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男は心地よい夢を見ていた。聞いてもいたし、嗅いでもいた。隅々まで明るくて、心の奥から温かくて、懐かしい匂いのする故郷の夢だ。豊かとはいえない生活を営む、幼い頃は退屈で仕方がなかった村だったが、今は全てが恋しい。
春には樫の木立の緑が芽吹き、夏には麦が豊かに実り、秋には葡萄畑が芳醇な香りを漂わせ、冬には暖炉に大人たちが集まり、生業と子供と来る年の話をしていた。故郷にいた頃の男にとってはそれら全てが当たり前で単調で単純で代わり映えのしない一日、一年、一生を予感させる退屈の象徴だった。
だが、今や男は栄誉が遠くへ立ち去り、屈辱が逗留する戦場にある。長く激しい戦いは終わったのだ。とはいえ男は戦いの早々に敵の槍の一突きを受けて、戦の大半を地に伏せて過ごした。しかし、大地が激しく踏み鳴らされ、言葉の通じない怒号と野太い悲鳴が飛び交い、金属が激しく打ち合い、血の噴き出す嫌な水音は未だに耳の奥に聞こえる。
痛みが募って失っていた気を取り戻し、己が生きていることを知る。誰かが頬を叩いているので、つい顔をそらす。
「おお、生きていますね。若き命をお召しにならなかった慈悲深き神に感謝を。大丈夫ですか? 起き上がれますか?」
兵士の男が目を開けると辺りは寂しい夕暮れの血に染まったような光に照らされ、暮れなずむ空には冴え冴えとした一番星が輝いている。血の臭いが鼻孔を擦り、改めて戦場にいることを実感する。
男を目覚めさせた人物は怪しげな黄ばんだ衣に獅子らしき仮面をかぶっていた。こいつはたしか、と男は思い返す。
それは従軍魔術師の一人だったはずだ。司祭たちが神に祈っている傍ら、お守りを配っていた。様々な種類の中から一つを選んで兵士の男が受け取ったのは、幸運の牡鹿の加護を授かるとかいう触れ込みの槍に刺殺されぬお守りだった。
途端に郷愁など吹き飛んで怒りが沸く。
「やぶ魔術師め。何が霊験あらたかなお守りだ。よりによって槍で突かれたぞ。幸運の牡鹿はどうした」
獅子仮面の魔法使いは馬鹿にした風に笑う。「ですが突き殺されてはいませんよ。槍に刺されながら生き延びるだなんて幸運なことです。どうやら私めのお守りはよく効いたようで」
確かにその通りだ。男は胸を一突きにされたように思っていたが、実際には肩だったようで、傷は既に塞がっている。男は悔しそうに舌打ちをする。
「幸運はともかく、もしかしてあんたが治してくれたのか?」
「応急処置です。流した血が戻ってきたわけでもなし、ご油断召されるな。生きて帰れたならきちんとしたお医者様にお見せください」
兵士の男は非礼を詫びて治療に感謝しつつ、肝心なことを知らずにいると気づいた。
「戦はどうなった?」と尋ねるも答えは明らかだ。
自分の周りに斃れる戦士たちは全て味方だった。戦いが始まる前から、鍛錬においても士気においても劣っていることを察した空気が流れていた。誰も口にはしなかったが、思い返すと戦う前から決着がついていたようにも思えた。
「多くが犠牲になりましたが、解放者大王国の軍団は引き返していきました」
「引き返した? なぜ?」
まさかこちらの犠牲以上に相手に損害を与えられたはずもない。これはライゼン大王国の侵略に抗う戦争だった。当然負けたなら全てを奪われる。マシチナの島々やガレイン西岸の街々が奪われ、植民市になったように。むしろそちらが本番だとさえいえる。利益もなしに誰が命をかけて戦うだろうか。
「理由は分かりません。兵士同士で何やら言い争っていましたが。屍使いがどうのこうのと」
兵士の男にも聞き覚えのある言葉だ。屍を操る邪悪な種族が世の中にはいるのだ、と子供心に震え上がったことを思い出す。
ふと乱雑な物音を聞いてそちらを振り向くと、味方の兵士の一人がふらふらと歩いていることに気づく。味方の遺体も気にせずに蹴躓きつつ踏み越えていく。
