっ! 粧子なんて女、別に好きでもなんでもない。結婚したのは借金を肩代わりしてくれると言う理由だ。それだけだ。それに、そうだ……そうだよっ! なんで、気が付かなかったんだ。くふっ。粧子なんかいなくても良かったんだ。狗神を祀っていく役割は、他の女を孕ませたら問題ない。粧子みたいな陰気な女じゃなくて、若くて美人な嫁を見つければいいっ。ふふっ。狗神さえいれば俺は無敵なんだ!」
「魂まで腐ってんな」
心の底からの言葉。
しかし、犬養には何も届かない。
「くふふっ! なんとでも言え。どうせ、お前もこのまま死ぬ。俺が絶対生きて返さない。くふっ。お前は俺に負けたんだよ。この、負け犬がっ!」
胸糞悪い告白により、犬養が無事でいられた理由が分かった。
粧子は犬養が作った災厄避けの札の効果により、しかも贄にされて。
本来犬養が受けるべき怨霊達の念を──災厄を被った。
だから犬養は台所で、包丁を自らの胸に突き立てることはなかった。その代わりに、粧子があの怨霊達の念を全て受けたのだろう。
怨霊までが消えてしまったのは近しい存在を贄として捧げたから、効果が最大限に発揮されたとか。
一回限りの最大の防御効果の恩恵。
きっと、呪術的な理屈にはそう言うことなんだろう。
粧子は無事ではない。おそらくは死んでいる。
それも犬養は分かっているはず。
「これは絶対に、ケリをつけなアカンな」
犬養が自ら種明かしをしてくれたお陰で、もう犬養には奥の手もないことがわかった。
耳障りな長話を聞いて、呼吸を整えることは出来た。いける。いまならまだ動ける。
痛みを無視して行動を再開しようと思った。
まずはもたれている障子を開けた。すると思っていた通り。障子の向こう側は廊下を挟んでガラス戸があり。ガラス越しに庭が見えた。
そして、その庭の真ん中には、ららちゃんが言っていた通りの長い棒。ポールが見えたが、それをマジマジと見つめている余裕などなく。
そのままガラス戸に近寄り、警棒で窓を叩き割り。
隠し持っていた防犯ブザーのピンを抜いて。割れた窓ガラスから素早く、庭へとブザーを放り投げてやった。
庭でけたたましい音を響かせるブザー。
僕の一連の行動に意味がわからないと、困惑している犬養。
「な、お前。一体何をしているんだ!?」
その言葉を聞きながら、犬養から視線を外さず、ゆっくりと。また畳のある部屋に戻り。箪笥側へとまた少し、近づく。
「実は仲間とここに来た。腕に覚えのある一流の蘆屋家が誇る、呪術師たちへの合図や。それにこれだけ音が鳴り響いていたらご近所さんも何事かと思って来るかもしれんな? 今すぐ箪笥を置いて逃げてもえぇで?」
「……!」
もちろん呪術師なんて来ない。
|はったり《ブラフ》。しかし、犬養にはそのはったりは充分に効いているようで、目を左右に泳がせていた。
犬養の表情にやっと、焦りが見えた。
きっと呪術師達が乗り込んで来るのを、脅威と考えたのだろう。
近隣の住人が扉が壊れた家の中に、直ぐには入って来ない。まずは異変だと思い。警察に連絡するだろう。むしろその方が犬養に取っては面白くない。
ならば。
まずは犬養のやるべきことは、僕を排除してブザーを止める。
もしくは僕を人質に取って、来もしない呪術師に優位を狙うか。そんなところだろう。
そう、とにかく犬養は短絡的に僕に襲いかかってくればいいのだ。
僕にとって不利なのは、着かず。離れず。時間稼ぎをされること。
ならば不安要素も消えたいま。
体力があるうちにこちらから、けしかけたと言う訳である。
もし、ららちゃんが来ても今ならまだ『逃げろ』ぐらいは言える。
誰かこの場に乱入したところで、犬養は箪笥を置いて、まだ息のある僕を置いてこの場を離れるとは思えない。
まさか呪術師なのに、最後は体力勝負になるなんて思いもしなかった。
はぁっと、大きく呼吸して。
「ごたくはええやろ。いいから、かかってこい。この三流呪術師が」
わざとらしく煽ってやると、犬養は忌々しそうに顔を歪め。ぎりっと奥歯を鳴らした。
どうやら、犬養の頭でもこの状況は僕を排除しない限り何も動けないと判断したのだろう。
「お前みたいな怪我人なんか、さっさと片付けてやるから、大人しくしろぉ!」
犬養は拳を握りしめ。勢いよく畳を蹴り出してこちらに向かってきた。
犬養の叫びに、庭でずっと鳴り響くブザー音。
外は宵闇を迎えつつある。
ガラス戸からの夕日の残滓を受けて、畳に伸びる犬養と僕の影。
