コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
魔法少女の魔導書『わたしのまほうのほん』、『動物の王への変身の魔法』、『守護者の召喚魔法』、『人形遣いの魔法』、『歌をうたわせる魔法』に加え、ショーダリーが所持していた『秘密を暴露させる魔法』、『白紙の魔導書』が手に入った。
まだ三か月も経ていないこの短い旅路の中で、ユカリの人生における魔法、つまりユカリと名乗るまでの十四年間で触れてきたささやかな魔法を全て合わせても及ばない、これほど偉大で強力な魔法に接してきたのだ、と改めて思い返す。いずれもが歴史に名高き魔法使いが生涯をかけて求めても、その一片にたどりつける者すら稀だという。
それはあまりにも非現実的であり、ユカリはむしろ今まで聞いてきた魔導書にまつわる物語のほうが全て誇張されていたのではないか、と思い始めていた。むしろ誇張がないはずはない。皆が恐れ、怯えながらも、夢物語ではなく、希少ながらも確実に存在しているのであるから、話を大きくするのは無理からぬものだろう。
残るは『迷わずの魔法』、『勇気を与奪する魔法』、『物の大きさを変える魔法』とこの国にあるという二つの魔導書だ。完成されている魔法少女の魔導書に加え、十一枚の魔導書が今同時にこの国に存在している。ビゼの興奮も理解できないものではなかった。この長閑な青空の下で、子供を脅かすための物語にも語られないような、世の存亡を決めかねない出来事が進行しているのだ。今にも神々が空を割って現れて、薄汚れた野原で傲り高ぶる小さな人間たちに雷霆を差し向けても驚きはしないだろう。
北東へと真っすぐに伸びる整った路地に踏み入れる直前に、ユカリは違和感に気づき、ゆっくりと足を引っ込める。
何か見覚えのあるものを見落としているような、ささやかな違和感があった。ユカリはその何かを見つけようと隅々まで視線を走らせるが、今まで歩いてきた景色と何も変わるところはないように見えた。ヘイヴィル市の聖市街らしい厳かに沈黙する建物、巨大な白大理石を敷き詰められた街路には長い年月をかけて馬車の轍が深く刻み込まれている。東西に聳え立つ祈りの乙女と呪いの乙女はあいもかわらず手を組んで目を伏せ、あるいは天を仰ぎ咆哮している。
何もおかしなところはないが、何かがおかしい。見たことのない景色であるにもかかわらず、何かが正しくないと主張している。ワーズメーズで体験したあの感覚がユカリの中に蘇った。これは間違いなく迷いの魔法の使い手ネドマリア、あるいは彼女と体を共にするヒヌアラの仕業だ。
ユカリは唾を飲み込む。持ち物が全てあるべき所にあることを確認し、覚悟を決めて、路地に踏み入る。
一歩目が白大理石ではなく露に濡れた草を踏む。どこかの邸の庭に入り込んでしまったようだった。聳え立つ二柱の女神の位置関係を見るにそれほど遠く離れた場所ではない。早速出鱈目な状況に入り込んでしまった。それに、さっきから子供を一人も見かけない。子供たちを遠ざけるために迷いの呪いを使っているのかもしれないが、むしろユカリは誰かに招かれているような感覚を覚えた。
庭の門から出ようかとも思ったが、ユカリは踵を返し、玄関の扉を開けて邸の中に入る。きちんと邸の中に入ってしまった。広い邸宅を問題なくさまよって裏口を見つけ、そこから出ると、ユカリはさっきよりも大きく北東に移動していた。
間違ってはいないようだ。ユカリにとってはどれもワーズメーズで覚えのあるやり方だった。ワーズメーズのように建物そのものが出鱈目でないぶん、この聖市街の迷いの呪いの方が効き目は弱いようにも思える。少し悪ふざけが加わっている気がしないでもなかったが。
馬の青銅像が高らかに嘶くので鬣を撫でて鎮め、噴水の飛沫に濡れながら広場を三周し、逃げも隠れもしない鮮やかな虹をくぐる。
地上を焼き尽くそうという夏の昼盛り、燦々と降り注ぐ陽光の下、一人で何をやっているのか、という気持ちになる。着実に北東へと進んでいるはずだが、ユカリは何だか気が遠くなる思いになっていた。
「何を笑ってるの? ちょっと気味が悪いかも」とグリュエーに問われ、
「ああ、一人じゃなかった」とユカリは呟く。「はあ、涼しい。グリュエーは夏の必需品だね。私、何だかおかしくなっちゃって。夏の熱のせいかな」
グリュエーが秋口のような涼風でユカリを包む。
