テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
首を傾げながら日下さんを見上げると、
「ココ、真琴の職場」
日下さんの口から、耳栓をしたくなるような耳障りの悪い言葉が飛び出した。
「……何でですか? 日下さん」
声が震えて掠れる。喉の奥が『ヒッ』と鳴った。危ないかもしれない。真琴ちゃんと対面してしまったら、また呼吸が乱れてしまうかもしれない。
「俺、もうノイローゼになりそうでさ」
日下さんがポケットからスマホを取り出し、「見てよ」と私に手渡した。
着信の履歴には【真琴】の名前が連続で長蛇の列を作っていた。
何度指を動かし、画面を下にスクロールしようとも、出てくる名前は【真琴】。
「真琴に美紗ちゃんから聞いた話、確認した。美紗ちゃんが言っていた通りだった。この前、美紗ちゃんの気持ちも知らないで言いたい放題言ってごめんね。理屈で説明出来ないことってあるんだね。俺、真琴とはもう無理だなって思って別れを切り出したら……こうなったよね。着拒とかLINEブロックも考えたんだけどさー、逆効果になりそうじゃん。『連絡取れないから来ちゃった』とか言われて家の前で待ち伏せとか怖いし。真琴から着信があるうちはまだ次の行動に移っていないわけで。だったらこっちが先に行動起こさないと……ということで、美紗ちゃんも俺の嘘に付き合って‼」
日下さんが「お願い‼」と私に向かって両手を合わせた。
日下さんを自分の嘘に巻き込んでおいて、断れるわけがなかった。
日下さん、本気で困っている様に見えるし。
「……分かりました。でも、呼吸がヤバイかもです。危なくなったら助けてください。それで、どんな嘘を吐くんですか?」
「説明すると長くなるから全部俺に任せて。身体、無理だったら無理ってちゃんと言ってね。スッと背中を差し出すからサッと乗ってね。そしたら速やかに走り出すから」
走る準備なのか、日下さんが地面につま先をつけながら足首をほぐしだした。
「……またおんぶする気ですか?」
「YES‼ やる気満々‼」
日下さんが屈伸まで始めてしまうから、過呼吸だけは絶対に起こさない様に細心の注意を払おうと心に決めた。
「じゃあ、行きましょうか。あ、美紗ちゃん。ここからは俺のことは【和馬】って呼んでね。さっきまで俺は美紗ちゃんの【浮気相手】だったけど、今からは美紗ちゃんの【今カレ】なので」
日下さんが腰に手を当て、腕と横腹の間に空洞を作った。
「私は日下さん……和馬さんの今カノということですね。了解です」
日下さんの作った空間に自分の腕を通し、腕を組み直す。
「演じ切ってね、女優兼ペテン師美紗ちゃん」
「自分だってこれから嘘吐くくせに。俳優兼詐欺師な和馬さん」
2人で顔を見合わせ笑い合い、入り口の自動ドアに向かおうとした時、
「良かった、今日も美紗ちゃんの笑顔が見れて。やっぱ、笑ってる美紗ちゃんは凄く可愛い。大好き」
日下さんと私の恋人設定は店内に入る前から始まっていたらしく、日下さんが胸キュン台詞を放出した。
彼氏じゃなくとも、そんなことを言われたら嬉しいに決まっているわけで。
「……もう【今カノ】設定始まっていたんですね」
嘘で喜んでいることに気付かれたくなくて、照れ隠しにそっけない返事をした。
「まだ始まってない‼ いざ‼」
日下さんが、折角隠した照れを引っ張り出し、顔を真っ赤にしただろう私を連れて遂に店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませー」
カウンターにいた女性が元気よく挨拶をしながらお辞儀をした。
顔を上げた女性は、私たちを見て目を見開き、顔を引き攣らせた。
真琴ちゃんだった。
真琴ちゃんの背後では、スタッフの人たちが何やらザワついき始めた。……もしや。
