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東京に戻ると、あっという間に準決勝の日が迫って来た。
「おまえら別れたの?」
幸成の肥えた腹にパンチを浴びせながらも、内心では瑞奈が東京に本当に戻ってくるのかが心配だった。電話では、瑞奈はけろりとした口調で「大丈夫だよ。検査結果が出たらすぐにそっちへ行くから」と言ってくるのだが、その検査結果が判明する日を俺に教えてくれることはなかった。
明日は帰ってくるだろう。そう思い続けるうちに、準決勝の前日を迎えたのだ。
夜、瑞奈が電話で「うーん、やっぱ準決勝は行けないや」と口にした時、俺の精神を安定的に繋ぐ糸みたいなものがぷちりと切れた。
「なあ瑞奈、いつ検査結果が分かるんだ? それぐらい教えてくれ。おまえまさか検査結果を俺に報告しないつもりなのか」
強めの口調で問いただしてしまった。送話口が無音を運んでくる。瑞奈の息遣いさえ感じられなくなった。
スマホを握る手に汗をかき始める。無音。俺が何かを言うべきか。無音。ごめん驚かせたよなと言うべきか。無音。汗が眼前の光景を溶かすように、視界がぼやけていく。もう我慢できない。
「瑞――」
「ばれたか」
「はい?」
「だから、ばれたか。へっへっへ」
おまえそれどういうこと、と言うよりも先に瑞奈が言葉を続けた。
「今日だったんだ。結果出たの。明日も病院から呼び出しを受けてるでごじゃる」
心臓が跳ねた。
口から鼓動音が跳び出そうなほどに、激しく脈が高鳴っている。息苦しさを覚える。手の平にじっとりとした汗を感じる。尋ねたい言葉を口にすることができなかった。そんな俺の気配を察したのか、瑞奈がゆっくり言い放った。
「ALSだよ。確定診断で結果出た」
その言葉は、遠くから一気に俺の耳を侵襲した。殴られるよりも大きな衝撃で頭がくらりとした。
汗の粒がこめかみを伝って、顎先から滴り落ちた。
ぼやけていた視界が白濁とした靄のようなもので覆われていく。腰から下の感覚がなくなっていく。俺は今立てているのだろうか。そもそもこの電話は現実なのだろうか。そろそろアラームが鳴って俺はベッドの上で朝陽の透けたカーテンを目にするのではないだろうか。
「ごめんね。だから、そっちには行けな――」
「今から、おまえのとこに行く」
既に旅行用のバックパックに目を向けていた。手足が勝手に動きだす。宿泊に必要なものを詰め始める。相変わらずスマホを握る手は汗まみれで、いや、全身が汗まみれで、おまけに鼻息が荒くなっていた。何かをしていないと精神的におかしくなりそうだった。
「まだ新幹線間に合う。最終に乗る」
「晴翔くん、駄目っ」
「何が駄目なんだよ」俺は荷造りする手を休めない。
「こっち来ないで、準決勝に出て」
「準決勝どころじゃないだろ」苛立ちで、言葉尻が舌でまくりあがる。呼吸が脈動が感情が、どんどんと荒くなっていく。同時に、部屋が急に狭く感じだしていた。圧迫されていく。空間的にも心理的にも、なんだか圧し潰されそうだ。何かをしていないと、何かを喋っていないと、おかしくなりそうだった。「俺はおまえを支えるんだ。約束しただろ、一緒に生きるって」
「駄目だよ。準決勝に出なきゃ」
「だから、そんな場合じゃないだろ!」
「違うにょっ!」
送話口からの乱れた息。苦しそうだ。ぜいぜい言ってる。呼吸を整えようとしているのか、時折り大きく息を吸い込んでいた。その音が俺の脳の中へ黒い澱を流し込んでくるようだった。
「晴翔くんが出にゃきゃ、勝てにゃい。やだよ。こんなふうに迷惑かけるの。あたしが病気になったから、晴翔くんが出場できなくて、それで負けたにゃんて嫌にゃの。ねえ、支えてくれるにゃら、明日は試合に出て」
言い返せない。口を開き、また閉じた。瑞奈の呼吸音が少しずつ平静を取り戻していくのを電話越しで感じながら、俺はその場でくずおれた。
「あたしの性格分かってるでしょ。嫌にゃにょ。あたしのせいで晴翔くんが試合に出られにゃいにゃんて。お願い。出て。パスに思いを込めて。シュートに熱を込めて。走る足に気持ちを込めて! そして勝って、あたしを決勝に連れていって。そのために、晴翔くんは、今はこっちに来にゃいで」
視界が滲んだ。涙。プールの中で目を開けた時のように、目に映るものがゆらりと揺れる。スマホを耳に強く押しあてたまま、ゆっくりと顔をあげた。窓の外に柔らかい光を纏った満月が見える。涙が零れた。
「おまえ、強いな。ホントに強いよ」
不思議と涙は数滴で止まった。零れ落ちた時に、余計なものを一緒に絡め落としてくれたのか、視界がクリアになっていた。煌々と輝く月がはっきりと見えた。
「ばかもにょ。今頃気付いたにょか。へっへっへ」