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アリアの前に置かれたカップから
香りの余韻がふわりと立ち上っていた。
「では、アリア様。
また頃合いを見て、おかわりお持ちしますね
わたくしはまだ
お店のことは何もできないので
せめてアリア様の
お世話をさせてくださいませ」
アビゲイルは深々と一礼をすると
銀のポットを抱え
丁寧にカーテンを開けて特設席を後にした。
静寂と緊張を帯びた空間から一歩出た瞬間
店内のざわめきが再び鼓膜を叩く。
客の声、カトラリーの触れ合う音
ミルクの泡を立てるスチーム音──
それらが交錯する空気の中
彼女はゆっくりと
厨房へと戻ろうと歩み出した。
だが──その途中。
ふと、店の隅
壁際ギリギリにまで
自らテーブルを寄せたであろう一角に
微かに動く手が視界に入った。
(あら⋯⋯?)
それは、あまりにも控えめな動きだった。
まるで〝存在してもいいのだろうか〟と
問いかけるかのように
肩の辺りまで上がるかどうかという程度に
小さく、小さく、挙げた指先が震えていた。
アビゲイルは足を止める。
視線を向けると
そこには一人の少女が座っていた。
10代半ば、華奢な体格。
煤竹色の、座ると床に届きそうなほど
長く伸びた髪が背中に重く垂れている。
その髪の重みが身体を支配しているのか
それとも極度の緊張からなのか
少女の背は不自然なほど丸まり
肩も、胸も
まるで何かから身を守るように
すぼめられていた。
朽葉金色の瞳──
くすんだ光を宿したその目が
アビゲイルと合った瞬間
怯えたように揺れた。
口元は閉じきれず
わずかに唇が動いている。
けれど、声は聞こえない。
(⋯⋯オーダーかしら?)
アビゲイルは微笑みを浮かべながら
そっと歩み寄ろうとした。
が、それが彼女の緊張を
さらに高めてしまうような気がして
すぐに思い直す。
「お待たせしまして、すみませんが⋯⋯
すぐに別のスタッフを呼んで参りますね」
丁寧に会釈をすると
アビゲイルはポットを抱えたまま
早足でカウンターへと戻る。
「お姉さま、あそこの席の女の子が
オーダーまだみたいですわ!」
レイチェルはハッと顔を上げ
視線を少女の席に向ける。
「え!?⋯⋯ほんとだ!
教えてくれて、ありがとね!」
感謝の言葉と共に
レイチェルは急ぎ足で少女のもとへ向かう。
テーブルに近付いた瞬間だった。
「こんにちはー!
お待たせしちゃってごめんね──」
声をかけたレイチェルに
少女はビクリと肩を跳ねさせた。
まるで冷水を浴びせられたかのような震え。
そして彼女は
膝上に広がるゴシック調の
黒いスカートの裾を
ぎゅっと両手で握りしめた。
レースの縁取りが、指の痕で少し歪む。
唇がかすかに震え
何かを口にしようとしている。
だが──
(どうしよ⋯⋯聞こえないなぁ)
周囲は依然として満席の喧騒。
近くのテーブルでは笑い声が響き
厨房からはスチームの音が鳴る。
その中で、少女の囁きのような言葉は
まるで霧に包まれてしまうように
届かなかった。
レイチェルは眉を下げ
しゃがみ込むようにして
顔の高さを少女に合わせた。
そして、柔らかな声で問いかける。
「お店の中が騒がしくって
聞こえにくくてごめんなさいね?
もう一度、教えてもらえる?」
その時だった。
レイチェルの鼻先を
ふわりと撫でるような甘い香りが漂った。
──ただの香水や、シャンプーではない。
果実が熟れ過ぎて
内側から甘露が滲み
やがて発酵し
少しだけ酸を孕んだような──
濃厚な
しかしどこか〝過剰〟な甘さだった。
(⋯⋯何、この匂い⋯⋯?)
その香りは、まるで
〝少女自身〟から立ち昇っているようで──
レイチェルの本能が
言葉にならぬ違和感を告げていた。
少女の口元が、かすかにまた動いた。
「⋯⋯っ⋯⋯し⋯⋯」
その言葉は
レイチェルの鼓膜にかすかに
触れたような気がした。
が、それが「欲しい」と言ったのか、
「要らない」と呟いたのか──
この時、まだ誰にも分からなかった。