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読み会が終わり、教室にわずかな安堵が戻った、その直後だった。
サヨリは、静かに立ち上がると、モニカの方へ歩み寄った。
「ねえ、モニカ……」
声は、いつも通り明るい。
「今日は、先に帰るね」
「え?」
モニカは一瞬、表情を崩した。
「大丈夫? 無理しなくていいよ」
サヨリは少しだけ首をかしげ、
それから――
いつもの笑顔を作った。
「うん。ちょっと体調悪くてさ」
軽い調子。
冗談みたいな口調。
それが、余計に胸をざわつかせる。
「……そう。じゃあ、気をつけて帰ってね」
モニカはそう言いながらも、
視線を外さなかった。
サヨリは小さく手を振り、
そのまま教室の扉を開ける。
がらり、と音がして、
彼女の背中が廊下へ溶けていった。
「……」
銀時は、考えるより先に立ち上がっていた。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「銀時!?」
「何だ、どうした」
桂と坂本が同時に声を上げ、
高杉は無言で視線を追う。
銀時は答えない。
そのまま教室を飛び出した。
「サヨリ!!」
廊下に、銀時の声が反響する。
だが――
前を行くサヨリは、振り返らない。
足取りも、止めない。
まるで、
追いつかれてはいけないと知っているかのように。
銀時は歯を食いしばり、
その背中を追った。
文化祭当日。
朝から校内はざわめきに満ち、廊下には色とりどりの装飾と人の流れが溢れていた。
文芸部の教室も例外ではない。
「そこ、もう少し右……そう、影が綺麗に出る」
ユリの指示に、高杉は無言で頷き、天井から垂らした紙飾りの角度を微調整する。
「……過剰だな」
「いいえ。過剰なくらいが、記憶に残るんです」
二人の間に、静かな集中が流れていた。
一方、教室の反対側。
「ほら、間隔詰めすぎ!」
「大丈夫じゃ、見た目より量が大事ぜよ」
ナツキが腕を組んで睨み、坂本は楽しそうにカップケーキを並べ直す。
甘い匂いが、教室の空気を柔らかくした。
教卓の前では、別の緊張が張りつめている。
「最後の一行、少し溜めてからだ」
桂が低く言い、
「……ここね」
モニカは静かに頷く。
二人は朗読用の台本を挟み、声の強弱と間を確認していた。
一見すれば、準備は順調。
誰が見ても、完璧に近い。
――けれど。
教室の中央、
一つだけ空いた椅子があった。
そこに座るはずの人物は、いない。
笑顔で場を繋いでいた、
誰よりも声を出していた、
サヨリの姿が、どこにもなかった。
銀時は、入口付近でその光景を一瞥し、
無意識のうちに拳を握りしめていた。
時計の針が、
やけに大きな音を立てて進む。
文化祭は、もう始まっている。
銀時の頭から、昨日の詩が離れなかった。
軽い言葉。
明るい比喩。
その裏に沈んでいた、
底の見えない重さ。
――あれは、ただの詩じゃない。
銀時は、教室の空気を一度だけ見渡し、
そして決めたように、前へ出た。
「モニカ」
その声に、教室の動きが一瞬止まる。
「サヨリを呼んでくる!!」
「銀時、待て」
桂が即座に腕を伸ばす。
「今は文化祭当日だ。勝手な行動は――」
「関係ねぇ」
銀時は振り返らない。
「昨日のあれ、
見なかったことにできるかよ」
教室に、短い沈黙が落ちる。
モニカはその様子を見つめ、
少しだけ考えるように目を伏せた。
そして、穏やかな声で言った。
「……朗読まで、まだ三十分くらいあるわ」
桂が驚いたようにモニカを見る。
「モニカ?」
「それまでに、戻ってきてね」
微笑みは崩さない。
だが、その目は鋭かった。
銀時は一度だけ、
短く頷いた。
次の瞬間、
教室の扉が勢いよく開く。
廊下へ飛び出し、
銀時は走り出した。
胸の奥で、
嫌な予感だけが、
どんどん大きくなっていく。
銀時は、息を切らしながら走り続けた。
校舎を出て、曲がり角をいくつも越え、
覚えのある道をただ一直線に。
やがて、見慣れた家が視界に入る。
「……ここだ」
玄関先に立ち、呼吸を整える間もなく、
銀時はインターホンに手を伸ばした。
ピンポーン。
――反応は、ない。
「……寝坊か?」
自分に言い聞かせるように呟き、
もう一度押す。
沈黙。
胸の奥が、じわりと冷える。
「おい、サヨリ」
ドアを叩こうとして、
銀時の手が止まった。
ノブに触れた瞬間、
――抵抗がない。
鍵が、開いている。
「……は?」
一気に、嫌な予感が込み上げる。
朝。
文化祭当日。
鍵が、開いたままの玄関。
笑顔で帰った、昨日の後。
喉が、からからに乾く。
「……勝手に入るぞ」
返事がないと分かっていながら、
それでも声を出した。
銀時は、ゆっくりとドアを押す。
軋む音が、やけに大きく響いた。
室内は、静かだった。
生活の匂いはある。
だが、
人の気配だけが、
決定的に欠けている。
銀時は、一歩、
そしてもう一歩、
サヨリの家の中へ足を踏み入れた。
胸の鼓動が、
やけにうるさい。
廊下の奥。
扉の前で、銀時は一度だけ立ち止まった。
「サヨリ……文化祭だ……」
言葉が、途中で詰まる。
ノブに触れ、押す。
次の瞬間――
世界が、止まった。
