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己の仕事に直接関係がなく、もちろんプライベートでも関係のない人と何度も遭遇する確率は一体どれくらいなのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていた時、つい最近も同じようなことを考えたと思い出した彼は、目の前でもしかすると己と同じ気持ちから呆然としているように見える青年の顔を失礼なほど見つめた後、訳の分からない溜息を零す。
「・・・また、会ったな」
「また会っちゃいましたねー、先生」
本当に本当に先生は運が悪いとしか言いようがないと肩を竦められて吐息を零した彼、ウーヴェは、小脇に抱えていた本を意味も無く抱え直しながら、偶然の再会の確率を何となく計算してしまうが、もう一度溜息を吐くと、気分を切り替えるように肩を竦める。
今日は午後の休診を利用して資料を調べるために図書館にやって来たのだが、静かなはずの空間がやけに浮ついている気がし、入るのを何となく躊躇っていたのだが、目当ての本を借りるだけだからと己の直感を無視しいつもより手早く本を借りてすぐに駐車場に向かったのだが、その駐車場の一角に人だかりが出来ていること、その人だかりを整理している制服警官の姿と、その更に奥に見慣れた-と言いたくなるようなくすんだ金髪を首筋の後ろで一つに束ねた青年の背中を発見したのだ。
ここが青年の職場-つまりは事件現場で無ければきっと顔なじみになってしまった彼と挨拶程度はするが、いかんせん彼の職業は刑事であり、刑事がここにいるということは事件が起きたということだった。
しかも彼が担当しているのは主に殺人事件だったため、偶然の再会を果たすということは畢竟殺人事件の現場に居合わせることだった。
ウーヴェの職業は精神科医であり、医者になるための研修などで死体と対面することも人の死を看取ったこともあったが、殺人事件の現場に居合わせたことは無く、己のクリニックで秘書が殺された事件と先日の弁護士事務所での事件以外経験したことは無かった。
だから青年が本当に運が悪いと肩を竦めた時、同じ気持ちになってしまったのだが、咳払いを一つしたウーヴェは、いつもならばそんな気持ちにならないのに何故か好奇心が顔を出し、小脇に抱えた本をもう一度抱え直して己の目的を暗に伝えた後、何があったと小声で問いかける。
その質問は青年にとっては言われ慣れているものだったが、まさかウーヴェから聞かされるとは思ってもみなかったようで、一瞬驚きに目を見張ってしまうが、ウーヴェが己の言葉が与えたものを違う意味に捉えて反省しかけた時、青年の顔にその場にそぐわない、今まで何度か見たことのある満面の笑みが浮かび上がり、くすんだ金髪に手を宛がって心底嬉しそうな顔で一度頷く。
その笑顔はウーヴェの周囲にいる友人知人達の中では誰一人として浮かべない、子どものようなものであり大人のようなものでもあり、また直近にクリニックで事件の報告を受けた時にも見なかったもののため、ウーヴェも呆然と見つめ返してしまうが、口の横に手を立ててウーヴェの耳元に顔を寄せつつ囁いたのは、痴話喧嘩の縺れによる殺人未遂だとの言葉で、痴話喧嘩とおうむ返しに呟くと、図書館の駐車場に入ってきた車から降りた被害者が、図書館から出てきた加害者と遭遇し、口論になった挙げ句、加害者が持っていた図鑑の角が被害者の頭に直撃したとも教えられるが、被害に遭った人は気の毒だが、そんな殺され方をされたらたまったもんじゃねぇと思わず青年が本音を口にしてしまい、ウーヴェがその横顔を見つめる。
「少し不謹慎じゃ無いか?」
青年の言葉に同調する気持ちもあったが、人の生死が関わる事件が起きたのに不謹慎だと咳払いをした後に呟くと悪戯を発見された子どものような顔でそっぽを向くが、まあ幸いなことに未遂だったのでこの後のことは裁判で明らかになるでしょうと答えられて微苦笑する。
「まあ、本の下敷きになったり本で殴られて死ぬのは確かに嫌だな」
