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桜力(おうりょく)
春の風が高梁の町をゆっくりと撫でていた。
川沿いには菜の花が揺れ、山に囲まれた町全体がやわらかな日差しに包まれている。
その午後、教室の窓際では淡いカーテンがふわりと揺れていた。
「……はい、これ。今年も春の相撲大会のプリント配りますー」
担任の先生が、無造作に数枚の紙を班ごとに配っていく。
めぐみの前に一枚のプリントが落ちた。
『春の相撲大会 参加者募集のお知らせ』
という太文字が、白い紙に堂々と踊っている。
「今年もこの季節か……」
めぐみはぼんやりと紙を眺めた。去年、ひとりで個人戦に出て、あっさり初戦負けを喫したあの春。悔しさと、自分だけ浮いていたような孤独感が、今でもふっと胸に残っている。
「めぐ、出るの?」
隣から水々葉がのぞき込んでくる。髪を耳にかけながら、真剣な目をしていた。
「うん。……っていうか、リベンジしないとさ」
「そっか。去年、あれだけ練習してたもんね」
「でも、一人じゃね……」
めぐみが少し笑った。
「私も、今年はちょっとやってみよっかな」
水々葉がふっと視線を外して言った。
「真面目にやるとは言ってないけど」
「え、水々葉も?」
「私も出てみたいかも〜」と、斜め前の席から夏菜と優衣が乗ってきた。
「なっちゃんと優衣も!?」
「うん、だって今年のポスター、ちょっとかっこよかったし。あと賞状ももらえるんでしょ?」
「……よし!」
めぐみはプリントをくしゃっと握りしめた。
「じゃあ、放課後、行こう。いつものとこ」
「また、あそこ?」
水々葉が苦笑する。
「だって、正式に申し込むのはまだ先でしょ? だったら秘密の練習場でこっそり準備よ」
「ふふ、わかったわかった。でも今日、優衣は?」
「さっき『うち今日は別件ある』って言ってた。たぶん……あっちの活動?」
「そっか。無理はさせられないね」
めぐみは肩をすくめる。
「じゃあ、ちょっと見に行ってみる?」
夏菜が言った。
「うん。……あの場所、見せるね」
放課後のざわめきの中、三人は連れ立って教室を出た。
*
めぐみがふたりを連れてきたのは、街から少し離れた山の中にある、古びた神社だった。
「ここ、どこ……?」
水々葉が辺りを見回す。木々に囲まれ、鳥のさえずりしか聞こえない。
「すっごい、雰囲気あるね……」
夏菜も少し緊張したように声を漏らす。
「あたしね、去年この土俵、偶然見つけたの。ずっと誰も使ってなくて。でも、なんかすごく惹かれてさ」
めぐみは境内の奥にある土俵を指差す。俵は少し崩れているけど、しっかりした円形が残っている。
「……ここで一人で練習してたの?」
水々葉の声には少し驚きが混じる。
「うん。去年はここでずっと一人で稽古してた。でも、やっぱり一人じゃだめだったんだ。誰かと組んで、押して、負けて、それでもまた立ち上がって……そうやって強くなるんだって、負けて気づいた」
ふたりはしばらく黙っていたが、やがて夏菜がぽつりと呟いた。
「……めぐ、すごいわ」
「でもうちは、そんな真剣な世界、ちょっと怖いかも……」
「大丈夫だよ。相撲ってね、面白いんだよ。なっちゃんは力あるし、水々葉は反応いいし……うちが、教えるから」
「プロでもないのに?」
水々葉が笑う。
「まぁね……でも、自分の得意な形とか、投げ技とか、ちゃんと練習したよ。だからまずは、それを一緒にやってみよ?」
古びた狛犬が眠そうに苔むし、土俵は落ち葉に囲まれていた。だが、この場所だけは、めぐみにとって特別な空間だ。
「ほいっと……」
スニーカーを脱ぎながら、めぐみはすでに稽古着に着替え始めている。体操服にまわしを巻いたその姿は、もうスイッチが入っていた。
「じゃあ、今日は組み手の基本からいくよ」
「はいはい」
水々葉が片手を挙げて軽く返す。
「なっちゃんも、しっかりね?」
「えー、見てるだけじゃダメ?」
「だーめ! あんた、握力強いの知ってるんだから!」
「うぐ……バレてる」
「で、今日は“がっぷり四つ”から教える。互いに両差しで胸を合わせるやつ。私、それ得意なんだ」
「ふーん、そういうのだけはちゃんとしてるんだね、めぐ」
「だけは、って何よ!」
「ほら、教えて教えて」
夏菜と水々葉が、くすくす笑いながら立ち上がった。
その土の上に、三人の足音が増えていく。
まだ、勝てるかどうかもわからない。
でも去年の“ひとり相撲”だけは、もう繰り返さないと決めていた。
「……あのさ」
ふと、めぐみがつぶやいた。
「今度さ、1組の子にも声かけてみようかなって思ってるんだ」
「誰?」
「牧野さんって子。負けず嫌いっぽいし、スポーツできそうだし」
「めぐ……気になるの?」
「ちょっと、ね」
春の空はまだ明るく、山の陰が土俵にゆっくりと差し込んでいた。