「……もしかして、ここのスタッフのみなさん、日下さんが真琴ちゃんの元カレって知ってたりします?」
小声で日下さんに耳打ちすると、
「うん。真琴とこの会社のツアーに申し込んだことあるしね」
日下さんはコソコソすることもなく、シレっと答えた。
「……なかなかエグイことを考えますね」
日下さんの本当の思惑が見えた気がした。
日下さんの新しい彼女が私だってこと自体、真琴ちゃんにとっては屈辱なのに、日下さんはそれを周知の事実にして、真琴ちゃんに自分のことを諦めさせようとしているのだろう。
「面白くなってきたでしょ?」
日下さんは不敵に笑うけど、私は今の状態を楽しめる程肝は座っておらず、かといって引き返せる状況でもない為『そうですね』とは言えずに日下さんの腕をぎゅうっと握った。
「あのー、今度彼女と初めて旅行に行こうと思ってるんですけど、何かいい場所を紹介してもらえませんか?」
たくさんカウンターはあるというのに、日下さんは腕にしがみ付く私を連れて真琴ちゃんのカウンターを目がけて歩き出し、真琴ちゃんに話しかけた。
気配で真琴ちゃんが私の方を見ているのが分かる。
でも、怖くて真琴ちゃんの顔など見られない。
兄の婚約者に彼氏を取られるなんて……考えただけで気が狂いそう。
日下さんの言った通り、この嘘は本当に面白くなるのだろうか。
今のところ、苦しくて心臓が痛いだけなんですけど。
「……どうぞお掛け下さい。旅行は、国内・海外どちらをご希望ですか?」
さっきの『いらっしゃいませ』より明らかに声のトーンが低い真琴ちゃんが、右手を差し出して私たちに椅子に座る様に促した。
「美紗ちゃん、どうぞ」
日下さんが【私のことが大好きなジェントルマン彼氏】を装い、私の為に椅子を引いた。
当て付けでしかない日下さんの振る舞い。
この前まで大好きだったはずの真琴ちゃんにこんなことが出来てしまうほどに、日下さんにとって真琴ちゃんの電話はしつこく苦痛だったのだろう。
日下さんが私に優しくすればするほどに、真琴ちゃんの怒りは私に向くだろう。
怖くて怖くてどうすれば良いのか分からない。
ただ、この場を乗りきらなければいけないことだけは分かっている。だから、必死で日下さんの彼女を演じる。
「ありがとう。和馬さん」
が、そもそも女優ではない為、半泣きのどうしようもない顔をしながら椅子に座り、日下さんを見上げた。
そんな私に半笑いの日下さんは、
「どういたしまして」
と私の頭をポンポンと撫でた。
この【頭ポンポン】は、【頑張って】を意味していたと思うが、傍から見たら【絶好調のラブラブカップル】に見えるだろう。更に、日下さんはそれを分かっていてわざとやったに違いない。だって、さっきから日下さんの口角が上がっているから。日下さんは、女子並になかなかあざとい。
日下さんと私が肩を並べてカウンターを挟み、真琴ちゃんと向かい合って座る。それを他のスタッフが興味津々にチラ見を繰り返す。他人事なら面白がって眺めたいだろうこの状態は、当事者には相当な心労。だって……、
「国内でいいんですけどね、ちょっと豪華な感じの旅行をプレゼントしたいんですよ。実は最近元カノからの電話が鳴りやまなくて、彼女に嫌な想いをさせちゃってまして……」
早速日下さんがぶっ込むから。日下さんの暗に【迷惑です】の意を込めた言葉は、周りのスタッフに『あぁ、佐藤さんは元彼にしつこく付きまとっているんだな』という印象を付けただろう。
もう、冷や汗が止まらない。中学時代に私に向けた悪意の表情をしているんじゃないかと思うと、未だに真琴ちゃんの顔を直視出来ない。
「……」
接客業なのに何も喋らない真琴ちゃん。
日下さん、さすがにやりすぎなんじゃ……。
気まずくて、何か話題を振ろうと周りを見回す。
近くにラックがあることに気付き、そこにあった数多くのリーフレットの中から適当に1枚引き抜いた。豪華海鮮料理を目玉にした温泉旅館のリーフレットだった。