不謹慎と言いつつも青年の言葉に同意できる気持ちもあったため、小さな声でその横顔に苦笑交じりに呟くと、くるりと身体ごと振り返った青年が我が意を得たりと言いたげに笑みを浮かべ、腰に手を宛がって上体を折りつつ先生も本が好きそうだけど、倒れてきた本棚の下敷きになったらダメですよーと暢気に忠告される。
「大丈夫だっ」
「ホントかなー?先生、しっかりしてそうで意外と抜けてそうだからなー」
上体を起こして伸びをし、殺人未遂事件が起きた現場には不似合いな笑みを浮かべる青年になんとも言えなかったウーヴェは、とにかく本の下敷きになることは無いと再度断言するが、その時、青年の尻ポケット辺りから携帯の着信音が流れ出し、捜査に来ている刑事を無駄話に付き合わせてしまったことを思い出して手を上げて合図を送り、キャレラホワイトのスパイダーへと足を向けようとする。
「・・・んー、ドクでも無理って?」
その言葉が風に乗ってウーヴェの耳に流れ込んだ時、何かが琴線に触れたのかウーヴェが足を止めて携帯を耳に宛がう青年に注目してしまうが、その視線に気付いたのかどうなのか、不意に青年の顔が振り向いたかと思うと、そこに解決策を見いだしたような笑みが浮かび、先生ならここにいると携帯に伝えたため、ウーヴェの目が軽く見開かれる。
そのウーヴェの前、青年は何事も無かったように通話を終えた携帯を尻ポケットに戻し、先生、今お時間はありますかとやけに丁寧な言葉で問いかけてきたため、若干身構えつつ今日は午後からは休診だと答えると、何やら考え込む仕草で空を見上げる。
「明日、診察の時間にお邪魔しても良いですか?」
「・・・診察中は・・・」
診察中に来られても困ると答えるウーヴェに青年が顔の前で手を左右に振り、そうでは無いと己の言葉足らずを態度で詫びると、明日、先生に診察して貰いたい子どもがいると神妙な面持ちで答えたため、ウーヴェもそれに釣られて表情を切り替える。
「子ども?」
「Ja.少し前に事件に巻き込まれた子どもなんですが、ショックでまだ話が出来ません」
「声が・・・出せないのか?それとも言葉自体を忘れているのか?」
それによって対処法が違うと苦笑するウーヴェだったが、こちらの話はちゃんと理解しているようだと教えられて顎に手を宛がう。
「明日は午後からなら時間が多少は取れるな」
「ありがとうございます、先生」
じゃあ明日、クリニックに行く前に連絡をしますと礼を述べた青年は、少し離れた場所にいた上司に呼ばれていることに気付き、また明日と再会の約束をして手を上げると、上司の前に駆け寄っていく。
その背中に微苦笑を送ったウーヴェは、今回は本当に現場に遭遇しただけだから誰に呼び止められることも無く図書館の駐車場から無事に帰路に就くことが出来るのだった。
図書館での殺人未遂現場での再会の翌日、今から行きますと連絡を律儀に入れてきた青年の行動を快く思いつつ、事務を一手に引き受けてくれているオルガに先日の刑事が子どもを連れてやってくること、来たらすぐに教えて欲しいが、どれほど話が長引くか分からないので今日の診察はその子どもで終わりにすると伝えると、業務の段取りを考えている風に天井を少し見上げた彼女だったが、子どもの診察と呟いて目を伏せる。
「フラウ・オルガ?」
「・・・どんな事情があったか分からないけれど、少しでも元気になって欲しいですね」
彼女の呟きに籠もる感情に気付けないウーヴェでは無い為に短く同意をするが、その子どもがもしジュースなどを飲みたいと言ったときの為に用意を頼むと告げ、最近ファーストネームを呼び合うようになったばかりの仕事上での右腕が自分と同じ目線の高さを持っていることに無意識に安堵し、昨日よりもまた少し彼女を信頼するようになったのだった。
ウーヴェの言葉にコーヒーや紅茶等はあるがジュースの買い置きがないことに気付いたオルガが、今から近くの店で買ってくると伝えて慌ただしく出て行くのをよろしくと見送ったウーヴェは、事件に巻き込まれた子どもが話が出来ないと聞かされた時、心の奥底に封じ込めているはずの箱が開きそうになったことに気付き、拳を握って渾身の力で阻止し、今はその子どもが少しでも早く以前のように子どもらしい笑みを取り戻せるようにするだけだと言い聞かせる。
