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広間には、まだ人がいた。
だが、誰も動かない。
空気が、張りつめている。
薄布の向こう。
揺れる影。
長い髪がわずかに光を吸う。
そこに“いる”だけで
満たされてしまうような存在。
だからこそ、 触れたいと思う。
「やめておいた方がいいですよ」
静かな声が落ちる。
変わらない調子で。
「あなたも、同じになります」
意味は曖昧なまま。
けれど、 警告であることだけは分かる。
男は、止まらない。
一歩。 また一歩。
布の前まで来る。
他の者たちは、それ以上近づけなかった。
理由もなく、足がすくむ。
見えない何かに拒まれているみたいに。
だが、男は違う。
ただ進む。
迷いも、ためらいもなく。
「……お前」
低く呼ぶ。
名前はまだ知らない。
それでも、確かに“向けて”いる声。
布の向こう。
わずかに、気配が寄る。
「触れたら、」
少年が言う。
ほんのわずかに、間を置いて。
「戻れませんよ」
その言葉に、 男はほんの少しだけ笑った。
「構わない」
即答だった。
次の瞬間。
手が伸びる。
布に触れる。
やわらかいはずのそれが、やけに重く感じる。
まるで境界だ。
内と外を分ける、曖昧な壁。
そのまま、 押し分ける。
空気が軋む。
ぴり、と。
目に見えない何かが裂ける感覚。
一歩、踏み込む。
同時に 鋭い痛みが腕を走る。
焼けるような。
拒絶。
侵入を許さない力。
それでも、 止まらない。
布の向こう。
初めて、輪郭がはっきりする。
白い肌。 伏せられた睫毛。
近すぎる、美しさ。
男は手を伸ばす。
指先が触れる。
――冷たい。
驚くほどに
生きている温度が、ない。
その瞬間。
空気が、変わる。
ぴたり、と。
今まであった“拒絶”が、止まる。
少年の瞳が、開く。
まっすぐに 男を見る。
初めて、 はっきりと。
「……触れましたね」
声が、わずかに揺れる。
ほんのかすかに。
男は答えない。 ただ、見ている。
離さない。
触れている部分だけが現実になる。
他はすべてどうでもいいみたいに。
「どうして」
少年が、呟く。
「どうして、あなたは」
言葉が続かない。
分からない。
理解できない。
今まで、老婆と老爺にしか許さなかった
触れ合い。
「……知らない」
男が言う。
「だが」
指先にわずかに力を込める。
逃がさないように。
確かめるように。
「これで十分だ」
その一言に、 理由なんてなかった。
少年は、ただ見ている。
触れられている。
初めて。
拒めない。
その事実だけが、静かに落ちていく。
広間の外で、 風が鳴る。
竹がざわめく。
けれど、 その音はもう遠い。
ここにあるのは、
触れてしまった現実だけだった。
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