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暦の上では真夏であるにも関わらず、相変わらず秋のように涼やかで、草木が青々と色づくこともなく、花々は影も形も見せず、鳥は押し黙り、虫は巣に閉じこもっている。
一方呪われたクヴラフワと違って、ユカリたちには多くの変化が訪れた。シシュミス教団に与えられた最早故郷のように居心地よく感じている屋敷はさらに手狭になった。ユカリとエイカが同屋になりかけたが、娘は断固拒否した。厳正なる議論の末、ユカリとベルニージュ、ジニとエイカが同室となった。
ユカリことラミスカ、エイカ、ジニの母子三代が揃うのはラミスカが生まれた時以来のことだ。地層が形成されるほどに積もり積もった話があるはずだが、しかし三人とも上手く話せなかった。ユカリにも話したいことが沢山あったが、それぞれ別の感情に包まれているために一度に吐き出すことができなかった。特に、二人の母が生きていたことの喜びと二人の母に騙されていたことへの怒りは英雄と怪物のように相性が悪かった。
少なくとも蛇カーサだけは久々に再会できた相棒であり、我が子のように見守ってきたエイカに巻き付いて親愛の情を示していた。
また深奥に触れた影響か、カーサの姿がユカリの目にも映るようになり、思いのほかただの蛇でがっかりした。青黒い鱗が艶めいている大蛇だ。見えると言っても存在感の薄い幽霊のようだ。少し体が透けていて、揺らめいていて、足がない。しかしエイカは相変わらず半透明蛇カーサの姿が見えない。ふたりとも特に気にしている様子はない。その差を説明する理由はまだ誰にも分からなかった。
久々に屋敷に戻ってきて最初の夜――と定められた時間帯――のこと。行糧ではない味と香りと温もりの豊富な夕食を終え、皆が思い思いに寛いでいた。ユカリとベルニージュは二人の部屋でそれぞれの寝台に寝転がって他愛もない会話をしていた。
「あの蜘蛛がシシュミス神!?」ユカリは空想でも見たことのない宇宙的に巨大な蜘蛛を思い浮かべながら苦々しげに驚く。
「うん。クヴラフワの主神シシュミスは蜘蛛の姿だからね。ユカリだってシシュミス神は知ってたでしょ? 他に考えられる?」
「……蜘蛛の王とか?」とユカリは昨月に見た夢を語るように自信なさげに呟く。
「ユカリには何かと縁のある王たちね。たしか狼に始まって、つい最近虎にあって、で蜘蛛、と。その説は腑に落ちる?」
「全然」
いくらなんでも規模が違いすぎる。あまりに巨きい。今までユカリが出会った王たちの中で最大は海の底で邂逅した貝の王だった。それでも精々が立派な城と同程度だ。しかし、あの蜘蛛は、まるで大銀河だ。大きくて、それに遠い。雲の上の空の上に霞むほどの距離から大地を見下ろしていた。あまりにも不思議な存在で、神秘の領域にあり、時や運命、死といったような人間がおいそれとは手出しできない存在だ。
「じゃあやっぱりシシュミスだよ」ベルニージュは何でもないことのように断言する。「救いの糸持てるもの。死の捕縛者にして追放者。使命と予兆を司る者。天命の法の制定者」
「でも、だって、神様だよ!? そんな急に見えるなんて思わないじゃない?」
「前に月と、ハニアン神と関わり合いになったのは?」
アルダニ地方の、夜を奉ずる独立都市国家エベット・シルマニータや赫々たる絹の産地ナボーン市での騒動のことだ。月の眷属たる《熱病》に追われて久しい。
「月は昔からずっと見えてるし」と呟くユカリは歯切れが悪い。「……そういえばあの時、月とハニアン神は同じじゃないって言ってなかったっけ?」
「同一視するかどうか、だね。月はハニアン神の化身の一つ、って考えもあるんだよ。そういう意味ではあの蜘蛛もシシュミス神本人かどうかは分からないけど。あくまで化身かも」
「何にせよ神と敵対したなんて思いたくないよ」
その時、扉が二度叩かれ、ユカリとベルニージュは居住まいを正して訪問者を招き入れる。エイカだった。カーサとその影も巻き付いている。
「義母さんも言っていたって聞いたんだけど」とエイカはやにわに切り出す。「話せないこと自体に事情があるから全てを明らかにすることはできない。それでも十五年ぶりに再会した娘と親子として話したいことは沢山あるから少しお話しない?」
ユカリが迷っているとベルニージュとカーサの視線に催促されるようにくすぐられる。
「喧嘩になると思います」とようやくユカリは端的に口に出す。
エイカはしっかりと受け止めるように頷く。「それでもいいから。怒るのは、当然だと思うし」
「私は別に怒りたいわけじゃありません」
「うん。分かってる」