オルガが戻ってくるまで心裡での静かだが力のいる戦いを繰り広げていたウーヴェは、いつの間にか戻ってきてきた彼女の呼びかけに我に返ったように顔を上げて苦笑するが、その後ろに何が楽しいのか笑みを浮かべた青年、リオンの顔を発見し、頭を一つ振って中へと促す。
「こんにちは、先生」
「ああ、こんにちは、ケーニヒ刑事。この間話をしていた子どもは?」
「連れてきたかったんですけどね、本人が嫌がったので、連れてきませんでした」
話すことが出来なくなった子どもを何とかしたい思いから彼方此方の病院へと通い、何人もの医者に診せてきたがそれが徒になったのか、医者と聞くだけで顔を強ばらせるようになったのだ。
肩を竦めつつ事情を説明したリオンの前では、ウーヴェが顎に手を宛がった後、そういう事情ならば仕方が無いと納得したように頷くが、その子どもの話を聞かせてくれないだろうかと丁寧に問いかながら診察室のドアを開けて一人がけのソファに案内し、自らもデスクにつくのを感心した顔で見守ってしまう。
「もちろん、聞いて下さい、先生」
「ああ」
せっかく子どもが飲むためのものを用意したのだが無駄になってしまったかと、ドア付近で様子をうかがうように立っているオルガを見たウーヴェは、青年の目がきらきらと光り出したことに気付いて瞬きをする。
「・・・ジュースが飲みたいのか?」
「飲みたくないと言えば嘘になりますね」
「回りくどい言い方をしなくても良い」
そんな子ども顔負け-この感想も一体何度覚えたものだろうか-の顔でじっと見られたら断ることも出来ないと溜息を吐いたウーヴェにリオンが頭に手を宛がい、ダンケと小気味良いほどの声で礼を言う。
「ジュースが飲みたいです、先生」
「・・・フラウ・オルガ、お願いしてもいいだろうか」
「はい」
ウーヴェの重々しい言葉に彼女が微かに笑みを堪えている顔で頷きキッチンスペースに向かうために診察室を出て行くが、そういえば前に食ったビスケットが本当に美味かったとリオンが思い出した証に掌に手を打ち付ける。
「すげー美味かったからマザーらに食わせたいって思いました」
「マザー?」
リオンの独り言のような呟きを聞き逃さずに問い返したウーヴェは、一瞬だけしまったと顔を顰めたリオンにも気付くが、それについては何も言わずにいると、何でも無いことのように肩を竦めて笑みを浮かべる。
「児童福祉施設で俺たちの世話をしてくれているシスターです」
その短い一言に込められている正負合わせた膨大な感情の一端を読み取ったウーヴェだったが、その人物に食べさせたいと思うほどオルガのビスケットを褒めてくれたことにだけ素直に礼を述べると、蒼い目が驚きに見開かれる。
「・・・俺が施設出身だって知ってそれ以上聞いてこない人って先生で二人目だなぁ」
「・・・そう、なのか?」
「Ja.あ、もう一人は今一緒に働いてるジルって刑事なんですけどね。それ以外の人は大抵聞いてきましたし、わかった途端根掘り葉掘り聞いてくる人もいましたねー」
「それは・・・随分と失礼じゃ無いか?」
児童福祉施設出身だろうが何だろうが今は優秀な刑事なんだからと目を丸くすると、褒められたことに気付いたリオンが照れくさそうに頭に手を宛がう。
「ガキの頃、警察に何度も世話になって、近所でも悪ガキで有名だったんですけどね。そんな俺でも刑事になれました」
いや、学生の頃は聞くも涙語るも涙な努力があったと笑うが、それが嘘である事を一瞬で見抜いたウーヴェがにやりと笑みを浮かべて足を組み替える。
「ウソだな。その時に先ほどの彼女を困らせていたんだろう?」
「や、ひどいなぁ、先生」
事実だけど、いや、事実だからこそひどいと口の中でぶつぶつ文句を垂れるリオンに自然と笑みがこぼれ、口元に握った拳を宛がいつつ肩を揺らしてしまう。
「先生?」
「ああ、いや、失礼。きみといると想像外のことばかり起きて楽しいな」
