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契約結婚【けいやくけっこん】
夫婦関係の継続期間や生活上の条件などを取り決めてする結婚のこと。
遡ること数ヶ月前、
私たちは婚姻届を提出した。
そこに愛情なんてものはなく、有り体に言えば利害の一致。
彼は匂わせだ何だと言われてあらぬ噂を立てられることに疲れ、私は家族からの無言の圧力に耐えかねた。ただそれだけの話。
知人の手伝いとして参加した現場でお互いに一目惚れ。そのまま距離を詰め交際に発展した、ということになっている。まあ半分くらいはあながち間違いでもないのだけれど。
私の事情と大森さんの事情を知っている知人が、お見合いのような場を用意してくれた。あれよあれよという間に話は案外すぐにまとまってゆく。話し合いの結果いくつかの条件を”契約”として交わしたうえで、私たちは結婚することになった。
大森さん曰くお金の面は気にしなくて良いこと、そのかわり家事は任せたいとのことだった。申し訳なさもありつつ、「いくら稼いでると思ってるの」と絶妙に反応しづらい正論で返されてしまったので有り難く受け入れることにした。
それからというもの、この奇妙な形の結婚は案外うまくいっていたように思う。
仕事で疲れて帰ってきた大森さんはご飯やお風呂が用意されていることにひどく感動してくれて、本当にありがとうと感謝と労いの言葉をかけてくれる。
歌詞を紡ぐ彼から発せられると、シンプルでありきたりな言葉でも世界で唯一の輝きを放つらしい。こんな私でも誰かの役に立てているという実感が持てて嬉しかった。
不規則な生活を送る彼との関わりは最低限だったけど、朝起きたらメモと共に冷蔵庫にプリンが入っていたり、早く帰れそうな日はLINEに「今から帰るね」と送られてきたり。夫婦というよりもただの同居人のような距離感で日々を過ごしていた。
いつからだろう
それだけじゃ満足できなくなってしまったのは。
形だけのはずだった薬指に光るリングに、特別な感情が芽生えてしまったのは。
メディアで触れられた結婚の話題を自然にさりげなく受け流す彼の姿をみて、心が締め付けられるような気持ちになったのは。
…好きだ、と気づいてしまったのは。
私たちが最初に交わした契約を締め括っているひとつの文章。
「好意を寄せる相手ができた場合には、なるべく早く自己申告のうえ婚姻関係は解消する。早急に離婚届を記入し提出すること。」
机の一番目につく位置に、今までにないくらいとびっきり丁寧な字で書いた離婚届と指輪を残した。
「短い期間だったけど楽しかったです。」
返事の返ってくるはずのない空間に投げかけて、私はまだ日の昇らない外へと歩みを進めた。
冷たい空気が肺を満たして呼吸が苦しくなる。
鼻の奥がツンとして思わず唇を噛み締めて耐えた。
思わず飛び出したのはいいものの今の私に行くあてなんてなく、当分の間はネカフェやホテルを転々としながら新しい家を探した。
結婚に伴って辞めた仕事も、何かと理由をつけて復帰させてもらう目処が立った。
少しずつ日常が取り戻されている。だけど、ぽっかりと穴が開いたままの心だけは塞がりそうにない。何をしていても、彼と過ごした数少ないはずの思い出が頭をよぎる。気がつかなければよかった…な。そしたらずっと楽しいままでいられたはずなのに。
大森さんは有名人なので見え方ってものがある。発表したいタイミングもあるだろう。勝手に話すわけにもいかないので私が家を出たとか、諸々の話は誰にも言えないままだ。
彼らは今や国民的な大スターで、テレビやラジオにも引っ張りだこだし街中も彼らの曲で溢れている。嫌でも姿が見えたり、声が聞こえてきてしまう。
今日テレビを眺めていて目に飛び込んできたのは、「ミセス大森体調不良で休養へ」という信じがたい見出しだった。
私にそんな資格はないと思いつつ、どうしても心配な気持ちが抑えきれなかった。ブロックしていたLINEを解除して、「大丈夫ですか?」と勢いのまま送る。大森さんは誰にも見せずに陰でめちゃくちゃな無理をする。それが祟ったのだろう。心配で、それと同じくらい怖かった。彼にもしまさかのことがあったら。私は、…。
わずか1秒ほどで既読がついた。すぐに電話がかかってきた。心臓がばくばくと高鳴っている。指先が震えてスマホを落としそうになった。
「もし、もし」
「どこにいるの!!」
怒ったような強い口調に戦慄する。
「あ、あの…」
「ねえ!何か気に食わないことでもあった?僕のせい?ちゃんと直すからさ!」
「大森、さん?」
「会いたい。会わせて」
「どんな手を使ってでも他の男になんて絶対渡さないから。」
なんでそんなこと…それじゃあまるで大森さんが私のこと……
「なんで…」
「なんではこっちのセリフだから!何も言わずにいなくなって、どういうつもり?」
「俺、あの日から何も手につかなくて…仕事にならなくて、メンバーにもスタッフにも迷惑かけて…」
電話口から聞こえてくるのはすすり泣くような声で、今何が起こっているのかと混乱する。
きっと何かの間違いだ。
そんなこと…あるはずない。
「あの…大森さん、体調不良って…みて。大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないかな。」
「一人の家が怖くて、眠れなくなった」
大森さんはぽつり、ぽつりとまるで独り言のように言葉を溢す。
「貴女が誰かと一緒にいるのを想像するだけで苦しくて、」
「涙が止まらなくなった。」
「今更、好きだって気づいちゃったんだよ…。」
「もう…遅いのに。時間は戻らないのに。」
思わず息を飲む。そんな、こと…
「どうして…」
「ごめん未練がましくて。切るね」
「待って!」
「私も好きなの!!」
ああ言ってしまった。一生蓋をすると決めたはずの気持ちだったのに。
今度は大森さんが息を飲む音が聞こえた。
「本気?」
「…はい。」
「さすがに嘘じゃないよね?」
「ねえ今どこにいるのか教えて。はやく」
「もう僕の前からいなくならないで…」
姿を見つけるや否や思い切り抱きしめられた。こうして体温を感じるのは初めてだな、とどこか冷静な自分がいる。
「すみません」
彼は謝らないでと呟いて、真っ赤に腫れた目で微笑んだ。
「手、出して」
言われるがまま差し出すとあの日置いていったはずの指輪がはめられる。
「改めて、僕と結婚してください」
「…よろしくお願いします。」
言いたいことは沢山あるはずなのに結局好きです、みたいな月並みな言葉しか浮かんでこない。彼のように豊かな語彙で愛を伝えられたらいいのに。
妙に輝いてみえる街並みはきっと貴方のせい。