「お……温泉‼ いいですよね、温泉‼ 至れり尽くせり上げ膳据え膳‼ か……蟹‼ ほじるの楽しいですよねー‼ 無心になるっていうか……」
日下さんの傍に「見てください‼」とそのリーフレットを置くと、
「ココ、イイね‼ 貸し切り露天風呂があるよ‼ 一緒に入ろうね、美紗ちゃん♬」
日下さんは私の意図とは真逆に、ノリノリに悪ノリした。
違うのよ、日下さん。そうじゃないのよ。今のは『いい天気ですねー』と同等の会話繋ぎだったのよ。
『日下さんのアホ‼』という念を黒目に込め、日下さんに視線で訴えると、日下さんが『真琴ちゃんの方を見てみ?』とでも言いたげに顎をクイッと動かした。
ドSなのか、この男。そんなの無理に決まってるでしょうが。
断固拒否とばかりに、日下さんの方を見ることさえやめた。
真琴ちゃんの視線も、お店のスタッフさんたちの視線も、日下さんの視線も嫌で、私の視線のやり場はもう、木目調のカウンターテーブルの木の年輪くらいしかなかった。
俯きながら年輪の数を数え始めた私の顔を、日下さんがいきなり掴んだ。
「見てくださいよ、俺の彼女。可愛いっしょ?」
そしてそのまま私の顔を真琴ちゃんの方に向けた。
心の準備なく、真琴ちゃんと目が合ってしまった。
呼吸が……乱れなかった。
目の前にあった真琴ちゃんの顔は、どう見ても怒気を孕んでいたけれど、物凄く悔しそうだったから。
日下さんの言っていた通りだ。
自分を散々虐め倒していた人間の血涙を絞る様な表情に、何かスッとした。
日下さんの目的も果たせたし、私の無念も少し晴れた。
あとは適当に旅館のパンフレットを貰って『じゃあ、家に帰って検討しまーす』で店を出てしまえば良い。
それまでキッチリペテン師をやりきろう。
「突然変な同意を求めないでくださいよ。店員さん、困ってるじゃないですか。すみません。あの、いくつかお勧めの旅館のパンフレットを頂けませんか? 持ち帰ってゆっくり選びたいので」
真琴ちゃんへの嫌悪感は消えないものの、日下さんのおかげで恐怖感は薄まり、自ら真琴ちゃんに話しかけた。
「……こちらが人気の旅館になります」
真琴ちゃんが、頬の筋肉をピクピクさせながらテーブルの上にパンフレットを数枚並べた。
それを手に取り、
「ありがとうございます」
『じゃあ、帰りましょう』と日下さんに目くばせすると、
「来月予約取れる旅館はこの中にありますか?」
日下さんは私の手からパンフレットを抜き取り、真琴ちゃんと話を続けた。
「金・土曜日ですと、お日にちによって予約がいっぱいの日もございますが、平日であれば概ねどちらの旅館も大丈夫だと思いますが……」
私たちに言いたいことがあるだろうに、仕事中の真琴ちゃんは滅多なことを言えるわけもなく、日下さんに聞かれたことに業務的に答えた。
「だってさ。ねぇ、美紗ちゃんがさっき見せてくれたリーフレットの旅館にしない? 美紗ちゃん、来月有給取ってよ。来月、3週目とかなら取りやすくない? 月末月初って何かと忙しいだろうからさ。週の真ん中、水曜日とか。どう?」
真琴ちゃんに予約状況を確認した日下さんが、具体的にスケジュールを組み私の予定を伺った。
「え?」
何を言いだしているんだ、日下さん。旅行会社に来ておいて何だけど、私たちがココに来た理由は旅行の予約ではないはずだ。本当に予約をしてどうするんだ、日下さん‼
日下さんの思惑が分からず、自分の思考ともかけ離れている現状に、どう返事をするのが正しいのか迷い硬直していると、
「来月3週目の水曜日、予約入れてください」
日下さんは『コイツ、使えねぇな』と思ったのか、私の返答を待たずに話を進めた。
「……かしこまりました」
真琴ちゃんがパソコンのキーボードを叩き、旅館の予約を取る。
その間、日下さんは鞄に手を突っ込み、財布を取り出した。