笑ってしまって悪いと思うがきみとの話は楽しいなと、笑いながら手を立てて詫びるが、全然悪いと思っていないだろうと睨まれて咳払いをする。
「・・・失礼」
「あー、マジで先生ひでぇ」
足を組んですっかり拗ねた顔でウーヴェの背後の二重窓を見るリオンに苦笑した時、オルガが話題になったビスケットとジュースを運んできてくれる。
「ダンケ、フラウ」
「どういたしまして」
それを受け取りすぐに飲むのかと思えば手にしたままウーヴェをじっと見つめたリオンは、今日連れてきたかった子どもにも食わせたいと呟いたため、ウーヴェの目が見開かれ、仕事の話をしようかと咳払いをする。
「ダンケ、先生。─────その子、アルマというんですが、母親が仕事の時は同じアパートに住んでいた母親の妹、レベッカが世話をしていました」
その妹と一緒に家にいたとき、母親の男が家に来たのですが、仕事もせずにふらふらしていることをレベッカに責められてカッとし、傍にあったビール瓶で彼女を殴ってしまったと、さすがにこの時は刑事の顔で淡々と語るリオンを沈黙で見守っていたウーヴェは、彼女の叔母が目の前で母親の男に殴られたのを見たのかと呟いてしまい、リオンがやるせない溜息を吐く。
「Ja.それだけならまだどうにかなったんですが・・・今までずっと小言を言われ続けてきた恨みがあったから、朝から酒を飲んでいたからか、つい抑えが利かなくなってレベッカをレイプし、首を絞めて殺しました」
「何てことを・・・!」
リオンの冷静すぎる声に反するようにウーヴェが感情を露わに拳をデスクに叩き付けるが、次に聞かされた言葉に愕然となってしまう。
「・・・アルマもです、先生」
「!!」
何を思っているのかを全く感じさせない淡々とした声で告げられた悲痛な現実にウーヴェが唇を噛んで拳をきつく握る。
「物音に気付いた近所の人が駆けつけてくれて助け出されましたが、病院で治療を受けているときから口が利けなくなりました」
「アルマは・・・何歳なんだ?」
「10歳です」
10歳の少女が受けた傷を思うと鉛を飲んだように喉がつかえて胸が苦しくなり、身体的な傷よりも心の傷のことを考えると、つい少女に感情移入をしてしまいそうになる。
アルマがどれほど恐怖を感じ痛みに苦しんでいるのかへと意識が向かった瞬間、つんのめる意識をどこかから聞こえてきた優しい声が引き留めてくれたことに気付き、無意識に溜息を零すが、それを冷静な目で見つめながらリオンが重苦しい口を開く。
「傷はね、先生、治るものですよね」
「え?」
リオンの言葉の真意を咄嗟に理解出来ず、傷は治るがそれよりもアルマの様子がと非難混じりの声を出そうとしたとき、ウーヴェの目をまっすぐに見つめながらリオンが再度口を開く。
「傷は、治るものですよね、先生」
「・・・ああ、そうだ。そうだな。傷は・・・治すものだ」
「やっぱり先生って良いなぁ」
誤解を恐れずに告げた言葉の深い意味まで読み取って賛同してくれるだけではなく、その先へと続く道を今の一言で教えてくれるなんて、先生は何て頭が良くて人のことを見ているんだと手放しにリオンが褒めたため、何を言っているのか分からないとウーヴェが呟く。
「傷は治すものって、最後は本人が頑張るしかない、そういうことですよね」
「・・・それはそうだが・・・」
「手助けは出来るし支えることも寄り添うことも出来る。でも本人が思わない限り、誰が何をしたとしても無理ですよね」
それを見越した上で、それでも力になりたいと思う先生は本当に優しいなぁと、今度もまた褒めるように目を細めたリオンにウーヴェが咳払いをし、きみはどうなんだと苦し紛れに問い返してしまう。
「へ?」
「認めたくはないが、幼い子どもが被害に遭うことは事件になるならないに関わらずに起こっている。その中でどうして解決しただろうアルマの事件に関わっているんだ?」
先日図書館の駐車場での殺人未遂事件はもう手を離れたのか、他に事件はないのかと重ねて問いかけると、リオンが天井をぼんやりと見上げるが、見る者に安堵感を与えるように笑みを浮かべ、頼られると嫌だと言えないと笑う。