「魔法少女に変身したら?」
「どうして?」ユカリは胸元を開き、グリュエーを招き入れる。「あれちょっと暑苦しいんだよね。動きづらいし」
濡れた睫毛をしばたたかせる。
「ユカリを害する呪いの類は防げるんでしょ?」
ぽかんとしたユカリの頭の中にその言葉が突き刺さる。
「忘れてた!」
【楽しい気持ちを思い出し、微笑みを浮かべる】と魔法少女ユカリに変身した。体が縮み、狩り装束と合切袋が消え失せて、代わりに派手な杖が現れる。
いつの間にユカリにまとわりついていた幻が舌打ちを残して立ち去る。急に一人になってしまったような、そんな気分がユカリを満たした。
気が付けば、ユカリは鉄格子の門の前にいる。聖市街を囲む壁に比べれば小さなものだった。鉄格子の門も両翼に伸びる塀も聖なる壁に比べれば無骨な佇まいだ。門は錠も閂もなく、ユカリが試しに押せば軋みもせずに素直に開いた。ユカリの視界に広がるのは、手入れされていない芝生の広大な前庭、太陽を一身に浴びる白い宮殿の如き建築物。北東の端は聖市街の壁に沿っている。改めて二柱の女神たちの位置関係を確認する。ここが研究施設に間違いなさそうだ。
聖市街の他の建築物の例にもれず、神々をその美で喜ばせるような豪壮たる建築物だ。流麗な破風の彫刻を慎ましくも逞しい柱が抑え、波重ねの刳形が全てを調和させている。全体を知の探求という人間の志が貫いていた。
ユカリは用心しながら施設へ入っていく。迷いの呪いはもうなさそうだった。だからといって不用意に庭を駆けまわったりはしない。
正面の戸口もまた不用心に開いている。建物の内部に入ると、すぐに埃の臭いに気づく。長らく手入れされていないようだ。広い建物を歩き回るが、どこにも誰もいない。ネドマリアの痕跡はないが、時折開きっ放しの扉がある。よく利用する部屋なのかもしれない。
ユカリは少し迷ったが、試しにショーダリーに意識を飛ばすことにした。廊下に設えられた長椅子に座り、そこに施された彫刻を何の気なしに指でなぞりながら【口笛を吹く】。
意識は風よりも早く飛んで行き、守護霊のようにショーダリーの後方頭上で辺りを認識する。どうやらそこは聖市街の門のそばのようだ。驚いたことにショーダリーは既に何千人もの子供を壁の外へ連れ出していた。ショーダリーや子供たちの行動が素早いのか、ユカリがそれほど長い間さまよっていたのか。
少なくともユカリが想像していたように、聖市街全体に子供が散らばっていたわけではないようだった。全部で数千人いると聞いていた子供たちの大半が門の近くにいたのだとしてもおかしくない。そこが最も家族に近い場所だからだ。
騒然となる子供たちが羊の群れのようにもみくちゃになっている。大人たちは誰もショーダリーに近づこうとしないばかりか、子供たちすらをも警戒している様子だ。いずれにせよ、これだけの数では自分の子供を見つけるのも一苦労だろう。
「ショーダリーさん」とショーダリーが一人喋る。ショーダリーは驚く様子も見せず、「ユカリか?」と一人答える。
「そうです。ありがとうございます。約束を守ってくれたんですね」
ショーダリーは門の外へと足早に急ぐ子供たちを見守りながら答える。
「約束はしちゃいなかったはずだ。ただ、頼みを聞いただけだ」とショーダリーは憮然として答える。
「別にそれでいいですけど。ところで、施設にネドマリアさんの姿がありません。もしかしたら今はヒヌアラかもしれませんが。ほっつき歩くって、いつもどこに行くんですか?」
「さあな。新市街でよく見かけるという話は聞く。酒か男のどちらからしいが。詳しいことは知らん」
ネドマリアはどうやってヒヌアラと生活をすり合わせているのだろう、とユカリは今になって疑問に思った。一人の人間の体を共有して問題が起きないわけがない。
「分かりました」とショーダリーの口でユカリは答える。「とりあえず、パディアさん、ビゼさんと合流してください。とは言ってもすぐ近くにいるはずです。この騒ぎですし」
しかしショーダリーは一歩たりとも進まない。その足元から、石畳の隙間から葛が生え、蛇のようにショーダリーの足に巻き付き、紫の花を咲かせていた。
旧市街の方からあまりに派手な人物がやってくることにユカリは気づく。ネドマリアだ。あいかわらずの真紅のローブだが、身につけている宝飾品はさらに増えているように思えた。