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『私、仕事辞めるから』 夫には、ただそう告げた。
自閉傾向に、知的障害の可能性。そんな言葉は飲み込んだ。どうせ、あの人は聞かない。聞く耳を持たない。
『考えすぎじゃない?』
『もっと気楽に育てようよ』
『大丈夫だって。紗枝は真面目過ぎるんだよ』
耳障りの良い言葉だけ並べて、安心だけを欲しがる夫。凛と向き合ってこなかった姿に私はもう何も期待していなかった。
心のシャッターはとっくに閉まっていた。
『本当に辞めて良いの?』
そう聞いてきたのは、同期の志保だった。
同じ日に入社して、同じ夢を見て、共に頑張ってきた──そう思っていた。志保は私にとって、戦友のような存在だった。
だけど、娘のことは一度も話せなかった。
志保の息子は一歳半で、凛と同じ二歳児クラス。
いわゆる当たり前の成長をしているらしく、「ママ」と言い、保育園では泣きながらも先生に抱かれて順応していった。
以前、子育て経験のある先輩に「保育園に預ける際に泣かれて苦しい」と打ち明けていた志保の声を偶然聞いてしまった。
それが普通なんだよね。
それは知っていた。だけど。
普通の母親は、泣いて縋る我が子に胸が締め付けられる。
知らなかったな。
一度でいいから経験してみたかったよ。「ママ」と縋ってくる、我が子に心を痛めるなんて。
連日続く雨に湿気が籠り、気持ちまで暗くジメジメとさせる六月末。私は十年勤めた会社を辞めた。
会社員としてのキャリアは、一度離れたら戻る場所はない。
だからみんな、どんなに苦しくても育休を取り、居場所を死守する。
私もそうなるはずだった。
家庭も、仕事も、両立する。させる。そう信じていた。
だけど、現実は雨のように重たく、容赦なかった。
厚い雨雲の下、激しく降る雨は傘で防ぎ切ることも出来ず、全身がずぶ濡れになりグレーのスーツが変色する。
私は傘の中棒を首に預け無理矢理両手に荷物を肩にかける。手首に引っ掛けていた紙袋は、湿気を吸ってよれていた。中には、園から返されたおむつと、着替え用の服二セット。もう必要のないであろうお昼寝布団。
本来二歳児なら園で作品を作る時期でそれも持ち帰るはずだった。でも、うちには何もない。一つもそんな物はない。
荷物が少なくて、良かったじゃない。
虚しい慰めで自分のバランスを保ちながら、雨のしみ込んだパンプスの中で、ぐちゃぐちゃに鳴る音にも無関心のまま、マンションへと歩いた。
『今まで、ご迷惑をおかけしました。本当にありがとうございました』
深々と頭を下げて告げた言葉は本心だった。
……でもそれ以上に胸に残ったのは、先生達のほっとしたような表情だった。
仕方ないよね。
保育園では二歳児六人に対して、保育士は一人。
その中で、叫んで、暴れて、言葉の通じない凛には、付きっきりの対応が必要だった。
この地域で加配の先生を頼めるのは三歳から。人手が足りなければ、他の子の安全だって守れない。
他の保護者が苦情を入れていたのも知っている。
迷惑だったよね。本当にごめんなさい。
凛を乗せたバギーには透明のカッパを被せていて、ポツポツと当たる雨音が不快なのか泣き喚いている。
この子のことを、私は誰にも話せなかった。ずっと隠してきた。見せられなかった。
ごめんなさい。こんな母親で。
こんな子を産んで、ごめんなさい。
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