「事件現場から病院に向かったとき母親も病室にいたんですが、母親じゃなくて俺に向かって手を伸ばしたんです、アルマ」
本当ならば一番安心できるはずの母親ではなく、見ず知らずの刑事である俺に助けを求めたのだと告げる声に籠もるのは短い付き合いの中で初めて聞いた背筋が震えるような冷たい声だった。
その声の由来が想像できずに眉を寄せるウーヴェから己の声が冷え切ったものだと気付いたリオンが苦笑し、育った環境だからか、助けを求められると断れないと再度繰り返して肩を竦める。
「あと、傷は治るって教えたいんです」
「・・・・・・」
「この事件がトラウマになって辛いでしょう。それだけ受けた傷は深いです。でも、生きているんですよ、先生」
どれだけ辛く苦しかろうが今現に生きているのだと己に言い聞かせるような強い言葉にウーヴェが息をのみ、そうですよねと同意を求められても咄嗟に反応できないほどだった。
「─────生きているんです、先生」
どれだけ傷ついても死を選択しない人を応援したくなるのは当然ではないかと肩を竦めるリオンにしたたかに頭を殴られた気がしたウーヴェは、幼い子どもだから自死することはないと思い込んでいたことに気付かされると同時に、言語障害を発症してもそれでも助けを求め生きることをその少女が選択しているのだとも教えられ、生きたいという強い意志をも感じ取ると、拳に込められていた力が自然と抜けていく。
「・・・そういうことであれば、ぜひ診察をしたいな」
言語障害が出ていたとしても助けを求める少女が言葉を取り戻せるようになるまで、自分も関わっていたいと手を組み顎を乗せてしっかりと目の前に座る青年を見たウーヴェは、強く頷くリオンに頷き返し、アルマの居場所を尋ねると施設に預けられていることを教えられる。
「あそこならどんな事情があっても受け入れてくれます。マザーもゾフィーもその辺のケアは心得てますし、同年代の友人も出来るでしょう」
そして何よりも、あの施設に出入りする男の数は限られている為にアルマにとっては安心できる場所だとも教えられて胸をなで下ろす。
「そうか」
「先生の都合の良いときに連れてきたいと思いますが、まあ今日のように出かけるのが無理な時は許して下さい」
「いや、それは構わない。それよりも、きみが時間を取れるのかが心配なんだが?」
母親よりもきみに助けを求めた子どもが一人でここに来られるとは思わないと苦笑すると、何でもないことのようにリオンが頷く。
「ああ、俺はその辺大丈夫です。ボスも了解してくれてます」
単独行動ではなく上司の許可を得ているから大丈夫だと太鼓判を押すリオンに頷いたウーヴェは、ボスとおうむ返しに呟くと、見た目の厳つい刑事がいただろうと肩を竦められる。
「あれ、絶対にクランプスの子孫だと思うんだけどな」
ぶつぶつと文句を垂れる所を見るとかなり厳しい上司だと思うが、解決した事件に部下が関わることを許していることから、厳しいだけではない人だとも感じるが、クランプスの子孫はひどいだろうとつい吹き出してしまう。
「・・・先生、アルマのこと、お願いします」
己の言葉に笑みを浮かべるウーヴェを安堵の表情で見つめていたリオンだったが、凄惨な事件をくぐり抜けて生きたいという強い意志を見せている幼い命をどうか助けてやってくれと、打って変わった真摯な声で懇願すると、不思議と安心できる、この人にならば任せても大丈夫だと思える声が絶対に見捨てないと返してくれたため黙って再度頷く。
「彼女が声を取り戻して・・・歩き出せるまで見捨てることはない」
「良かった」
事件に巻き込まれたが生きようとする少女の未来に光を見いだした二人は、どちらからともなく安堵の溜息を零した後、ジュースが飲まれていないことを思い出し自然と笑い声を立ててしまう。
「忘れてたや」
「・・・楽しい男だな、きみは」
子どものような笑顔やそれを一切感じさせない真剣な顔もだが、話をしていると何故か楽しくなってくると口元に拳を宛がって笑うウーヴェに目を瞬かせたリオンは、楽しんで貰えたのなら嬉しいと複雑な笑みを見せるが、次いで日が差し込んだときの明るさを彷彿とさせる笑みを浮かべてくすんだ金髪に手を宛がう。
