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3限の講義室に入ると、いつもの席に既に座っている璃空の背中が見えた。
広い講義室の中の真ん中の列の左端窓際。
その席に座る璃空は、頬杖をついて窓の外を眺めていて、俺が来たことにも気付いていない。緩んだ頬のまま、そろりそろりと近寄って、ポンと肩を叩く。
璃空にしては珍しく驚いたように体を揺らして、勢いよく振り返ってきた。
よっ、と手をあげる。璃空は笑ってくれたけれど、どこかぎこちない。やっぱり俺が璃空が不快になるようなことを、何かしてしまったのかもしれない。思いつくことと言えば、恋人に対してすることを無闇に聞いてしまったことくらいだ。
「隣、いいか?」
一応お伺いを立てれば、もちろん、と言った璃空が荷物を逆側に置いてくれる。完全に拒絶されてはいないのが分かって、ホッとしながらその席に腰を下ろす。それから、静かに息を吸った。
「璃空、この前は突然変な事聞いてごめん。気分悪くしたよな」
謝るのは早いほうが良い、と母から口酸っぱく言われてる俺は、すぐさま言葉にして璃空を見る。目をまん丸にした璃空は、こてんと首を傾げた。
「何の話?」
「この前何の前置きもなく、恋人同士ですることについて聞いただろ? それの事。今考えたら失礼だったよなって」
「あ、あぁ、うん」
どっちともつかない曖昧な返事が返ってくる。
もしかしてそれではなかったのか? そう思ったのだけれど、少し呆けていた璃空が、いつも通りの笑みを浮かべて、なんてことないように言った。
「あれね。全然気にしてないよ。俺こそなんか気ぃ使わせたみたいで悪い」
璃空の言葉を頭で反芻する。
全然気にしてないよ? じゃあどうして俺のこと避けてるんだ。
避けてないとは言わせない。遊びに誘っても全部断る。いつも一緒に食べていたのに、一緒にご飯を食べようと誘っても何か理由を付けて断られる。避けている以外のなんだというのか。
上手く言葉がまとまらない。ぐっと唇を嚙み締めた。
そんな俺の気も知らずに、璃空はまるで壁を作るみたいに俺側の右腕で頬杖をついて、講義室の教壇へ顔を向けている。
俺たちの間に出来た溝は、思っていたよりもずっとずっと深い、と思わせるそれ。
一度出来てしまった溝は、簡単には埋まらない。零れてしまった水が元に戻らないのと同じように、新しい物で修復するしかない。でもそれにも、どうして避けられているのか知らなければ、俺が出来ることはない。せめて理由だけでも知りたかった。
璃空にぶつけてやろうと思った言葉は、タイミング悪く本鈴に遮られて口を閉じるしかなかった。この講義の教授は、私語を絶対に許さないタイプだったから。
もやもやとした物を抱えたまま、教授の言葉に意識を向ける。
90分という時間がこんなにも長く感じたのは、今日が初めてだった。何度も時計を見ては、小さく息を吐く。
それを何回繰り返したか分からなくなるくらい沢山した頃。
「少し早いが、今日はここまで。夏休みだからといって羽目を外しすぎないように」
本鈴がなる前に終わった講義。他の学生が沸き立つ中で、すぐさま璃空を見る。璃空は笑ってはいなかった。黙々と筆記具と教科書をリュックに詰めて、さっさと立ち上がったのだ。
「じゃあ俺この後バイトだから。またな、洸」
「っ、待ってくれ、璃空」
身を翻そうとした璃空のリュックの紐を思わず掴む。見上げた顔には、やはりいつものような笑みはない。張り付けたような薄っぺらい笑みが、俺を見下ろしていた。立ち入らせないと言わんばかりの、嘘くさい笑み。ぐっと奥歯を噛む。でも俺だってこのまま有耶無耶にするなんて絶対に嫌だった。
「……もう一つ聞きたいことがあるんだ。頼む」
ここで引き下がってしまったらもう二度と聞けない気がして、食い下がる。ふっと小さく息を落とした璃空が、ゆっくりと体を俺に向けた。眉を下げて困ったように、璃空は問うてきた。
「何が聞きたいの?」
凪いだ声だった。いつだって何かしらの感情が乗っている璃空の声を、こんなに虚無に感じだのは初めてで、少しだけ怖気づく。からからになった喉でありったけの唾液を集めて飲み込んで、ゆっくりと口を開く。
「お前最近俺のこと避けてるよな? 俺、お前が嫌がるようなこと、なんかしたか?」
璃空は何も言わなかった。胸の内の不安がどんどんと大きさを増していく。
「考えても思いつかないんだ。でもお前にとって嫌なことをしたなら謝りたいし、このままずっと避けられるのは嫌だから、避けてる理由を教えてほしい」
勝手に回る口に任せた。沈黙が痛い。でも目を逸らさずにじっと璃空を見つめ続ける。ゆらゆらと璃空の瞳が左右に揺れていた。すぅっとその瞳が瞼に隠れて見えなくなって、三日月を描く。
「ははっ、そんなことないよ。洸の気のせいだって」
気のせい? カッと腹の底が沸騰する。その熱が全身を巡った。
そんなわけないだろう。俺が気付かないとでも思っているのか。どれだけお前と一緒にいたと思ってるんだ。そんな嘘が通用するほど、俺はバカじゃない。
湧き上がってきた怒りを、そのまま口から出した。
「気のせいって何だそれ。じゃあなんで講義以外で俺と会うの避けるんだ?」
目を逸らしたのは、璃空の方だった。
ほらみろ。やっぱりそうなんじゃないか。
喉の奥がぎゅっと締め付けられるような痛みを無視して、立ち上がりながら手を伸ばす。
「今だってそうだ。何か理由がなきゃそんなことしないだろ、……ッ!」
あと少しで掴めそうだった璃空の服。それを、パシッという音と痛みで遮られた。俺の手を璃空が払ったから。
じんじん、と手のひらが痛み始めたのを頭の片隅で認識しながら、俺は璃空を見つめた。見つめることしかできなかった。そんなことをされたのは初めてだったし、純粋に驚いたから。
咄嗟の反応だったのだろう。璃空も驚いたような顔をしていた。でも状況を理解した途端、くしゃりと璃空の顔が歪んだ。
痛いのは俺の方のはずなのに。それ以上に痛そうで傷付いたような顔だった。
なんでお前がそんな顔するんだよ。
そう聞いてやりたいのに、言葉が出てこない。喉のもっと奥が痛かった。
「ごめん」
ぽつりと璃空が言って、顔を背けられた。前髪の所為で、苦しそうに歪んでいる口元しか見ることが出来ない。
「ごめん、本当に洸は何も悪くないよ。全部、俺の問題なんだ。本当にごめん」
何度も謝った璃空は、動けないままの俺を置いて、身を翻してしまった。
謝ったとき、璃空はどんな顔をしていたのだろう。
そんなことをぼんやりと考えて、俺は突っ立っていた。
ポケットのスマホが振動して、やっと我に返る。取り出して見た画面には、山川さんの『図書館の近くのコンビニで待ってる』というメッセージが表示されていた。
ふーっと息を吐いて、顔を上げる。出しっぱなしになっていた筆記具と教材をリュックに押し込んで、俺もまたその場を後にしたのだった。