そして、財布からクレジットカードを引き抜くと、真琴ちゃんに手渡した。
日下さんが、旅館を予約し精算までしてしまった。
困惑の眼差しで日下さんを見つめると、日下さんはニコっと笑い、また私の頭をポンポンと撫でた。
……分からない。この【頭ポンポン】の意味が全く分からない。
が、この頭ポンポンによって真琴ちゃんの表情は一層険しくなり、スタッフさんたちは『佐藤さん、悲惨』と言いた気な空気を醸し出していた。
そんな周りの反応に満足そうに笑う日下さん。鬼畜。
しかし、私にこの状態を楽しむ余裕はなかった。だって、日下さんが何をどうしたいのかがサッパリ分からないから。
結局、訳が分からないまま店を後にすることに。
取りあえず日下さんと腕を組み、最後までしっかりカップルを演じながら店の外へ。
少し歩き、真琴ちゃんのお店が見えなくなった所で、日下さんの腕から手を放した。
「何で旅館の予約しちゃったんですか? 『1回持ち帰って2人で話し合います』って言って帰ってしまえば良かったじゃないですか。誰と行くんですか? あ!! もしかして真琴ちゃんと付き合ってる最中に他にも女がいたとかですか? なんか怖い‼ 日下さん、怖い‼ 裏の顔が怖すぎる‼」
真琴ちゃんへの嘘を吐き終わり、やっと自由に話すことが出来る。思ったことを素直に口にすると、
「だったら、わざわざ美紗ちゃんに嘘吐かせる様なことしないで初めからその子連れて来るっつーの。そんな女いねぇわ、失礼な。俺はそんなに浮ついた男じゃねーわ。謝って。傷付いた。深く傷ついたから丁重に謝って」
日下さんに頭部の分け目をチョップされながら謝罪を要求された。
「多大なるご無礼、大変申し訳ありませんでした。……でも、じゃあなんでですか?」
丁重に謝れと言われた為、堅めの日本語をチョイスして、あまり謝意のないお詫びを申し上げてみる。だってそもそも日下さんの行動に問題がある。金銭を要する嘘は、私的にいただけない。
「美紗ちゃんさぁ、しんどいんじゃないの? 会社」
ちゃんと……ではないが一応謝ったというのに、日下さんは私の『なんで』に答えてくれず、逆に今関係ないだろう質問を返してきた。
「今そんな話してないじゃないですか。私の質問に答えてくださいよ」
なので話を戻す。
「なんでって、美紗ちゃんと行きたいなーって思ったからに決まってるじゃん。美紗ちゃん、辛そうだからさ。至れり尽くせり上げ膳据え膳海鮮三昧で、美紗ちゃんがその時だけでも楽しい気持ちになれればいいなと思ったんだよ。ストレスはお肌に出るよー。温泉に使ってしっとりスベスベになればいいじゃん。だから行こうよ、美紗ちゃん」
日下さんが私に顔を寄せ、私のお肌のコンディションをまじまじと見た。
「顔近‼ じっくり見ないでくださいよ‼ ていうか、行きませんよ。彼氏でもない人と2人で温泉とか……有り得ないでしょ。日下さんも、何を彼女でもない女を軽いノリで温泉に誘ってるんですか‼ 充分浮ついてますよ‼」
両手で顔を隠しながら日下さんに抗議。
「軽いノリの方が来やすいかなーと思っただけ。ノリは軽いけど、美紗ちゃんに手を出したりしないから大丈夫だよ。出したくないって言ったら完全なる嘘だけど、傷ついている人の傷を更に広げたいわけないでしょ? 丁度俺も今、やや憔悴中だし、2人で気晴らし出来たらいいなってさ」
日下さんが「行こうよ行こうよ」と私の腕を揺すった。
「別に日下さんが私に手を出してきそうだなんて思ってませんよ。自分に男性をそそる様な要素はないって分かってますから、そんな自意識過剰なことは考えていません。ただ、どう考えても世間一般的に、付き合っていない男女が温泉に行くのはおかしいですって。と、言うことで行きません」
自分の腕から日下さんの手を下ろす。
「お堅いね。美紗ちゃん」
日下さんが唇を尖らせた。
