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始まるが覚悟はいいか?ちなみに1話ごとに話の内容変わると思うからそこんとこよろしくお願いします🥺
ある晴れた日と言ってもそれが本当に晴れていたのか、それとも私の脳内にだけ存在していた主観的な晴れだったのか、もしくは、現象学的に言えば「晴れ」とはそもそも何を指しているのかという問いから始めなければならず、さらに言えばその「始める」という行為が果たして始点としての始まりなのか、それとも何かすでに始まっていたものの一部を、あたかも自分の意志によって開始したかのように錯覚しているだけなのか不明瞭なまま、私は、いや、私という存在が今まさにここにあると仮定しての話だが、その私が持っていると思っている感情、つまり昨日の夜中の3時27分ごろ、なぜか猛烈に豆腐の角で頭をぶつけたいという衝動に駆られながらも、実際には豆腐は角が柔らかいので満足感は得られないであろうという至極もっともらしい理性により思いとどまり、代わりにカーテンのしわの数を数えるという行動に出たものの、途中でカーテンが風に揺れて正確な数が把握できなくなり、「ああ、風とは何か」と風の哲学的本質について思いを馳せてしまったため、数を数えるという初志を完全に逸脱してしまい、最終的には「人間とは何をもってして数を数えるのか」という抽象的思考に没頭してしまった結果、いつの間にか床に落ちていた謎のビニール片を拾い上げ、それをルーペ越しに観察するという、もはや一切の論理的連続性を欠いた行為に至るという、まったくもって不可解極まりない精神の彷徨を経て現在に至るわけであるが、この「現在に至る」というフレーズも、よくよく考えれば「現在」とは常に流動的であり、至ったと認識したその瞬間にはすでに過去の彼方へと消え去っているという時空的矛盾を孕んでいる以上、我々は常に「今」とは何かを問う存在としての苦悩から逃れられず、むしろ「今」に囚われることによって「未来」に希望を抱くという構造的錯覚の虜となり、最終的には「今」と「今ではないもの」の間にある空白、すなわち「概念的ゼリー領域(※これは仮の名称であり、後に修正される可能性がある)」において我々の意識はゼリーのようにぷるぷると震えながらも、決してスプーンではすくいきれない深淵を内包しているのではないかという、極めて個人的かつ超越的な仮説に至るのであり、以上のことを踏まえた上で、あのときスーパーでレジ袋を「いりません」と言った私は果たして正しかったのかどうかという命題に対して、いまだ明確な答えを見出すことができず、今日もまた、窓辺に差し込む光の角度に意味を見出そうと試みては、結局は「光はただ光に過ぎず、意味を与えているのは常に我々自身である」という自家製の名言もどきをノートの隅に書き込むことしかできない、そんな私の物語が、あるいは始まりでも終わりでもない、中間地点のねじれた時空の一点において、静かに、そして不可逆的に、膨張を続けているのである。