足が動かない。
視界の奥で、
サヨリの姿が、
現実として立っていた。
笑顔ではない。
声も、動きもない。
それを理解した途端、
銀時の呼吸が荒くなる。
「……嘘だ」
一歩も進めないまま、
言葉だけが零れ落ちる。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ……」
頭の中で、
否定だけが反響する。
「だって、昨日まで……昨日まで……」
言葉は、形にならない。
視線が、
部屋の中の机へ落ちた。
そこに、一枚の紙が置かれている。
詩のような、
けれど詩とは呼べない文字。
同じ一文が、
途切れることなく、
何度も、何度も、
書き連ねられていた。
――『頭から出ていけ』
――『頭から出ていけ』
――『頭から出ていけ』
――『頭から出ていけ』
――『頭から出ていけ』
――『頭から出ていけ』
――『頭から出ていけ』
紙の白さが、
やけに眩しかった。
銀時は、その場から
一歩も、動けなかった。
視界が定まらないまま、
銀時の目に、机の端が引っかかった。
紙は、もう一枚あった。
震える手で、
それを拾い上げる。
そこに描かれていたのは、
簡単な線だけで作られた、
笑顔の棒人間。
――サヨリの面影を、
あまりにも無邪気に写したような。
その首には、
一本の線がかかっていた。
理解が追いつく前に、
胃が、ひっくり返る。
「……っ」
喉の奥が焼けるように熱くなり、
銀時は思わず、
その場に崩れ落ちた。
視界が歪む。
耳鳴りが、
遠くなる。
最後に見えたのは、
床に落ちた紙の、
歪んだ笑顔だった。
そして――
銀時の意識は、
ぷつりと、途切れた。
まぶたの裏に、白い光が滲んだ。
「……っ」
息を吸い込んだ瞬間、
胸が強く脈打つ。
銀時は、はっとして目を開けた。
そこは――
文芸部の教室の、前。
廊下の床。
掲示物。
開いたままの引き戸。
見慣れたはずの光景が、
不自然なほど整っている。
「……は?」
身体を起こす。
痛みはない。
吐き気も、
息苦しさも、
さっきまでの恐怖も――
消えている。
だが、
“覚えている”。
確かに、
見た。
その時、影が落ちた。
「目、覚めたか」
低い声。
顔を上げると、
桂が腕を組んで立っていた。
その横に、高杉。
少し離れて、坂本。
三人とも、
無言で銀時を見下ろしている。
「……おい」
銀時は喉を鳴らし、
「今……」
言葉が、続かない。
「銀時」
坂本が、いつになく真面目な声で言った。
「さっきまで、
ここに倒れとったぜよ」
「急に、だ」
高杉が短く付け足す。
桂は、銀時の表情から目を逸らさず、
静かに言った。
「……何を、見た?」
廊下の向こうで、
文化祭の喧騒が、
何事もなかったかのように、
流れていた。
「サヨリ……」
銀時の口から出るのは、
それだけだった。
「サヨリが……サヨリが……」
言葉は続かない。
桂は一歩近づき、
低く、落ち着いた声で問いかける。
「何が起きた。銀時」
だが、銀時は首を振るだけで、
「サヨリ……サヨリ……」
同じ音を、
壊れたように繰り返した。
高杉が、短く息を吐く。
「……今は無理だな」
そして、冷静に言った。
「一人にさせろ」
坂本が何か言いかけ、
結局、黙って頷く。
その瞬間――
廊下のざわめきが、
音を失った。
視界が、
ゆっくりと滲む。
床も、壁も、
色を失っていき――
次に、
銀時が立っていたのは、
文化祭前の、
文芸部の教室だった。
机は整い、
装飾はまだ途中。
甘い匂いも、
人の気配も、
“これから”のまま。
時間が、
巻き戻されたかのように。
教室の中央で、
モニカが、
何事もなかったように微笑んでいた。
何が起きたのか、
誰も説明できないまま――
四人は、再び文芸部の教室の前に立っていた。
「……戻ってきた、のか?」
坂本が小さく呟く。
銀時は答えず、
ただ扉に手をかけた。
引き戸が、静かに開く。
そこには、
モニカ。
ユリ。
ナツキ。
三人が、
何事もなかったかのように準備を続けている。
「……あれ?」
桂が、わずかに眉をひそめた。
「人数が、合わない」
高杉も、
無言で室内を一瞥する。
――一人、足りない。
教室のどこにも、
あの明るい声も、
笑顔も、
存在しなかった。
銀時の胸が、
嫌な音を立てて軋む。
一歩、前に出る。
「モニカ」
声が、掠れた。
「サ……」
次の瞬間――
言葉が、壊れた。
「サ■■リは?」
音が歪み、
口の動きと一致しない。
喉から出たはずの名前は、
途中で欠け、
意味を失って落ちた。
モニカは、
一瞬だけ瞬きをする。
「……?」
「何か、言った?」
ユリとナツキも、
不思議そうに銀時を見るだけだ。
桂が、
銀時の口元に視線を落とす。
「今の言葉……」
高杉が低く言った。
「最初から、
存在しなかったみてぇだな」
教室の空気が、
静かに、
しかし確実に、
歪んでいった。
モニカは一拍置いて、いつもの明るい声を張った。
「それじゃあ――新入社員のみなさん、文芸部へようこそ!」
その言葉に、四人の顔が同時に強張る。
「……社員?」
銀時が小さく呟く。耳にした単語自体が、ここが“学校”であるという前提と噛み合わない。
桂は周囲を見渡し、ホワイトボード、机、掲示物を確認する。