「日下さんに下心がないことは分かってるんですけど、私、頭でっかちなんですよ。日下さん、折角気を遣ってくれたのにすみません」
自分でも、もう少し柔軟に物事を考えられたら……と、いつも思う。開き直れたら……と、思う。
私にはあるんだ。日下さんにはない【下心】が。自分から勇太くんを避けておいて、勇太くんに【尻軽女】と思われたくないという下心が。尻軽と思われようが、そうでなかろうが、事態は変わらないのに。だったら日下さんと温泉に行ってしまえばいいのに。分かっているのに、意地汚い思考が私の足を止める。
「じゃあ、とりあえず保留しとくよ。気が変わったら連絡して」
日下さんが、画面にLINEアドレスのQRコードを映したスマホを私に向けた。
『連絡先を交換しよう』ということなのだろう。
温泉はまだしも連絡先の交換を断る理由はない。それを拒んでしまっては【自分は狙われていると激しい勘違いを起こしている痛々しい女】でしかない。
「変わらないと思いますよ」
鞄から自分のスマホを取り出し、日下さんの連絡先を読み取った。
勇太くんと付き合って以来、会社の人間以外の男性と連絡先を交換したのは初めてだった。
フリーの状態での異性との連絡先の交換に、こんなに切なくなったことは今までなかった。
いつもはもっと、変な期待とドキドキ感があったのに。
お互いのLINEにIDが登録されたことを確認すると、
「美紗ちゃん、お腹空かない? 何か食べに行こうよ」
日下さんに食事に誘われた。
「すみません。今日は体力的にちょっと……」
1日中嘘を吐き続け、神経が磨り減りすぎて、一刻も早く帰宅してお風呂に入って寝てしまいたいと思った。
疲労困憊をいいことに、嫌なことや不安なことを考えないで眠ってしまいたい。
起きていると、色々考えてしまうから。
どうにもならないのに、怒りや悔しさや悲しさで、泣いてしまうと思うから。
「そっか。残念。食事のお誘いまで断られるとさすがに辛ーい。でも、美紗ちゃんが楽しくなさそうに食べてる姿を見るのも切ないから、今日は帰ろっか。送る?」
悉くそっけない態度の私に、それでも優しく接してくれる日下さん。
真琴ちゃんが日下さんを好きになった理由が分かった気がした。
「大丈夫です。1人で帰れます。あ、日下さんに送ってもらうのが嫌とかじゃないですよ‼ 本当に1人で帰れるので。普通に大人なので。あの、今日、ありがとうございました」
余りにも避けすぎている自分の態度が、日下さんを嫌っているように見えている様に思えて、変な誤解をされたくなくて先周りをして弁解をする。
「送らせてもくれないー。本当に嫌じゃないの? 俺のこと。てか、何の『ありがとう』だよー」
日下さんが困った様に笑った。
「本当に嫌じゃないですから‼ 自分で出来ることを人に甘えるのが嫌なんです。中学の時に苛めに遭ってから、他人から嫌われるのが怖くて……。誰かの負担になって嫌われる様なことは避けたいんですよ。『ありがとう』は、真琴ちゃんの悔しそうな顔を見させてくれて『ありがとう』です。私、超性格悪いですよね。でも、スッとしたんです。あの頃の仕返ししてやった‼ って気になったんです」
日下さんに『ニイ』と笑い返す私の顔は、どれだけ意地悪な表情をしているだろう。
「俺、美紗ちゃんの性格好きだよ。それに【真琴への仕返し】が目的で、美紗ちゃんをあそこに連れて行ったんだから、達成出来て何よりだよ。俺、美紗ちゃんの考え方も好きだけど、ちょっと損してるから教えておくね。男が【甘え】を誘導している時は素直に甘えるのが正解だよ。だって、甘えて欲しくて誘導してるんだから。誘導していないのにも関わらず甘えるのは完全に不正解だけど。つーか、嫌われるのが怖いとか言っておいて、今職場で嫌われ役買って出てるんでしょ?」
日下さんが意地悪な笑顔を返してきた。