なんとも悪い夢のようだと思いながら、身を構えるのだった。
無茶苦茶に手や足を振り回してくる犬養。
それを擦り足で後方に下がってやり過ごす。
万全の状態なら胸元を掴んで、二手ぐらいの動作で組み伏せる自信がある。しかし、今は体力を温存しつつ組み伏せ。犬養の意識を落とすということを、しなくてはならない。
犬養にもっと大きな隙が欲しいと、警棒を振り抜きたいが距離を取られると面倒と思い。
ここは仕方なく。警棒をわざとらしく、不注意で手放したかのように見せて。
そのまま傷口が痛む振りをして、片膝を付いた。
すると、してやったりと犬養はにぃと笑った。
「ちょこまか逃げてんじゃねぇよ! おらっ!」
犬養は思った通りに大きく足を振り抜き、僕の顔を目掛けて蹴り上げようとしてきた。
思い通りの行動。誰が逃げるか、そんな事を言いたくなるのを硬く口を結び。
上半身を後ろに逸らして、顔に迫って来た足を紙一重で交わし。犬養の足を体全体で捕まえるように、飛び掛かった。
「捕まえた」
「なっ」
そのまま体重を前に掛けると、犬養の体はバランスを崩して、畳にどすんと倒れ込む。
つかさずマウントを取る為に犬養の体の上に覆い被さり、犬養の首。気道を狙って首に手を掛けようとすると、がしりと両手を掴まれた。
「っ、そうはさせるかっ……!」
必死の抵抗をする犬養。
ギリギリと拮抗する互いの腕の力。
「ほんま、しつこい男やなっ」
ねっとりと汗ばむ犬養の手が気持ち悪い。
早く決着を付けたい。
本来上に乗っている僕が有利。しかし、傷口が痛い。そのせいで、思ったより力が込められなくて焦る。
そこに追い討ちをかけるように、今の一連の動きで傷口が熱を持ったように疼き、痛みが増した。
しかも刺された箇所の着物がベッタリと、肌に張り付いている感触もある。
それは決して汗なんかじゃない。その感触に肌が粟立つ。
だから早く決着を着けねばと。上半身に体重をかけると、焦りからか下半身を浮かせてしまい。
畳に止めて置いた、犬養の片足を自由にさせてしまった。
「──っ!」
しまったと、思ったのも束の間。
犬養は自由になった足で、思いっきり僕の腹に蹴りを入れて来た。
「ぐっぅ」
たまらず畳の上に転がり、痛みで呼吸が詰まる。しかも傷口にまた痛みが加算されて、一瞬、動きを止めてしまった。
その一瞬を見逃す犬養ではない。畳に額を擦り付けながら、僕が見たものは犬養が嬉々として素早く僕に近寄り。
大きく足を上げて、僕の腹の上に勢いよく足を振り下ろす光景。
その直後にどすっと体に鈍く響く激痛と衝撃。
「!!」
「なんだ痛くて声もでないってか。くふっ。ふふ。えーっと、刺してやった場所はこっちだったか?」
腹の上に乗せられた足に、さらに体重を乗せるように前屈みになる犬養。
ぐりっと、足を動かされて。また声に鳴らぬ悲鳴を出してしまうと犬養はくふふっと、薄気味悪く笑うだけ。
流石にこれはやばい。
痛さを通りすぎて、クラクラしてきた。
それでもなんとかと思い、幸いにも倒れ込んだ場所は箪笥側。少しでも近づこうと腹に乗せられた足をどかそうと、手を動かすと素早く足を引かれ。
瞬きの間に今度は犬養が僕の上に乗って、躊躇う事なく。僕の首をキリキリと締め上げてきた。
「これで終わりだ」
「がっ……ぐっ」
締め上げている犬養の手を外そうと、犬養の手を掴み。力を込めるが、犬養はびくりともしない。
近くで見る犬養の表情はどこかサディスティクに歪み、口元も歪んでいた。
「ふふっ。すげぇ。動脈がピクピク動いている。でももう終わり。くふふ。死ね。早く死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねっ──!」
犬養の指が喉にさらに食い込み、声を上げることも出来ない。
目の前がチカチカして頭が痛い。苦しい。
流石に死を意識した。
そして、こんなところでまさか、|呪い《犬養》によって殺されるとは。
これが僕の因果応報かと思った。
また、ギリっと指先の力が込められ。
いよいよ意識が途切れかけ。ここまでかと覚悟した。
ふと心に浮かんだことは、依頼がこなせなくて悪かったこと。
どうか、彼女が無事に逃げてくれていたらいいが──と、思った。まさにそのとき。
「うわぁぁぁっ! 青蓮寺さんから離れてぇ──ッ!!」
大きな叫び声が大広間に響き渡った。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!