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梅雨が明けた空は、眩しすぎるほどの陽光を落としていた。私達は今、その陽射しの下で、自分達なりの「適切な場所」だと思える環境に身を寄せていた。
木造二階の奥、三十畳ほどの部屋には、カラフルな滑り台にミニジャングルジム。幼児三人ぐらいが遊べる家庭用ボールプール。知育を中心にしたおもちゃがあった。
ここは「親子教室」と呼ばれる、発達にゆっくりとした傾向がある未就園児とその保護者が通う福祉施設だ。対象年齢は三歳まで。療育園への入園は満三歳からが原則で、二歳の凛はまだ対象外だった。
そのため、大学病院の医師が「気軽に参加してみては」と勧めてくれた、週三回の親子教室に通うことにした。
ここは発達が遅れている子供達の居場所。ここなら、馴染めるかもしれない。
そんな淡い希望を抱いて、私は扉を開けた。
……しかし、そんな淡い期待さえも、私を裏切ってきた。
『ではみなさん、親子体操の時間でーす』
『はーい!』
先生の掛け声とともに、軽快な音楽が流れ出す。初参加らしき親子もいるのに、子どもたちは笑いながら次の動きを知っていて、親の手を引いて体操を始める。
『絵本を読みます!』
先生がそう声をかければ殆どの子が一斉に前方に走って行き床に座る。
だるまが転けた絵本を見た子供達ら真似をして大笑いし、指差して「だるまさん」と無邪気に声を上げている子まで居た。
私達は、ここでも居場所がないのか……。
帰り道。バギーを押しながら、刺すような紫外線を浴びながら坂道をただ下る。体の奥に沈殿したものが、じわじわと浮上してきていた。
分かってる。
ここに来ている子供達も、定型発達ではない。言葉が遅く、支援が必要だとされたからこそ、この場にいる。
……もちろん、分かっている。けれど。
喋れてるじゃない?
笑って、母親と目を合わせて、遊べてるじゃない?
……通う必要ないじゃない?
そんなやっかみの感情が、私の中でドロドロに湧き立つ。
うちなんか、何も出来ないの。
ただ泣くだけで、何も。
バギーの取っ手を強く握り締めた私は、目から溢れてくる感情を抑えただ歩いた。
発達遅れの子が通う教室。一言で言っても、全然違う。
この先の未来も。
けれど、止まるわけにはいかなかった。
二週間に一度ずつ予約を取ってある、理学療法、作業療法、言語療法。週三回の親子教室も通った。
家に居ても何も変わらない。専門の先生に関わってもらって成長を促していかないと。
日々の生活のほとんどを外に費やし、凛の世話に、家事、自治会などの仕事も待っている。
ただ、こなす。考える余裕もないほど、スケジュールに自分を押し込める。
……私、何の為に生きているのだろう?
確定診断はまだ出ていないけど、病院の先生による意見書により療育園への入園が決まった。
通園時間が十時から十二時までだったのが、九時から十五時までになり、親子教室は自由参加でその日により人数が変わるから簡易なものしか出来ないと事前に説明を受けていた。
だけどこれからは本格的な療育が始まる。
頑張らないと。凛の為に。
『凛ちゃんは自閉スペクトラム症に、中度知的障害を併発しています』
大学病院に通って一年。春が来て、桜が満開に咲く頃。
凛、三歳。正式な診断が下りた。
一年前も、この桜の並木道を歩いた。バギーを押しながら。
凛は何も変わっていないと思っていたけど、一つだけ変わっている。それは体の大きさだ。
この幼児用バギーの対象年齢は三歳まで。凛は白米以外食べず痩せているからまだ乗れるけど、いつか乗れない日が来る。
三歳になれば、三輪車に乗る年齢。うちは、まだ、抱っこも難しいのに。
体は育つ。でも、心は足踏みを続けたまま。
その違いが、じわじわと胸を蝕んでいく。
『ぎゃあああああ!』
大学病院より帰宅するバス内。凛は突然癇癪を起こし、床に突っ伏して泣き叫ぶ。
必死でなだめるも、凛は叫び続け、周囲の視線が突き刺さる。
『すみません。すみません』
殆どの乗客は目を逸らし何も言ってこないけど、一部の乗客は口を開く。
『どうして抱っこしてあげないの?』
『何で叱らないの?』
『だからわがままに育つんじゃないの?』
事情を説明しても、誰も聞こうとはしなかった。返ってくるのは、無関心と無理解。
言ってくるのに、こちらの話を聞こうとすらしてくれない。
私が話すこと全てを否定して、会話すらしてくれない。
心が折れるというより、心が剥がれていく感覚だった。
我が子以外にも否定される、私。この世界は敵ばかりなのだろうか?
その時、小さな声が聞こえた。
『……あの子、赤ちゃんなの?』
無垢な眼差しで、凛を指さしたのは、同年代くらいの女の子。隣の母親が慌てて、『赤ちゃんは、ねんねしてる子のことを言うの』
焦った口調でそう返し、女の子の問いを別の話に逸らしていく姿。
けれど、それが一番、胸に突き刺さった。
凛は「赤ちゃん」と思われてるんだ。もう三歳なのに。まだ、そう見られてしまうのか。
その現実が、何よりも私を突き落とす。
もし私があの母親の立場なら、なんて返していたのだろう? あれほどしっかりとした対応は出来ていたのだろうか?
それが出来るほど人間が出来ていなかったから、うちには普通の子供が生まれてこなかったのだろうか?
……やめよう。もう、考えるのも疲れるから。
そう思ったのは、心が壊れかけていたからだと、この時の私は気付かなかった。
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