「部活……のはずだが。言葉の選択が不自然だ」
高杉は鼻で笑った。
「歓迎の台詞までズレ始めたか。ますます胡散臭ぇ」
坂本は困ったように頭を掻く。
「はは……場の空気は和やかなのに、笑えんぜよ」
モニカは四人の困惑に気づかない――あるいは、気づいていない“ふり”をして、柔らかく微笑んだ。
「細かいことは気にしないで。さぁ、席について。文化祭の準備、始めましょう」
その瞬間、教室の時計が、カチ、と一度だけ音を立てて止まった。
「じゃあ、まずは詩を書きましょう」
モニカは楽しげに手を叩いた。
机の上に、白い紙。
鉛筆の音だけが、
不自然なほど整ったリズムで教室に響く。
攘夷組も、
何度目か分からない“詩作”に向き合った。
違和感を抱えたまま――。
数分後。
「……できたぜ」
高杉は無言で紙を折り、ユリの前に差し出す。
坂本は、にこやかなままナツキに渡した。
「ほい。読みづらかったらすまんぜよ」
そして、
銀時と桂の二人分は、
モニカの手元へ置かれた。
モニカは一枚ずつ受け取り、
「じゃあ、読みましょうか」
と微笑む。
壊れた空の下で
何度も同じ朝が燃える
名前を呼べば灰になる
それでも
俺は壊す
それしか残っていないから
ユリは紙を胸に抱き、
陶酔したように目を伏せた。
「……破壊の中に、美があるわ」
高杉は答えず、
ただ窓の外を睨んでいる。
波は何度も帰ってくる
同じ港に
同じ顔で
違うはずなのに
それでも笑っときゃ
なんとかなるぜよ
ナツキは一瞬黙り、
それからそっぽを向いた。
「……甘すぎ。でも、嫌いじゃない」
坂本は、
「はは、そう言われると照れるぜよ」
と笑った。
なくした名前が
頭の中で鳴っている
呼べば壊れる
見れば消える
それでも
忘れなきゃいけないなんて
誰が決めた
モニカの指が、
一瞬だけ止まった。
だがすぐに、
何事もなかったように微笑む。
「……とても感情的で、いい詩ね」
その声は、
少しだけ高かった。
台本の外で
人はどこまで自由か
書かれていない一行を
俺は信じる
たとえ消されても
そこにあったと
言い続けるために
モニカは静かに拍手をした。
「哲学的で素敵よ、桂くん」
だがその瞳は、
どこか計算するように細められていた。
教室に、
拍手も歓声もない沈黙が落ちる。
誰もが感じていた。
――この詩作は、
ただの部活動じゃない。
世界そのものを、
確かめる行為になりつつあることを。
ユリは、そっと高杉の方へ向き直った。
「……高杉さん。よかったら、紅茶はいかが?」
低く、控えめな声。
高杉は一瞬だけ視線を向け、
「……好きにしろ」
と短く答えた。
ユリは安堵したように頷き、
給湯スペースの棚に手を伸ばす。
――が。
「あ……」
小さな息が漏れた。
棚の奥。
空の箱。
「ティーバッグ……切れてる」
ユリは一瞬、教室の方を振り返る。
皆はそれぞれ作業に戻り、
モニカは銀時と桂の方を見て何か話している。
「……取ってきます」
誰にともなくそう告げると、
ユリはスカートの裾を整え、
静かに教室を出て行った。
扉が閉まる音が、
やけに大きく響いた。
高杉はその背中を、
ほんの一瞬だけ目で追い――
すぐに、
視線を逸らした。
数分。
それでも――ユリは戻らなかった。
教室の空気が、
わずかに重くなる。
高杉は舌打ちをして立ち上がった。
「……様子、見てくる」
誰かが止めるより早く、
高杉は教室を出た。
廊下は静まり返っている。
その静寂の奥から――
「……っ」
かすれた、
息を殺したような声が響いた。
高杉は足を止め、
音の方へ向かう。
角を曲がった先。
そこに、
ユリがいた。
「……ユリ」
名を呼ぶ。
ユリは、
びくりと肩を震わせ、
振り返った。
その手には、
光を鈍く反射するナイフ。
そして――
白い腕は、
赤に染まっていた。
血が、
床へと静かに滴り落ちている。
「……っ!?」
高杉の喉が、
一瞬、音を失った。
ユリは、
怯えたように目を見開き、
それでもどこか陶然とした笑みを浮かべる。
「あ……ごめんなさい……」
震える声。
「見られる、つもりじゃ……」
ナイフを握る指が、
微かに震えた。
廊下の空気が、
張り詰める。
――ここは、
ただの学校じゃない。
高杉は、
はっきりとそう理解した。
その瞬間――
世界が、
きしんだ。
音が引き延ばされ、
色が裏返る。
高杉が息を呑んだ次の刹那、
廊下は消え、
血の匂いも、
床に落ちた赤も、
すべてが巻き取られた。
「……?」
気づけば、
高杉は文芸部の教室に立っていた。
ユリは、
何事もなかったように
棚の前にいる。
その手には――
ティーバッグ。
「今、紅茶入れますね」
穏やかな声。
先ほどの震えも、
陶然とした笑みも、
どこにもない。
高杉は言葉を失い、
ただユリの動きを目で追った。
ポットの湯気が立ち上り、
カップに注がれる。
とく、とく、とく。
静かな音。
――あまりにも、
普通すぎる光景。
「……どうかしました?」
ユリが首を傾げる。
高杉は、
喉の奥に残る違和感を飲み込み、
短く答えた。
「……いや」
紅茶の香りが、
教室に満ちる。
だがその甘い匂いの奥で、
高杉だけが知っていた。
――確かにさっきまで、
