コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
そこは、いつか映画で観た古い洋館のようなホテルではなかった。
天井には、ブラックライトで光る天の川が見える。
体的にショッキングピンクと黒を合わせた内装は、どこかの国のお人形のベッドのようで、早苗の現実感を削ぎ落としていく。
シャワーがタイルを打つ音が、規則的に聞こえてくる。
木製のドア一枚。
ガラスの折れ戸一枚。
隔てた向こう側に、大人の男の裸がある。
今から自分を抱く、若くてたくましくて美しい裸が。
早苗はバスローブに包まれた自分の身体を見下ろし、そして膝を抱いた。
誰にでも訪れる初めてのセックス。
もちろん、32歳でそれを迎えるのは遅いほうだと思う。
迎え撃つ準備完了が初潮だとすると、それか20年間も経っている早苗の体は、とっくに準備万端なはずだ。
恐れることはない。
女の体は、男の体を向かい入れる作りになっている。
男女は子孫繁栄のためにセックスするように作られているし、子供ができない避妊具だって準備されている。
若くて、女に慣れた男。さっきはそれどころじゃなくて流してしまったが、“定期的な検査”も受けているらしい。
何一つ、恐れる要素はない。
ガチャ。
シャワーの音が止んだことに気づかないほど緊張している自分に、がっかりしながら、見上げると、バスローブにゆるく身体を包んだ男が、濡れた髪の毛を拭きながら脱衣所から出てきた。
そのはだけた隙間から、淡い褐色で引き締まった腹筋と、黒いボクサーパンツが覗いて、早苗は思わず目をそらした。
「お待たせ」
言いながら横に腰かけて、髪の毛をガシガシと男らしく拭いている。
その姿を見上げる。
きっと本来の髪はこうなのだろう。
水を得た髪の毛はうねっていて、それこそ今風だった。
「天パ?」
聞くと、カズヤは笑った。
「まさか」
そう言うと、うねった髪をわざと引っ張った。
「“結城くん”は直毛なんでしょう。ご依頼に沿って伸ばしてきたまでですよ」
その口を手で思わず覆う。
「ーーーろしたろ《どしたの》?」
口を塞がれたままカズヤが目を丸くする。
「敬語、止めて」
「けいろ《敬語》?」
早苗は必死で頷く。
察してくれたらしいカズヤの目が、優しく細められると、その手が彼の大きな手によってそっと外される。
「わかったよ。ごめんね、早苗ちゃん」
言いながら、足を開き、早苗を包み込むように抱きしめる。
筋肉質な腕が、早苗を温かく心地よい強さで包み込む。
(不思議な感じ)
身体に溜まっていた力が、プシューっと抜けて行く。
(なんでこんなに、安心するんだろう)
ゆっくり見上げる。
(……………あ)
てっきりこちらの反応を余裕一杯に楽しんでいるかと思いきや、早苗を抱きしめてくれているカズヤは、大事なものを抱きしめるときのように、眼を瞑ってくれていた。
その表情が堪らなく愛おしくて、つい見つめてしまう。
ただ頼まれたから、とは違う。ただヤリたいから、とも違う。
“何か“がそこにあることを信じて、早苗は少し、身体を彼に向けてねじり、その首に腕を回した。
結城よりも長い睫毛が上下に別れ、瞑っていた彼の目が薄く開く。
その奥の瞳が早苗を映す。
(変なの)
今日会ったばかりの他人なのに。
彼の職業も。
学歴も。
彼女がいるのか。
はたまた結婚してるのか。
どこで生まれてどんな人生を送って。
今どこで何をして生きているのかも。
彼の年も。
彼の連絡先も。
彼の本名でさえ。
知らないのに。
そしてきっと。
知らないまま別れるのに。
早苗は今から、全ての“初めて”をこの男に捧げる。
両手が優しく早苗の顔を包み込む。
バーで幾度も合わせたはずなのに、新鮮に感じる唇が、優しく早苗のそれに触れる。
少しずつ。満潮に至る波のように、男の舌が、熱く、強く、激しくなっていく。
早苗は男の肩に腕を回し、その快感に喘ぎながら、夢中になってその舌を求めた。
いつの間にかベッドに押し倒されていた。
糊のきいたシーツの感触が気持ちいいと思って初めて、バスローブが脱がされていたことを知った。
男の唇が胸の突起に触れたことで、下着が外されていたことに気づき、長い指が抵抗なく入ってきたことで、ショーツが脱がされていることを知った。
それくらいカズヤの動きと、彼による愛撫の流れが自然すぎて、早苗は迷う暇も、戸惑う暇も与えられないまま、気づけば裸で、秘密を暴くように攻めてくる彼の指に、悶え狂っていた。
(ーーー何これ)
あまりの快感に目じりに涙が浮かんでくる。
(自分でするのと全然違う…)
「ーーーそう?」
カズヤが視線を上げた。
(嘘。私、口に出してた…?)
思わず両手で口を塞ぐ。
「自分で、するんだ?」
言いながらもう一つの手が、早苗の頬を撫でる。
「もしかして、オモチャとか使う?」
早苗は顔を真っ赤に染め、首を振ったが、カズヤには何もかもお見通しのようで、
「だからか。初めてにしては、素直に反応するなって思ったんだよね」
ふっと笑った。
「ーーーもう、死にたい」
きっと二度と会うこともないとは思いつつ、それでも全てを捧げてもいいと思えた相手に、一番隠したかったことを知られ、早苗は羞恥心に押しつぶされそうだった。
カズヤが優しく吹き出す。
「死なないで」
そして顔を寄せ、耳にキスをする。
「ーーー柔らかくて、熱くて」
言いながら、顔を覆った手を優しく剥がしていく。
「触ったところ全部が反応してくれて」
言いながら指を優しく動かす。
その動きに合わせて声が漏れてしまう。
「すごくかわいいよ」
カズヤが早苗を見つめる。
その目に余裕のない欲望の色を感じて、その吐息に熱い興奮を感じて、早苗は目の前の男が愛おしくなった。
「ーーーいい?早苗ちゃん」
早苗は頷いた。
男が優しく微笑む。
そこには結城の影は、もうなかった。
「痛かった?」
汗を滴らせたカズヤが自分を見下ろす。
首を振る。
痛くない、どころか。
「その、すごく……」
「えっ。気持ちよかった?」
おずおずと頷くと、彼は感心したように息を吐いた。
「すごい。さすがに初めてでよかったっていう子は、経験ないかも。俺」
言いながら、
「練習の賜物だね」
くしゃっとした顔で笑う。
茶色で艶やかにうねった髪の毛。
黒目がちで人懐こい目。
どこか犬みたいな嫌味のない笑顔。
光る八重歯。
こうして見ると、全然違う。
早苗は自分の中に入ってきた、今日会ったばかりの男の子、カズヤに気持ちを込めて、その首と腰に腕を回した。
「————んー?」
カズヤが優しく笑う。
「どうした、早苗ちゃん?」
「カズヤくん、ありがとうね」
「……………」
一瞬戸惑ったように言葉が消えた。
「坂井さんに頼まれて、嫌々来てくれたんだよね。ごめんね。ありがとう」
その言葉を出すと、胸のつかえは取れたが、同時に魔法が解けた切なさが襲ってくる。
しかし言わなければ。
彼は、こんなことまでしてくれるほど、きっと――――。
坂井のことが好きなのだ。
「早苗ちゃん」
切なさに涙目になった早苗を、カズヤが微笑んで見下ろす。
「何か、勘違いしてない?」