「おい! あんた! 大丈夫か!?」
しかし兵士は振り返ることなく沈む太陽に背を向けて歩き去る。よくよく見ると他にも何人もの生き残りが覚束ない足取りで戦場を後にしようとしていた。そちらは戦線とは反対方向、つまり故郷のある方角だ。皆が帰ろうとしている。思いのほか生き残りがいて、皆人生を再開している。
兵士の一人の男も痛みを堪えて立ち上がる。何にせよ戦は終わったのだ。今は早く帰りたくて仕方がない。
「待ってくれ! 俺も帰るぞ!」
鈍い轟音と響き渡り、震動が石壁を伝い、砦の長に任じられた男は飛び上がる。砦においては高い身分ながら、粗末な寝台の、薄い毛布の、冷たい寝床に潜り込んだばかりだった。
貴いとまでは言えないが高い身分である砦の長は、故郷では十分に温かな食事と寝床の心配がない生活を送っていた。砦の一つを任される者とて王国では一握りの存在だ。しかしライゼン大王国の侵攻が迫り、砦の長は故郷への思いを募らせていた。一日の終わりにその夜見る夢が郷愁を慰めてくれることを期待するほどだ。
夢を通じての帰郷を阻まれ、砦の長は直ぐに飛び起きて、衛兵を探す。
「何事だ! 何の音だ! まさか!」
そう叫んでいる間にも断続的に何かがぶつかる衝撃らしき音が響いている。
嫌な予感がおぞましい這い蟲のように全身を巡る。戦線が押し寄せてきたのではなかろうか。
だとすれば、もはや抵抗は無意味だろう。誉れ高き最精鋭が全て破れ、各地の砦に残った普段は畑を耕している兵士たちだけで王国を守り切るなど不可能だ。それでも最後の一兵卒まで戦い抜く覚悟だが、西方の邪な野心に突き動かされてきた野蛮な戦士たちは王国を無慈悲に蹂躙するだろう。
混乱しているのは砦の長だけではなかった。事態を把握している者がいない。つまり音の原因はやはり外にある。
夜間とて城壁屋上を巡り、松明と共に目を光らせているはずの歩哨たちに話を聞くべく、砦の長と何人かは急いで向かう。
城壁を上る前に音の正体を知る。門扉が何度も外から打ち据えられている。破城槌でなければ何だろう。門扉の前でまごついている兵士たちに叱咤する。命令などされなくともやるべき事は明らかなはずだ。火矢を放つなり、石を落とすなり、熱湯をぶちまけるなりしろと追い立てる。
城壁に上るとやはり呆然とした様子で胸壁から見下ろす兵士たちがいた。
「一体何をしていた!? 全員で居眠りでもしていたか!?」
「常に見張りは立っていました!」と歩哨の一人が怯えた様子を隠さず答える。「ただ、暗闇の中、松明の一つもなく、音もたてず鯨波も聞こえず、誰何の問いかけにも答えず、かといって攻め寄せているようには見えないのんびりとした歩みでしたので……」
「だから何だというのだ、ぼんくらめ!? 栄光ある我らが王の軍勢が逃げ帰ってきたとでもいうのか? そうでなくとも、むしろただの敵軍より怪しいではないか!」
砦の長も胸壁の間から覗き込むが、確かに松明の一つも掲げておらず真っ暗で何も見えない。しかし破城槌が無いのは明らかだ。無数の人間が蠢き、各々が門扉に、あるいはただ前方に体当たりしている。それでも十分すぎるほどの人数が押し寄せている。不気味な光景だ。息遣いらしき音は聞こえるが、誰も何も喋らず叫ばずただ淡々と門扉にぶつかっている。
「一体、これは何事だ? 奴らは何をしている? まさか体当たりで門扉を破ろうというのか? 野蛮とは聞いていたが、これほど知恵がないはずは……」
その答えを知っている者はいない。その時、門扉への衝撃音の合間に誰かが遠くから呼びかけていることに気づく。
「おうい! 誰か!? 梯子か、縄でもいい! 下ろしてくれ! 俺一人だ! 知ってることを話す!」