ここは、
別の地獄だったことを。
一方、その頃。
ナツキは机の下から、
大事そうに一冊の漫画を取り出した。
「ね、坂本」
「これ、読んでみなさいよ」
坂本は受け取り、
表紙を眺めながら首を傾げる。
「ほう……漫画か」
「文芸部じゃが、
漫画もええもんなんか?」
その瞬間、
ナツキの肩がぴくりと跳ねた。
「はぁ!?」
机を叩く勢いで、
ナツキは身を乗り出す。
「漫画だって、立派な文芸でしょ!」
「言葉も、絵も、
全部ひっくるめて物語なんだから!」
顔を赤くして、
力いっぱい言い切る。
「……漫画は凄いんだから!!」
坂本は一瞬驚いたあと、
豪快に笑った。
「ははは! なるほどのう」
「文字だけじゃなく、
絵で語る物語……
それはそれで、
海みたいに広いぜよ」
ナツキはぷいっと顔を背けるが、
どこか満足そうだった。
「……分かればいいのよ」
教室の隅で、
ページをめくる音が静かに響く。
そこだけは、
ほんの少しだけ
“普通の部活”の時間が流れていた。
坂本は椅子を使わず、
そのまま床にどさっと腰を下ろした。
「ほう……こうやって読むのがええんか?」
「べ、別に決まりじゃないけど……」
ナツキは少しだけ躊躇してから、
坂本の隣に座り込む。
二人の肩が、
ほんの少し触れる距離。
ページが、
ゆっくりとめくられていく。
「ほら、ここ」
ナツキは指でコマを示す。
「この表情、
言葉にしてないけど分かるでしょ」
「強がってるけど、
本当は怖いってのが」
坂本は感心したように頷いた。
「なるほどのう……
台詞がなくても、
心が見えるぜよ」
「そう!」
ナツキの声が、
少し弾む。
「それに次のページで、
ここ!」
ぱらり、と紙が鳴る。
「この間(ま)、
読む側に想像させるのが大事なの」
坂本は目を細め、
静かにページを追う。
「……戦の前の沈黙みたいじゃ」
その一言に、
ナツキは一瞬きょとんとしたあと、
ふっと笑った。
「……まあ、
そんな感じかも」
二人は言葉を減らし、
しばらく黙って読み続ける。
ページをめくる音だけが、
教室に溶けていった。
その時間だけは、
世界の綻びも、
巻き戻しも、
どこにも入り込めなかった。
坂本が、
ふとナツキの方を向いた、その瞬間だった。
ナツキの――
目と、口に。
黒いノイズが走った。
ざざ、
ざざざ。
輪郭が崩れ、
感情のあるはずの場所が、
塗り潰されたみたいに欠ける。
「……っ?」
坂本は息を止めた。
次の瞬間、
「な、なによ?」
何事もなかったかのように、
ナツキは眉をひそめる。
目も、口も、
元通りだった。
「急にこっち見て」
坂本は笑おうとしたが、
喉がひくりと引きつった。
「いや……なんでもないぜよ」
ページをめくる指が、
わずかに震える。
ナツキは気づかず、
また漫画の説明を続ける。
「それでね、
この後の展開が――」
だが坂本の頭には、
さっきの光景が焼き付いて離れなかった。
――黒いノイズ。
――顔を覆い隠す、
“存在の欠損”。
坂本は確信する。
この世界は、
静かに、
確実に、
壊れ始めている。
しばらくして、
教室に散っていた空気が、
ゆっくりと一つに集められていく。
「さて」
モニカが手を叩いた。
「そろそろ文化祭の話に戻りましょう」
その一言で、
各々の時間が区切られたように止まる。
ユリは紅茶のカップをそっと置き、
ナツキは漫画を閉じて胸に抱いた。
坂本は床から立ち上がり、
何事もなかったかのように笑顔を作る。
だが、
その胸の奥では、
黒いノイズの残像が消えていない。
「準備は順調?」
モニカの視線が、
順番に皆をなぞる。
「飾り付けは問題ないわ」
ユリが静かに答える。
「……ええ、とても素敵に仕上がってる」
高杉は短く頷くだけだ。
「お菓子も大丈夫よ」
ナツキは少し得意げに言い、
「味見も、ちゃんとしたし」
と付け足した。
「それは楽しみぜよ」
坂本が応じる。
モニカは満足そうに微笑んだ。
「朗読も、問題なさそうね」
桂は背筋を伸ばし、
「うむ。台本――いや、詩は頭に入っている」
と答える。
そして、
一瞬の沈黙。
誰もが、
“あの席”を見ないようにしていた。
モニカは、その沈黙を切るように言う。
「明日は、きっと素敵な文化祭になるわ」
明るく、
疑いようのない声。
だが教室の片隅で、
時計の針が、
ほんの一瞬だけ、
逆に跳ねた。
帰りの支度が始まり、
教室に夕方の色が差し込む。
ユリは一瞬ためらうように立ち止まり、
高杉の前に小さな封筒を差し出した。
「……これ」
視線を合わせないまま、
そっと。
「読んで、もらえたら……」
高杉が受け取るより早く、
ユリは踵を返す。
「じゃ、じゃあ……また明日」
小走りで、
教室を出て行った。
扉が閉まる音が、
どこか軽すぎた。
「ね、坂本」
ナツキは腕を組み、
少し強い口調で言う。
「明日、絶対に家に来てね」
「約束だから」
坂本は一瞬目を丸くし、
それから朗らかに笑った。
「おう、任せちょけ」
ナツキは満足したように頷き、
そのまま文芸部の教室を後にする。
残されたのは、
攘夷組だけだった。
桂と高杉、
そして坂本の視線が、
自然と一箇所に集まる。
銀時。
彼は、
教室の隅――
かつて、