「先生に褒められるとすげー嬉しい」
なので先生、もっと褒めて下さいと、ウーヴェからすれば全く理解出来ない思考回路で言い放たれた言葉に呆気に取られるが、こみ上げてくる笑いを抑えられずに肩を揺らしてしまう。
「早くジュースを飲まないときみが言うクランプスの子孫に怒られるんじゃないのか?」
「げ、地獄に連れて行くかごを持ってこられると嫌だから早く帰ります!」
蒼白な顔で一声叫んだかと思うとジュースを一気に飲み干して立ち上がり、アルマをお願いしますと畏まった礼をして診察室を出て行く。
まるで嵐のように去って行った背中を呆然と見送ったウーヴェは、オルガになんとも言えない顔で呼びかけられて我に返り、あれは一体何なんだと呟いてしまうが、その顔には微かに笑みが浮かんでいるのだった。
ウーヴェのクリニックを妙に高揚した気分のまま出て行ったリオンは、クランプスの子孫と称した上司に報告の電話をかけながら長い足を警察署とは違う場所へと向ける。
『・・・そのドクに診せて治れば良いな』
「Ja.あの先生なら大丈夫な気がするんですけどねー」
早く治って欲しいがその取っ掛かりにすらたどり着けていない今、一縷の望みだと肩を竦めたリオンに電話の向こうの上司も同じ気持ちになった事を示す溜息を零し、解決した事件にいつまでも関わることを許してくれてありがとうございますと珍しくリオンが殊勝な言葉を伝えると、電話の向こうに意味の分からない沈黙が生まれる。
「ボス?」
『お前の口からそのような言葉を聞ける日が来るとは・・・・・・』
見習いの頃から何かと連れ回した成果だなと意地の悪い声が聞こえてきたため、こういったことは奥ゆかしくするのが言いのだ、自分から言うことではないと胸を張る。
「まあ、それはともかく、アルマの顔を見てきます」
『ああ。終わればすぐに戻ってこい』
「Ja」
憎まれ口を叩くが実は密かに尊敬している上司、ヒンケルに報告をした後通話を終えたリオンは、観光客が間違いでもしない限りやってこない街の一角に足を踏み入れる。
破れたフェンスとその向こうで遊ぶ子どもの姿を発見し、次いで古い教会と同じく古い施設の庭で数人の女性が話をしていることに気付き、タバコに火を付けて手を上げる。
「ゾフィー!」
「リオン? あんた仕事はどうしたのよ?」
リオンの声に驚きつつも歓喜の滲んだ声で出迎えたのはシスター・ゾフィーで、ぶっきらぼうな態度で手を上げるリオンの前に駆け寄ると、アルマの様子を問われて瞬きをする。
「今日はマザーと一緒にお手伝いをしてくれているわ」
「そっか」
まだ話すことは出来ないがそれでも自分から手伝う意志を示してくれたと、何よりも嬉しそうに語るゾフィーに頷いたリオンは、もしかするとアルマに声を取り戻してくれるかも知れない医者に出会ったと笑い、彼女の顔にも笑みを浮かび上がらせる。
「本当に?」
「ああ。多分、あの先生になら任せても大丈夫だ」
リオンの言葉に籠もる感情は願望や希望ではなく確信で、それをもたらしたのがつい先程の長くはないやり取りだったのだが、リオン自身何故そこまでの確信を持てるのかが理解出来なかった。
ただ、己の心の動きを読めなかったとしても直感は今まで裏切ったことがないとも知っている為、己の直感に従ってみようと頷くと、ゾフィーが呆れた様な顔になるが腰に手を宛がって強気な笑みを浮かべる。
「あんたの直感は確かに外れたことがないわね」
だから今もちょうど出来上がったドーナツを食べに来たのでしょうと笑われて目を丸くしたリオンだが、朗らかな笑みを浮かべてゾフィーの肩に腕を回し、そのドーナツを食ったら仕事に戻るからアルマを呼んで欲しいと笑いかける。
「良いだろ、ゾフィー」
「本当に仕方ないんだから」
でもそんなリオンを皆が愛していると笑うと、リオンも晴れ晴れとした笑みを浮かべ、施設でいつもマザー・カタリーナがいるキッチンの窓に近付くと室内の様子を窺うように伸び上がり、そこで出来上がったドーナツを一つずつ袋に入れる作業をしている幼い姿を発見し、安堵に笑みを浮かべるのだった。