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第二話 名前のない者
湯は、熱すぎた。
皮膚に触れた瞬間、焼けるような痛みが走る。
思わず息が詰まり、肩が強張った。
笑い声がした。
背後にいる女たちの声だ。
きっと、怯え方が滑稽なのだろう。
湯気の向こうで、手が伸びてくる。
布で腕を擦られる。首筋を拭われる。髪に櫛が通る。
汚れを落とされているのは分かる。
だがそれは、清められているというより、
“使える形に整えられている”
そんな感覚だった。
「……」
声を出さないように歯を食いしばる。
痛いと言えばどうなるかは、もう十分知っている。
湯から上げられ、粗い布で水気を拭き取られる。
指先まで丁寧に。
寒さの中で生きてきた体には、過剰な世話だ。
新しい衣を着せられる。
麻の服。まだ硬いが、破れてはいない。
首元を整えられ、袖を引かれる。
腕を上げろ、回れ、立て。
命令は世界共通だ。
鏡の前に立たされる。
そこにいるのは、見慣れない男だった。
髪は梳かれ、顔の泥は落ち、布は破れていない。
奴隷というより、どこかの下働きのように見える。
外側だけが、別の生き物になっている。
中身は何も変わっていないのに。
廊下を歩かされる。
足枷は外されていたが、代わりに背後に人の気配がある。
逃げられないのは同じことだ。
扉の前で止まる。
「お嬢様、お連れいたしました」
軽く叩く音。
「お入りなさい」
中から返る声。
あの声だ。
扉が開く。
暖かい空気。
甘い匂い。
柔らかな布と木の磨かれた光。
ここは、人の住処というより、
飼い主の部屋に近い。
……檻の方がまだ分かりやすい。
部屋の中央に、あの少女がいた。
淡い色の衣。
背筋を伸ばした姿勢。
まるでここが世界の中心であるかのような立ち方。
「……見違えたわ」
私を見て、そう言う。
調子で察する。
「やはり、人は整えれば美しくなるのです」
品定めだ。
「もう下がってよろしいわ」
侍女たちが去り、部屋は二人きりになる。
暖炉の音だけが響く。
「名前は?」
名前。
北で呼ばれていた音は、ここでは意味を持たない。
言えば笑われるだけだろう。
黙っていると、少女は少し考えるように首を傾げた。
「そのままでは呼びにくいですね」
窓の外を見る。
山の稜線が白い。
そして、口を開く。
「ウラシェル」
その音が、部屋に落ちる。
これから、これが自分を指すらしい。
「あなたは今日から、ウラシェル。そう呼ぶことにしましょう」
与えられた。
服と同じように。
部屋と同じように。
役割と同じように。
名前まで。
喉の奥がかすかに動く。
だが声にはならない。
拒めないものは、受け取らない方が楽だ。
心の中に入れなければ、失くした時に痛まない。
「大丈夫。すぐに慣れるでしょう」
少女は微笑んでいる。
贈り物をした顔だ。
机に連れていかれる。
白い紙。
黒い液体。
羽根。
見たことのない道具だ。
「お勉強しましょう」
少女はそう言い、私の手を取る。
冷たいと言われたことがあった。
生きている人間の手の温度ではないと。
だが今触れている手は、もっと温度がない。
形だけのぬくもり。
「これは“神の言葉”。読めるようになれば、あなたも正しい道を知ることができます」
指を動かされる。
紙に黒い線が引かれる。
意味は分からない。
「力を抜いて。こうして持つの」
だがこれは、
この世界の“正しさ”を書くための印だということだけは分かる。
「A」
少女が音を発する。
「あなたも」
もう一度、手を動かされる。
線が歪む。
インクが滲む。
失敗したのだろう。
「そう、いいのよ。最初は誰でも難しいのです」
怒鳴られない。
叩かれない。
「慌てなくていいわ。時間はたくさんあるのだから」
代わりに、優しく微笑まれる。
それが一番、逃げ場がない。
ふと、視線が逸れる。
部屋の隅。
小さな台の上に、
布に包まれたものがある。
形がおかしい。
指がある。
干からびた、手。
目が離れない。
死んだものだとすぐ分かる。
だが捨てられていない。
飾られている。
「ああ」
少女が立ち上がる。
「気になるのですか?」
口角を上げる。
「栄光の手というのです。わが家に伝わる、大切な品なの」
誇らしげな声。
守りの印だと続けているらしい。
守るために、切り取られた手。
ここではそれが、美しい物として置かれる。
「怖がらなくていいわ。これは力の象徴。守りの印でもあるのだから」
理解した。
ここは、
優しい言葉で、命の形を変える場所だ。
「さあ、続けましょう」
少女が戻り、また手を取る。
生きている手を、
正しい形に直すために。
「あなたもすぐ慣れるわ」
窓の外で風が鳴る。
北の風より弱い。
けれど、この部屋の方が息がしにくいと、
もう気づいてしまった。
与えられた名前は、まだ胸の外にある。
入れてしまえば、本当にここに繋がってしまう気がした。
だから私は、
呼ばれても振り向かないままでいた。