あの子が座っていた席に、
俯いたまま座り続けていた。
声をかけても、
届かない距離。
机の上には、
何もない。
それでも銀時は、
そこに“何か”が
まだ残っているかのように、
じっと、
動かなかった。
高杉は、
誰にも見られない位置で封筒を切った。
中から出てきたのは、
几帳面すぎるほど整った文字。
だが、
読み進めるにつれて――
高杉の眉が、
明らかに歪んでいく。
高杉さんへ
あなたがここに来てから、
世界の音が静かになりました。
あなたの呼吸の間隔、
視線の動き、
立っている位置。
それらを考えていると、
胸がいっぱいになって、
文字を書かずにはいられません。
本当は、
ずっと見ていたい。
触れなくてもいい。
ただ、
同じ世界に存在していると
確認できれば。
明日、
あなたが来てくれるなら、
私はとても、
安心できます。
最後の行に、
不自然なほど強い筆圧で、
来てください
と、
重ね書きされていた。
高杉は、
無言で紙を折りたたむ。
「……気持ちわりぃ」
小さく、
吐き捨てるように呟いた。
手紙を握る指に、
嫌な汗が滲む。
――これは、
好意じゃねぇ。
執着だ。
高杉は、
はっきりとそう理解した。
文化祭の朝。
文芸部の教室には、まだ人の気配がまばらだった。
窓から差し込む朝の光が、机や椅子の影を長く伸ばしている。
飾り付けの最終確認。
机の配置。
朗読用の原稿。
高杉もユリも、言葉少なに準備を進めていた。
やがて――
扉が閉まり、
教室には二人きりの時間が訪れる。
静寂。
時計の秒針の音だけが、やけに大きい。
ユリは、深く息を吸った。
「……高杉さん」
声が、かすかに震えている。
「私……ずっと、あなたのことを……」
言葉を選ぶように、
何度も喉で止めながら、
それでも告白は形になっていく。
視線は床に落ちたまま。
逃げ場を探すような仕草。
高杉は、短く息を吐いた。
「……悪いが」
顔を上げ、
はっきりと言う。
「その気はねぇ」
拒絶は、簡潔で、迷いがなかった。
ユリは、その場で動きを止める。
数秒。
それが、数分にも感じられる沈黙。
そして――
「……あ、あは……」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
「そう……そうよね……」
笑いは次第に歪み、
肩が小刻みに揺れ始める。
「分かってたの……」
声は笑っているのに、
目は笑っていない。
「でも……でも……」
ユリは、ふらりと一歩下がり、
机の引き出しに手を伸ばした。
高杉は、その動きに違和感を覚える。
「おい――」
制止の声より早く、
ユリの手には、鈍く光る刃物が握られていた。
「……大丈夫です」
にっこりと、
不自然なほど穏やかな笑顔。
「だって、これで……」
一歩、前へ。
「全部、綺麗になりますから」
次の瞬間――
高杉の視界の端で、
ユリの身体が大きく揺れた。
刃が振り下ろされる。
音は、なかった。
ただ、
制服に広がる赤と、
力を失っていく足。
「……っ!」
高杉は、一歩後ずさる。
「やめろ……!」
届かない声。
ユリは、何度も、
自分自身へ向かって動きを繰り返し、
やがて、膝から崩れ落ちた。
床に倒れた身体は、
ぴくりとも動かない。
教室に広がるのは、
異様な静けさ。
朝の光だけが、
その光景を、
無慈悲に照らしていた。
高杉は、
後ろへ、後ろへと下がる。
背中が壁に当たり、
それ以上、逃げ場はない。
「……くそ……」
喉が、ひくりと鳴る。
視線を逸らしたくても、
逸らせない。
そこには――
確かに、
命が途切れたはずの存在が、
横たわっていた。
そして、
世界は、
また――
静かに、
歪み始める。
一方、その頃。
文芸部の教室の片隅――甘い匂いが立ちこめる一角で、ナツキと坂本はカップケーキの最終準備をしていた。
トレーに並べられた色とりどりのカップケーキ。
クリームの形、トッピングの位置、ナツキは一つ一つを真剣な目で確認していく。
「……よし」
そう呟いてから、ナツキはふっと顔を上げた。
「ねぇ、坂本」
いつもより少し低い声。
「なんで、土曜日……家に来てくれなかったの?」
坂本の手が、一瞬止まる。
甘い匂いの中で、ナツキの視線が坂本から離れなくなった。
「……ねえ」
低く、粘つくような声。
「来てくれなかったの」
一歩、距離が詰まる。
「来てくれなかったの、ねえ?」
坂本は言葉を探す。
「それは、さっきも――」
「来てくれなかったの」
被せるように、同じ言葉。
「……あの女と、居たの?」
空気が、凍った。
坂本の背筋に、冷たいものが走る。
――思い当たる節が、あった。
土曜日。
ユリに「手伝ってほしい」と呼ばれ、
深く考えずに応じてしまった、あの時間。
説明できる。
だが、
今この瞬間、
正しい言葉を選べる気がしなかった。
「……違う」
やっと絞り出した声は、弱かった。
ナツキの口元が、歪む。
「やっぱり」
「やっぱり私は、愛されない」
拳が、ぎゅっと握られる。
「ユリの、どこがいいの?」
感情が、溢れ出す。
「静かで、暗くて、
すぐ泣きそうで……」
「私の方が、
ちゃんとできるのに!!」
声が、震え、
次第に大きくなる。
「料理だって!