声の方に視線を向けるがやはりよく見えない。無言で押し寄せる狂気の集団の中に一人正気の人物がいるのだ、と素直に考えるのも難しい。何かの術中にはめられているような、砦の長はそんな気さえしたが、とにかく正体を知りたいという欲求が打ち勝つ。
「縄梯子があったな? 下ろしてやれ」と砦の長が命令する。「もし二人以上登ってくるようなら切断すればよい。一人だとしても油断するなよ」
すぐさま用意された縄梯子を上ってきたのは味方の兵士の男だった。砦の長はその兵士の肩の抉れた傷を見て、暴れる心配はないだろうと安心する。男は息も絶え絶えに惨状を訴える。
「一体何があった? お前は奴らから逃げ出してきたのか?」
「下にいるのは味方です。味方ですが」男は言いにくそうに一度言葉を呑み込み、しかし決心した様子で吐き出す。「奴ら、死体なんです。死体が自分で歩いてここまでやってきました。知性は無くなっちまったみたいで、俺が話しかけても何も答えませんでしたが、ただまっすぐにこの砦に」
やはり不気味であることには違いないが正体が分かれば恐怖心は少しばかり和らぐ。
「敵の魔術に違いない」と砦の長は忌々し気に呟く。「卑しく邪な奴らめ。死体に突撃させようとは」
「そういえば屍使いがどうとか……」と死体の群れから逃げてきた男が呟く。
「誰がそんなことを言っていた?」
屍使いの王国はとうに滅んでいる。が、生き残りが大王国に逃げ延びたという話を砦の長は聞いたことがあった。
「従軍魔術師です。名前は聞き忘れましたが、獅子の仮面の――」
「獅子師か。特に王への忠義が篤い魔術師だ。彼はどこに?」
「いえ、戦場で別れたきりです。今もまだ生き残りを助けているのかもしれません」
「もちろんそうだろう。ノイル師もまた王の軍勢。最後の一人となっても軍団のために尽くすはずだ。良く知らせてくれた。が、休む暇はないだろうな」砦の長は兵士たちに命じる。
先ほど命令した攻撃を中止させ、門扉の補強を急がせる。この砦には一人の魔法使いもいないので王宮へと遣いを出す。これから戦場のように忙しくなる。今夜どころか数夜は夢での帰郷が叶わないだろう。
全ての命令を下したその時、破滅的な音が砦に響く。
温かな風の吹く昼下がり、寂しい街道の端で行商人の男が簡単な昼食をとっていた。食べ残した朝食の残りの麺麭だ。物足りないが、贅沢のできる身分ではない。稼ぎはあるが、使い道は決まっている。店を構えるための伝手を得て、そのための最後の一稼ぎを終え、今はすぐそこに迫る故郷への気持ちが逸るばかりだ。
妻と子供、父母と兄夫婦、ほとんど家族に近い村の人々。戦場からは遠く離れ、貧しいが素朴で平和な愛すべき故郷だ。煤けた煉瓦造りの家々、真っすぐな子供たちの駆けていく歪な小径、いつもどこかしらで鳴いている鶏、敵を知らない小魚の躍る溜め池、夕焼けに並ぶ炊事の煙の揺らめき。
行商人の男が硬い麺麭を咀嚼しながら郷愁に浸っていると道を外れた野原を三人の男が歩いていることに気づく。時々小石に蹴躓き、灌木に足を取られ、おぼつかない足取りで、それでも真っすぐに歩み続けている。方向はまさに行商人の男の故郷の村がある方向だ。
気味の悪い様子に胸がざわめき、行商人の男は休息をやめて旅支度を整える。三人の男の後を追う格好になりながら故郷への道を急ぐ。このまま追うべきか、追い抜くべきか判断に迷う。相手が野盗か何かだとすれば三人相手ではとても敵わない。しかしだとすれば村へ急ぎたどり着いて皆に伝えねばならない。
追い抜く姿を男たちに見られずに行くにはどうしたものか、と考えていると道の先に何かが落ちていることに気づく。丁度不気味な男たちが通った場所だ。
それは肉のように見えた。それも腐臭を放っている。ますます危険な予感を起こさせる。さすがに覚悟を決めなければならない。場合によっては妻や子供、家族の皆が危険に晒されるかもしれない。
そろそろ行かねば男たちを見失うことに気づいたその時、背後から濡れたような足音が聞こえ、行商人の男は振り返る。