「佐藤さんを守る為です。佐藤さんが嫌な想いをする方が辛いから。だったら、自分が悲劇のヒロインにでもなったつもりで酔っている方が楽なんです」
言いながら情けなくなって、さもしい自分が嫌になる。
「美紗ちゃんってさ、計算し尽して嘘吐くくせに、大事なところで計算しないよね。今の、『佐藤さんが嫌な想いをする方が辛いから』までで良かったのに。それ以後の言葉、いらないから。普通の計算出来る女子は言わないから。どうして余計な本心言って、自分のことを下げちゃうかな」
日下さんがしょっぱい顔で笑いながら、「バカだなぁ」と私の頭を撫でた。
『バカだなぁ』と言われているというのに、本当にバカな私は『イイ子イイ子』されている様な気分になって、何だか泣きたくなってきた。
ここで泣いたら、優しい日下さんはきっと慰めてくれるだろう。
日下さんに縋ってしまいたい気持ちもある。だけど、私は【嘘】は【嘘】のままにしたいんだ。嘘を本当にしたくない。
今日のことが何かの拍子に勇太くんの耳に入ったとしても、私は勇太くんに【他の男に泣きついたりしない女】だと思われたいんだ。
結婚出来なくとも、【私は勇太くんが大好きだったんだ】という気持ちを、どうにかして勇太くんの心の中に留まらせたいんだ。
日下さんは私のことを『大事なところで計算しない』と言ったけれど、ちゃんとしている。私は性悪だから、この本心は口に出さない。
「日下さん、お腹空いてるんですよね? そろそろ解散しましょう」
込み上げる涙を鼻水と一緒に啜り上げ、日下さんを見上げる。
「強がっちゃって。今日の強がりアピールはなかなか良いよ。涙目な感じ、グっとくるわー。でも、美紗ちゃんって単純じゃないからなー。今の美紗ちゃんに『俺の前で強がるなよ』って多分的外れでしょ? 勘違い男になりたくないから、今日は帰るわ。美紗ちゃんも気を付けて帰るんだよ。辺り暗いから」
日下さんが、私の頭を撫でていた手をヒラヒラと横に振った。
「日下さんも。気を付けて帰ってくださいね」
日下さんに手を振り返し、日下さんと別れた。
1人になり、安堵からなのか溜息なのか、ふいに「はぁ」と小さな息が漏れた。
兎に角疲れた。
張りつめていた気持ちが緩まったからなのか、涙が零れだす。
あれこれ考えて泣かない様に早く帰って寝たいのに、アパートに辿り着くまでに泣いてしまった。
「……辛いよ、勇太くん」
この悲しさから、苦しさから、いつになったら解放されるのだろう。
どのくらいの時間が経てば、勇太くんと過ごした日々を昔話に変えられるのだろう。
家路を号泣しながら歩けるほど、私は大人気のない大人ではない為、とめどなく出てきてしまう涙をどうにかしようと、鞄からウォークマンを取り出し、イヤホンを両耳に突っ込んだ。
無理矢理気分を切り替えようと、疾走感溢れるロックを大音量で耳に、脳に送り込む。
音楽でも騙しきれないやりきれなさを、それでも騙されたふりを決め込み、なんとかアパートに着き、部屋のドアを開けた瞬間に泣き崩れた。
自分の気持ちを自分で騙すなんて器用なことは、不器用な私には相当に難しかった。
玄関でひとしきり泣き、少し落ち着きを取り戻すと、お風呂に行って熱めのシャワーを浴びる。お風呂から上がり、ドラーヤーで髪を乾かすと、そのままベッドへ倒れ込んだ。
泣き疲れていた為、目を閉じるとすぐに深い眠りへ。
コメント
1件
うわ、第8話、めちゃくちゃドキドキしながら読みました!日下さん、あの展開でまさか本当に温泉予約しちゃうとは思わなくて笑ったけど、同時に「美紗ちゃんが辛そうだから」って本音を言うところでグッときましたね。嘘を重ねる中で、日下さんの優しさと狡猾さが両方見えて、キャラクターの奥行きがすごく良い。美紗ちゃんの「嘘は嘘のままにしたい」って心情も、勇太くんへの未練を感じさせる切ない場面で、すごく響きました。次が気になります!