本だって!
部活だって!」
「全部、私の方が上手くやれる!!」
坂本は一歩、後ろへ下がった。
否定したい。
守りたい。
だが、
言葉を重ねるほど、
彼女を追い詰めてしまう気がして、
喉が、固まる。
「……ナツキ」
名を呼ぶ。
その瞬間、
ナツキの目が、
一瞬だけ、揺らいだ。
怒りと不安と、
置いていかれる恐怖が、
ごちゃまぜになった色。
「……私、ちゃんとやってるでしょ」
声が、急に小さくなる。
「なのに……」
言葉は、そこで途切れた。
教室の外から、
文化祭の開始を告げるアナウンスが流れる。
明るい音楽。
歓声。
世界は、
何事もないように前へ進む。
だがその一角で、
坂本は理解していた。
――ここもまた、
静かに、
壊れ始めている。
その瞬間――
ナツキの目に、黒いノイズが走った。
テレビの砂嵐のような、
存在してはいけないはずの歪み。
「……っ」
ナツキは顔を歪め、
両目を押さえる。
次の瞬間、
その指の隙間から、
赤い雫が、ぽた、と床に落ちた。
――涙だった。
だが、
それは決して、
普通の涙の色ではない。
「なんで……」
声が震える。
「なんで……なんで……」
赤い涙が、
頬を伝い、
顎から落ちていく。
「なんで、なの……」
同じ言葉を、
壊れたように繰り返す。
坂本は、
その異常な光景に息を呑み、
思わず一歩踏み出した。
「ナツキ……!」
絞り出すような声。
「すまん……!」
理由も、
正解も、
分からないまま、
ただ謝罪だけが口をついた。
坂本は、
震える彼女の肩に、
そっと手を伸ばす。
――その瞬間。
走る、
鋭い痛み。
「……っ!?」
反射的に手を引き、
坂本は後ろへ跳ね退いた。
手の甲に、
焼けるような感覚。
視線を落とす。
そこには――
現実ではありえない、
歪んだ光景があった。
指先から腕にかけて、
まるでデータが崩れるように、
黒いノイズと、
赤い亀裂が走っている。
皮膚が、
現実と非現実の間で、
ちらついていた。
「……なんだ、これ……」
声が、
震える。
理解できない。
理解してはいけない。
だが、
確かに――
この世界は、
人の感情に触れた瞬間、
壊れる。
坂本は、
後ずさりながら、
ナツキを見る。
ナツキは、
赤い涙を流したまま、
こちらを見ていた。
その目には――
もう、
助けを求める色すら、
残っていなかった。
赤い涙を流したまま、
ナツキは、ふらりと一歩、前に出た。
その瞬間――
「……?」
首が、
不自然な角度で、
かくりと傾いた。
音がした。
乾いた、
折れるような音。
坂本の呼吸が、止まる。
ナツキは倒れない。
まるで、
何かに支えられているかのように、
立ったまま、
こちらへ手を伸ばしてくる。
指先が、
空を掴む。
「……なんで……」
掠れた声。
「なんで……」
坂本は、
後ずさる。
足が、
床に引っかかり、
よろめいた。
触れられてはいけない。
本能が、
そう叫んでいた。
――その時。
ドン、
という鈍い音が、
教室の奥から響いた。
別の方向。
高杉のいるはずの、
飾り付け用の教室。
何かが、
倒れた音。
二つの異常が、
同時に、
重なった。
坂本は、
震える視線を、
奥へ向ける。
世界が、
一瞬、
止まったように感じた。
文化祭の喧騒は、
遠く、
水の底に沈んだみたいに、
歪んで聞こえる。
――これは、
偶然じゃない。
坂本は、
確信する。
この世界は、
今、
同時に、
壊れている。
一方――高杉のいる教室。
床に、赤い水たまりが広がっていた。
さっきまで、
飾り付けの色や配置を確認していた場所。
紙飾りも、
リボンも、
途中で時間が止まったように散らばっている。
高杉は、動けなかった。
足が、
床に縫い止められたみたいに、
一歩も前に出ない。
頭の中で、
さっきの言葉が、
何度も反響する。
――拒んだ声。
――背を向けた視線。
「……俺が……」
喉が、
乾いた音を立てる。
自分の一言で、
ここまで――
考えきる前に、
教室の扉が、
軋む音を立てて開いた。
「……高杉」
銀時だった。
一歩、
中に入った瞬間――
銀時の表情が、
凍りつく。
視線が、
赤い床に落ち、
そして、
その先へ。
一拍。
「……っ」
息を詰めたまま、
銀時は口元を押さえた。
次の瞬間、
堪えきれず、
教室の外へ駆け出す。
廊下に、
苦しげな音が響いた。
高杉は、
それを止めることも、
声をかけることもできない。
ただ、
立ち尽くしたまま、
理解していた。
――銀時は、
別の“朝”を、
思い出してしまったのだと。
サヨリ。
