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「市参議会のひとたちと顔合わせがしたい?」
アベルは驚いてパンを落としそうになった。
不在城の食堂で令嬢と食事をとっていたところだ。令嬢は前回のように膝には乗らずに、隣に座っている。
二人の椅子が前より少し近くなっているのは、心の距離の表れだろう。
「は、はい。たぶん、街の人達はわたしがどんな人間か、気になっていると思うのです」
「それは、そうだろうが……」
アベルは困惑する。
今日は市参議会の面々やギルドマスターと会議があるから外出すると伝えたら、ついてくると言いだしたのだ。最初は寂しさからだろうと考えていたが、どうも様子が違う。
王子の婚約者が、王子が統べる都市の中枢を担う面々と面識を持ちたいというのは、至極まっとうなことだ。
だが、婚約者とはいえ、少し前まで戦争をしていた敵国の令嬢だ。どのような目で見られるかわからない。まだ幼い令嬢を敵意に晒したくないというのが本音だった。
今日の会議は第一城壁の外、議事堂で行われる。
できることなら、城から一歩も出したくない。
危険な目に遭わせたくないということもあるが、それ以上に。
令嬢を独占していたい、誰の目にも触れさせたくないという欲があった。
(浅ましいな、僕は……)
結婚し、夫婦になっても、彼女の人生は彼女のものだ。
散々奪われ続けて来たこの子から、これ以上奪おうというのか。
ぐぬぬと葛藤するアベルを見て、令嬢は迷っていた。
これまでのループで失敗した原因はわかりきっている、何もしなかったからだ。
優しいアベルと使用人達に囲まれ、蝶よ花よと愛され、すべてをアベルに任せていた。
それは何かできるほどの余裕が令嬢になかったからだが。自らの弱さに甘えた結果、この辺境城塞都市トロンは陥落している。
もう自分だけ守られるのは嫌だという気持ちと、外に出るのは怖いという気持ちが混在している。
……このままずっと甘えていられたらどれだけ楽だろう。
怯えたふりをし続けて、優しくしてもらうのだ。
父が攻め込んでくる日まで、ひたすら甘い時間を過ごし。終わりが見えたら早々に自死を選ぶ。そんな利己的な自分を想像する。
限られた時間のすべてを自分のために使うのだ。アベルや使用人たち、街の人達がどうなろうと知ったことじゃない。そもそも、こんな運命に放り出されたこと自体が不平等だと。言い訳をして。だから、これくらいやったっていいんだとか言って。
……嫌だ。
そんなわたしでいたくない。
たとえ世界中の誰もが自分を愛してくれたとしても、わたしがわたしを愛せない。
わたしは、わたしが愛せるわたしでいたい。
その時、令嬢の心の中にちいさな灯(ともしび)がともった。
矜持を燃料に輝くその愛は、名を自己愛という。
愛されること、愛を受け取ること。
そして、自らを愛すること。
それはまだまだちいさいけれど、あるとないでは大違いだった。
迷いは失せ、令嬢のどこか怯えたような表情が変わっていく。
「アベルはわたしを籠の鳥にするつもり?」
その平坦で意地悪な声に、アベルは動揺する。
幼く脆い、薄氷のような女の子だと思っていたが、その姿はまるで千年を生きる妖精のようだった。
「わたしはいずれあなたの妻になるのよ、背中をまかせてもらえるくらいにはなりたいわ」
そう言って、令嬢はふんすとパンを口にする。
「き、今日は絶対についていきますからね!」
つい先日、絶望していた令嬢がたった数日で逞しくなっている。
それでもちょっと声がうわずっているところを見ると、無理をしているらしかった。
アベルの反応を見るように、おそるおそる視線が動く。
怒ったりなんかしないのに。
触れたら壊れそうな薄氷のようで。
いたずらな笑みを浮かべる妖精のようで。
おどおどと怖がりながらも前に進もうとする子供のようで。
それでいて、逞しい妻! になろうとしているようで。
そのすべてがいじらしくて、アベルは少し笑ってしまった。
危ないから来るなとか言える雰囲気ではなかった。
「わかった。連れて行くよ」
「やったわ!」
令嬢がぴょんと椅子から飛び跳ねて、パタパタと走って行く。
ジーナのところで少し背伸びをするように事情を説明していた。
アベルは馬車の手配を早めるよう使用人に耳打ちする、せっかく外に出るのだ、彼女にこの街を、人々の営みを知ってほしい。
きっと彼女の糧になる。そう思って。