直ぐ目前まで十人を超える男たちが迫っていた。それも体を腐らせて、体の一部を失っている者もいる。
行商人は声なき悲鳴をあげて走る。荷物を全て放り投げて、村へと、愛する故郷へと急ぐ。途中で追い抜いた三人の男もやはり死体のような見た目で腐臭を放っていた。
いくつかの丘を越え、故郷の村が見え、男は一安心する。村はきちんとあって、歪な小径が伸び、鶏が無闇に騒いでいる。行商人の男が歩を緩めかけたその時、心臓が締め付けられた。まさに道の先に、村へ今にも入ろうとする腐った男がいることに気づいたのだ。
行商人の男は溢れ出てくる嫌な想像を振り払い、慌てて全速力で走る。そして再び腐った男を追い抜き、息も絶え絶えに故郷へと帰還する。
村は平穏無事だった。何やら慌ただしくはあるが、みんな生きている。体が腐ってなどいない。
「おうい! 次が来たぞ! どこの息子だ!? うん? 随分綺麗だな」そう大声で出迎えたのは行商人の男もよく知る村の漁師の男だった。「ん? ああ、柳の道のところの倅じゃねえか。死んじまったのか。ん? こいつは確か行商の――」
「俺は死んでないぞ」
漁師の男は行商人の男も聞いたことのない悲鳴をあげた。
「さて、何を企てていたのか、全て話してもらおうか」
黒い長い髭を蓄えた次代の王、元第三王子は玉座から宮廷魔術師ノイルを見下ろす。今度の騒ぎの全ての原因が自分にあると白状したノイルに詳しく説明させようという場だ。
二人の兵士に挟まれて、ノイルは恐れ多さに縮こまり、震えていた。
「企てるなど、とんでもないことでございます。私めはただ、王の命ずるまま侵略者に立ち向かう兵士たちの心の支えとなるべくお守りを拵えたまででございます」
「それは知っている。数種の護符を用意していたそうだな。父も兄も死んだがな」王は呆れ果てた様子で冷たい眼差しをノイルに注ぎ、溜息をつく。「そう怯えるな。大王国が去った理由も我が壮健なる兵士たちが死んでなお立ち上がったことに対する困惑に端を発している可能性が高い。それが事実ならば貴様の功績だとも言えるのだ。それで、ただの護符でどうして歩く死体を生み出すことになるというのだ。兵士がそれを望んだとでも?」
「ええ、もちろん、兵士の望みを叶えるようにと王に命じられていたので。特に私の得意とする魔術が故に今回の結果に陥ってしまったのでございます」
「得意とする魔術? そういえば報告にあったな。屍使いの末裔である可能性があると。真か?」
「いえ、滅相もございません。私めの得意とする魔術は導きでございます。決して迷うことなく行きたい場所にたどり着ける。そのような魔術において、私めの右に出る者はございません」
「だが、生ける屍どもは各々違う場所へと散っていったぞ。導くどころか迷子になっているではないか。そもそもどこへ誘い込もうとしたのだ?」
その時、沙汰を見守る臣下たちの間にざわめきが起こる。導きの魔術師ノイルを見下ろしていた王が顔を上げると謁見の間に三人の男がやってきた。それは前王である父と二人の兄だった。
「ああ、お労しや、父上、兄上」王は臣下に命じて身罷った王族たちを丁重に拘束させる。「戦場から消えたと聞いた時は奴らに連れ去られ、辱めにあったのではないかと案じていたが、見事戦死なさったか。いや、辱めにあったのは事実か」
王は再びノイルを見下ろす。
「違います。決して、そのような、辱めるなど。私めは、私めのお守りはただ彼らの望む故郷へと導いたのでございます。彼らはただ帰郷を願っていたのです!」
王はより一層冷たい眼差しでノイルを見つめる。「我が父上と兄上が戦からの逃避を願っていたと?」
「いえ、そのようなことは。ただ――」
「いいや、父上が望んでいたのは栄光ある勝利のみだ。真実を語るつもりがないならば話はここまでだ」と王は断じた。