二度と戻らないはずの光景が、
ここで、
重なってしまったことを。
文化祭の音楽が、
遠くで鳴っている。
それが、
この教室とは、
まったく別の世界の出来事のように、
響いていた。
廊下の角。
混乱の中心から少し離れた場所で、
モニカは立ち止まっていた。
「……ここまで、
こんな酷いことになるとは……」
声は低く、
誰に向けたものでもない。
その隣で、
桂は眉をひそめる。
「何の話だ」
答えは返らない。
モニカは視線を前に固定したまま、
小さく息を吐いた。
「……想定外、ね」
そして、
まるで独り言のように、
はっきりと言った。
「これで……後は、
ナツキのゲームファイルを消すだけ」
桂は、その言葉の意味を掴めず、
ただ立ち尽くす。
モニカは、
ポケットから取り出した何かを、
指先で操作した。
画面は見えない。
だが、
確かに――
“何か”が実行された。
――同時刻。
カップケーキの並ぶ教室。
坂本の目の前で、
ナツキの輪郭が、
不自然に揺らいだ。
「……?」
色が、
抜け落ちる。
輪郭が、
崩れる。
まるで、
存在そのものが、
削除されていくように。
「ナツキ……?」
伸ばした手が、
何も掴まない。
「ナツキ!!」
叫びは、
空間に吸い込まれ、
返事はない。
次の瞬間――
彼女の姿は、
完全に消えた。
そこに残ったのは、
甘い匂いと、
床に並ぶカップケーキだけ。
坂本は、
呆然とその場に立ち尽くす。
「……嘘じゃろ……」
誰も答えない。
世界は、
何事もなかったかのように、
文化祭の音を鳴らし続けている。
だが確かに――
また一人、
“存在”が、
消された。
「……これで、邪魔者は居ない」
モニカは、淡々と言った。
感情の起伏はない。
ただ、処理を終えた後の、静かな声。
桂が一歩、前に出ようとする。
「待て。今のは――」
言葉は、途中で途切れた。
視界が、
一瞬だけ、
暗転する。
足元の感覚が消え、
床も、壁も、
どこにあるのか分からなくなる。
――次の瞬間。
四人は、
暗い教室に立っていた。
窓はあるはずなのに、
外の光は入らない。
机も椅子も、
影のように輪郭だけが残っている。
「……ここは」
桂が、息を詰める。
銀時は、
周囲を見渡し、
そして、
気づいた。
「……居ねぇ」
その一言で、
全員が理解する。
サヲリの席。
ユリが座っていた場所。
ナツキが漫画を広げていた床。
――どこにも、
誰も、
いない。
名前を呼んでも、
返事はない。
存在していた痕跡だけが、
薄く、
残っている気がするだけ。
「……消した、のか」
誰かが、
そう呟いた。
暗闇の奥で、
キーボードを叩くような、
規則的な音が、
微かに響く。
世界が、
ゆっくりと、
彼らだけを残して、
閉じていく。
そして――
教室の扉は、
外側から、
静かに、
ロックされた。
暗い教室の中央。
唯一、はっきりと形を保っている机があった。
その上に――
腕を顎の横で組み、
頬杖をつくようにして座る、
モニカの姿。
影の中でも、
彼女だけは鮮明だった。
「……やっと」
小さく微笑む。
「二人きり、ね」
指先で机を軽く叩き、
椅子を示す。
「座って?」
空気が、
張り詰める。
銀時は一歩、前に出た。
「ふざけんな……」
低く、
抑えきれない怒り。
「サヲリを、どこにやった!!」
教室に、
声が反響する。
モニカは驚いた様子もなく、
首を傾げた。
「サヲリ?」
一拍。
「ああ……」
思い出したように、
軽く息を吐く。
「ゲームファイルをいじったら、
ああなってしまうなんて」
「正直、予想できなかったわ」
その言い方は、
後悔ではなく、
単なる報告だった。
銀時の拳が、
強く握られる。
「……じゃあ」
声が、
震える。
「戻せよ」
一歩、
さらに踏み出す。
「ゲームファイル、
戻せ!!」
沈黙。
モニカは、
じっと銀時を見つめたまま、
微笑みを崩さない。
その視線の奥に、
この世界の“答え”があるかのように。
「……お前」
静まり返った教室で、
高杉が口を開いた。
「ユリのゲームファイルも、
いじったんだろ」
視線は、
まっすぐモニカに向けられている。
モニカは、
迷いなく頷いた。
「ええ、もちろん」
あまりにも軽い肯定。
高杉の奥歯が、
きしりと鳴る。
「……今すぐ戻せ」
低い声。
坂本も、一歩前へ出る。
「ナツキのゲームファイルを
消したのも……お前さんか?」
「ええ」
間髪入れず、
肯定。
坂本の拳が、
震える。
「……じゃあ」
「早う、戻せ」
その言葉に、
銀時も重ねる。
「戻せ!!」
教室に、
怒声が反響する。