ユカリはこれ見よがしに溜息をつく。少し子供っぽいだろうか、と内心自嘲する。
「分かりました」そう応じてユカリが立ち上がろうとするとベルニージュに制止される。
「ここで話しなよ。丁度喉が渇いたところだったから」とベルニージュが気遣って立ち上がる。
「ごめんね。ありがとう、ベル」
「お構いなく」とユカリに微笑んでみせ、「ごゆっくり」とエイカに微笑んでみせ、ベルニージュはカーサを腕に巻き付けて部屋を出て行った。
「座ってください」とユカリは自身の寝台を勧める。
しかし自身は向かいのベルニージュの寝台に移って、母と向かい合う。これは一種の戦いだ。
「まずは、そうだなあ」エイカは少し考えてから楽しそうに声を弾ませる。「一歳から十五歳の誕生日おめでとう!」
雑な祝福に、思わずユカリは吹き出してしまった。こんなつもりじゃなかったのに。
「ちょっとひど過ぎると思います」ユカリは咳払いして体勢を立て直す。「正直に言えば、私はずっと夢に見ていたんです。もしも母が生きていたなら、どんな風に遊んでくれるだろう、話してくれるだろう、笑いかけてくれるだろうって。まあ、ある程度は義母さんから武勇伝を聞いていましたから、一筋縄ではいかないだろうって思ってましたけど」
「きっと義母さんのことだから大袈裟に言ってるに違いないよ」
「そうなんですか?」ユカリは疑わしげに尋ねる。「弟を森に置き去りにしたことは?」
「わざとじゃないよ」
「猪を村に追い込んだのは?」
「そんなことしたっけ?」
「義母さんに蛇をけしかけたのは?」
「ほら! けしかけるだなんて、それこそ大袈裟な話だよ。私は悪戯のお手伝いをカーサに頼んだだけなのに」
大袈裟だろうか。だが確かに強力な魔法使いである義母ジニ相手であることを踏まえれば大したことではないかもしれない。結果として、カーサはエイカのお守りとなり、力となった。
「そもそもカーサのこと見えないんでしたね」
「そうそう」エイカは感慨深げに頷く。「義母さんの古い友達らしいけど、私の最初の友達でもある。私がオンギ村で変人みたいに扱われたのは半分くらいカーサが透明なせいだしね。助けられたことも沢山あるけど」
「たとえば魔法が得意なふりをして焚書官になったこととか?」
エイカは分かりやすくぎくりとした表情になる。
「知ってたんだね」
「最近気づいて、繋がりました。そもそもエイカが私よりはるかに魔法を苦手としていることは昔から義母さんに聞かされていたんですけど。焚書官のルキーナがエイカだと知って、初めは成長して得意になったのかと思ってました」
「魔法は得意じゃない。その通り。でもクオルを追わないわけにもいかなかった」
「それです」ユカリは何を聞かされても耐えようと覚悟を決める。「まるで被害者ぶってますけど。クオルが言ってました。『ラミスカと名付けることを教えてくれるくらいだから信頼されていると思ってた』って。無理矢理実験に供されたのなら、そうはなりませんよね? 途中で心変わりしたんでしょうけど、少なくとも、実験に参加したのは自分の意思じゃないんですか?」
クオルの言うことを信じるの? と返されることをユカリは期待していた。しかしエイカは後ろ暗い秘密がばれた者の表情になっただけだった。ユカリは獲物を追い詰めるように話を続ける。
「子供に魔法の才能を持たせる実験でしたっけ? どうしてそんなことをしようと思ったんですか?」
それが『禁忌の転生』実験の表向きの目的だ。
エイカは口を開かない。とうとう目も伏せてしまった。
「当ててみせましょうか?」ユカリは生唾を呑み込み、懐に仕舞っていた鋭利な刃物を取り出すように、思いついてからずっと秘めていた考えを述べる。「魔法が苦手な自身の劣等感を子供の人生で埋め合わせようとしたんじゃないですか?」
「違う! 私のことは関係ない!」身を乗り出すエイカの悲痛な訴えが響く。「ただ私と同じ苦労をさせたくなくて――」
「何が違うんですか!? 生まれる前から私の人生を支配しようとしていたんでしょ!?」感情が声を昂らせ、昂った声が感情を溢れさせる。ユカリの溢れた感情は涙となってぼろぼろと零れ落ちる。「同じ苦労!? 大きなお世話だよ! 私はあなたよりずっと大きな苦労をしてる! その大半が不自由で退屈で、自由は苦痛と共にやってきた。辛いことも苦しいこともうんざりだけど、でも自分の人生を気に入ってる!」
ベルニージュとカーサとジニが部屋に飛び込んできて、まるでこれから殴り合いをしようとしている者たちを止めるようにユカリとエイカの間に入る。エイカはジニとカーサに部屋の外へ連れ出され、ユカリはベルニージュに縋り付いて緑の衣を濡らした。