夜が明けるころ、雨はようやく弱まっていた。
ソファの上で浅い眠りを繰り返していた私は、かすかな足音で目を覚ました。
「……起こしたか?」
低い声に顔を上げると、黒川さんがキッチンの入り口に立っていた。
シャツの袖をまくり、寝癖ひとつない姿が、大人の余裕をまとっている。
「い、いえ……今起きました」
「朝食、作っている。あと少しでできる」
さらりと言うその声がやさしすぎて、胸がくすぐったくなる。
こんな穏やかな朝が来るなんて、昨日の私には想像できなかった。
ダイニングに座ると、黒川さんはテーブルに皿を置いた。
スクランブルエッグとトースト、温かいスープ。
シンプルなのに、まるでホテルの朝食みたいに丁寧だ。
「……黒川さん、いつもこんなに早起きなんですか?」
「癖みたいなものだ。仕事が朝早いからな」
「すごいですね……」
そう言うと、黒川さんがふと私の顔を覗き込んだ。
「……寝不足だな?」
近い。
思わず後ろに下がりそうになったが、椅子があって逃げられない。
「ね、寝不足では……」
「嘘だな。目の下にうっすらクマがある」
言われて指で触れると、黒川さんがすっと身を乗り出してきた。
距離が数十センチ。
息が当たる。
「……触れるな。そこ、化粧水でケアした方がいい」
「か、化粧水……持ってきてないですし……」
「だったら俺のを使え。君に合うかは分からないが、刺激の弱いものだから問題ないはずだ」
「い、いえ、でも……」
「遠慮する意味が分からない」
まっすぐ言われて、何も返せなくなる。
どこまでが“恋人役”で、どこからが彼自身の距離なのか、もう分からない。
朝食を終え、片付けを手伝おうと立ち上がったときだった。
「君は座っていろ」
「でも……」
言い終わる前に、黒川さんの指先が私の腕をつかんだ。
ぎゅっ、と。
強くはないのに逃げられない。
「昨日も言ったが……無理をさせたくない」
低く穏やかな声。
視線は真剣で、私よりも私の体を気遣ってくれているようだった。
「あの……黒川さん。そんなに優しくされたら……」
「“恋人役”だから優しくしていると思っているのか?」
「え……」
急に心臓が跳ねた。
黒川さんは皿を持ったまま、ゆっくりと近づいてくる。
まるで一歩ずつ距離を詰めるみたいに。
「誤解させたくないから言うが……昨日の夜、少しだけ困った」
「……困った?」
「君が、俺のソファで眠っているのを見て……」
そこで一度言葉を切る。
視線が揺れ、呼吸が少しだけ乱れた。
「……妙に、気になってしまった」
「っ……!」
「本来なら放っておくべきなのに……
髪が乱れていたり、寒そうに見えたりするたびに、手を伸ばしたくなった」
言葉のひとつひとつが胸に落ちて、体の奥を熱くさせる。
「恋人のふりのはずなのに、距離を間違えそうになった」
そんなことを言われてしまったら──。
「……黒川さん」
名前を呼ぶと、彼の瞳が少しだけ揺れた。
「だから……君は気をつけてほしい。
俺が、“役”を忘れそうになる」
耳元に落ちる声音。
低くて、甘くて、逃げられない。
張りつめた空気を切るように、突然チャイムが鳴った。
ビクッと肩が跳ねる。
「こんな朝早くに……?」
黒川さんは眉を寄せ、玄関へ向かう。
私はソファの陰からそっと様子を見る。
ドアを開けると──
そこに立っていたのは、昨日の元婚約者だった。
「陸……やっぱり、あの子と一緒にいるのね」
雨上がりの湿った髪、怒りを含んだ瞳。
ただならぬ気配をまとっている。
黒川さんの声が、驚くほど冷たく響いた。
「……帰れ。話すことはもうない」
「どうして? どうしてあの子なの? 私の方があなたのことを──」
元婚約者の言葉が続く間、胸がざわつき、手の震えが止まらない。
私のせいで……また面倒を増やしているのだろうか。
そう思った瞬間だった。
黒川さんが振り返り、きっぱりと言った。
「俺が選んだのは、彼女だ。
お前ではない」
息が止まった。
演技でも、その言葉はあまりに真っ直ぐすぎて。
嘘みたいに優しくて。
元婚約者は悔しそうに唇を噛み、最後に睨みつけて去っていった。
ドアが閉まったあと、黒川さんはゆっくり振り返った。
「……怖かったか?」
静かに聞いてくる声が、また胸を締め付ける。
私は小さく首を振った。
「怖くなかった……黒川さんが、守ってくれたから」
その瞬間、黒川さんの瞳が柔らかい色に変わった。
距離が、また少しだけ縮まった気がした。
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