「戻せ!!」
「戻せ!!」
三人の声が、
重なり、
同じ言葉を、
何度も、
何度も、
叩きつける。
だが――
モニカは、
微笑んだまま、
動かない。
椅子に座った姿勢も、
腕を組んだ仕草も、
一切、変わらない。
まるで、
処理待ちの画面を
眺めているかのように。
その横で、
桂は――
何も言わず、
ただ、
その光景を見ていた。
怒りも、
叫びも、
理屈も、
この場では、
意味を持たない。
そう理解しているかのように。
暗い教室に、
三人の声だけが、
虚しく残り続けていた。
モニカは、
小さく指を鳴らした。
乾いた音。
それだけで、
空間が、
一度、揺らぐ。
次の瞬間――
銀時の前に、
サヲリが立っていた。
高杉の前には、ユリ。
坂本の前には、ナツキ。
「……」
一瞬、
誰も声を出せない。
「……サヲリ……?」
銀時が、
かすれた声で呟く。
高杉も、
坂本も、
反射的に一歩、前へ出た。
「ユリ……」
「ナツキ……!」
手を伸ばそうとする。
――だが。
桂だけが、
動かなかった。
視線が、
三人の“姿”を、
慎重に追う。
その輪郭に、
ごく微かな、
ノイズ。
一瞬だけ、
像が、
揺れた。
サヲリの笑顔が、
ほんの刹那――
モニカのそれと、
重なった。
ユリの影が、
瞬きの間、
モニカの姿に変わる。
ナツキの輪郭が、
ちらつき、
同じ顔を映す。
「……」
桂は、
息を詰める。
――偽物だ。
確信に近い直感。
だが、
それを口にするには、
遅すぎた。
銀時たちは、
すでに――
“失った光景”を、
何度も、
目の前で見せつけられている。
死。
削除。
消失。
精神は、
限界まで、
削られていた。
正確な判断など、
できるはずがない。
だからこそ――
その偽りは、
あまりにも、
甘かった。
モニカは、
黙って、
その様子を眺めている。
まるで、
結果を待つ観測者のように。
暗い教室で、
真実と虚構の境界が、
音もなく、
溶け始めていた。
教室の空気が、明らかに変質していた。
モニカは机に肘をついたまま、微動だにしない。
ただ、口だけが動いている。
「Just Monika」
淡々と、感情のない声。
「Just Monika」
英語の発音が、次第にノイズを帯びる。
音程が狂い、
言葉が言葉として成立しなくなっていく。
「Just Monika。Just Monika。Just Monika……」
銀時は、目の前のサヲリへと手を伸ばした。
「……サヲリ……」
指先が、彼女の肩に触れかける。
だが――
触れた感覚は、なかった。
そこにあるはずの温度が、存在しない。
布でも、肉でもない。
ただ、空気を撫でただけのような、虚無。
高杉も、ユリに向かって歩き出す。
坂本も、ナツキの名を呼びながら、距離を詰める。
「Just Monika」
繰り返される声が、頭の奥を直接叩く。
視界が、歪む。
サヲリの輪郭が、ちらついた。
一瞬だけ――
モニカの姿に、重なる。
銀時は、その異変に気づかない。
気づける余裕が、もう残っていなかった。
高杉も、坂本も同じだ。
彼らはすでに、
“失った”という事実に心を削られ過ぎていた。
――だが。
桂だけは、動かなかった。
視線を、床へと落とす。
暗い教室の片隅。
現実とプログラムの境界が崩れた空間の中で、
一つだけ、はっきりと異質な光を放っているものがあった。
淡い緑色の、矩形。
「……あれは……」
桂は息を殺し、一歩、そちらへ踏み出す。
それは――
モニカのゲームファイルだった。
名前は、ノイズで一部欠けている。
だが、間違いない。
“Monika.chr”
モニカの声が、わずかに止まる。
「Just――」
桂は、咄嗟にそれを掴み取った。
その瞬間。
教室全体が、激しく明滅する。
机が揺れ、
椅子が、音を立てて倒れる。
「……っ!」
モニカの表情が、初めて歪んだ。
驚愕と、苛立ちと、
そして――
明確な“恐怖”。
「それに、触らないで」
声が、低く落ちる。
桂はファイルを胸元に引き寄せ、
静かに、だがはっきりと言った。
「……やっと分かったぞ」
目を細める。
「この世界の“核”は、お前だな」
モニカの周囲で、
サヲリ、ユリ、ナツキの姿が、
大きくノイズを走らせ始めた。
輪郭が崩れ、
笑顔が割れ、
そこから、モニカの顔が何度も覗く。
「Just Monika」
だがその言葉は、もう安定していなかった。
教室は、
完全に、
崩壊寸前だった。
続く
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