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ゆずき
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#子育て
都築七美
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「しのせんせぇー!」
弾むような高い声が、園内に響いた。
二月の冷たい空気が、開け放された廊下の窓からわずかに流れ込み、頬に触れる。
外では吐く息が白くなる季節だが、保育室の中は子どもたちの体温と暖房で、ほんのりと温かい。
壁には節分の鬼の面や豆入れ袋が飾られ、床に敷かれたマットの上を、裸足の子どもたちが元気よく走り回っている。奥から漂ってくるのは、給食のシチューの匂いだ。
その中心で、楠木詩乃は数人の子どもたちに囲まれていた。
「えほんよんでー」
「しのせんせ、あっち!」
三歳前後の子どもたちが、口々に甘えた声を上げながら、詩乃の手やエプロンの裾を引く。
「ふふ、順番こにしようね」
詩乃はしゃがみ込み、子どもたちと視線を合わせた。少し困ったように眉を下げながらも、自然と笑みがこぼれる。
子どもが好きで、子どもと関われる仕事がしたい。
保育士になるのが、詩乃の昔からの夢だった。
「詩乃先生が来てくれることになって、嬉しいわ」
背後から穏やかな声がして、詩乃は振り返った。
そこに立っていたのは、この保育園の園長だった。
白髪交じりの髪をきちんとまとめ、いつも柔らかな笑みを浮かべている。その佇まいはどこか温かく、この園そのもののようだった。
「園長先生がお声をかけてくださったおかげです」
詩乃はぺこりと頭を下げた。
この保育園で保育補助のアルバイトを始めてから、もう二年近くが経つ。大学の授業との両立は忙しかったが、不思議と苦にはならなかった。
詩乃は現在二十二歳、大学四年生。
卒業まで、あとわずか。
――卒業後は、この園で正規の保育士として働く。
それが、詩乃の思い描いていた未来だった。
「あら、私だけじゃないわよ」
園長は目を細める。
「他の先生たちも、みんなそう。詩乃先生のことが好きだから。大学卒業が待ち遠しいわね」
「ありがとうございます……」
その言葉に、胸の内側がじんわりと温かくなる。
詩乃は子どもたちへ視線を戻した。無邪気に笑う姿を見ていると、ここで働く未来の自分が自然と思い浮かぶ。
――夢を叶えるまで、あと一歩。
そう信じて疑わなかった。
この時までは。
***
楠木家の邸宅は、街を見下ろす高台に、誇示するように建っていた。
通りからでも一目で裕福な家だと分かる。必要以上に大きく、必要以上に目立つその家は、住むためというよりも、楠木家の財力を見せつけるために建てられたようだった。
ダイニングもまた、無駄に広い。
天井は高く、中央に置かれた長いテーブルには、見栄えだけを意識した料理がずらりと並んでいる。
だが、どれ一つとして湯気は立っていない。
いつ用意されたのか分からない料理は、この家の空気と同じで、すでに冷めきっていた。
父と母は横並びに座り、詩乃と果穂はその向かい側に並んでいる。顔を合わせる距離にいながら、誰も相手の表情を確かめようとはしなかった。
この家では、家族が言葉を交わす必要はない。
あるのは、楠木家としての“決定事項”だけだ。
「お前に縁談が決まった」
沈黙を破ったのは、父だった。
相談でも、提案でもない。すでに決定した事実を告げるだけの声音に、詩乃は箸を握ったまま動けなくなる。
「……え?」
「相手は綾咲の長男だ」
父――楠木弘は、詩乃の反応など必要としていないかのように淡々と続けた。
「綾咲といえば分かるだろう。うちと長年競合してきた綾咲グループだ」
弘は楠木不動産の代表取締役社長であり、金と地位を何よりも重んじる男だった。
「今、両社のホテル事業を統合する話が進んでいる。その結びつきを強固にするための縁談だ」
その言葉を聞きながら、詩乃は喉が詰まったように息を呑んだ。
結びつきだの、強固だのと、父の口から並べられる言葉のどこにも、自分の気持ちは含まれていない。
「先方からは楠木の娘を、という話でな。姉妹のどちらかという指定はない」
そう言って、弘が初めて視線を動かす。
向けられた先は――詩乃ではなく、果穂だった。
「えー、やだぁ!」
甲高い声が、空気を裂く。
楠木果穂。
詩乃の一歳下の妹は、派手なネイルをした指で口元を押さえ、心底嫌そうな顔を作った。
「だって綾咲って、あの社長の息子でしょ? どうせ父親みたいに冴えないおじさんなんでしょ」
果穂は軽蔑を隠そうともせず、それどころか、思い出したように声を弾ませる。
「それに私、ちゃんと大好きな彼いるし♡」
そう言って、勝ち誇ったように微笑む。
その隣で、母――楠木佳奈子が小さく頷いた。
「そうよ。果穂が可哀想だわ」
派手な宝石とブランド物に身を包んだ佳奈子が、今度は詩乃へ視線を向ける。
「詩乃、あなたには今、お付き合いしている方はいないのでしょう?」
それは問いかけの形をしていたが、詩乃の答えなど最初から分かっているのだろう。
――ああ、まただ。
この家では昔からそうだった。
果穂の希望が最優先で、詩乃の気持ちはいつだってその後だった。
「なら、決まりだな」
弘はあっさりと結論を出す。
「大学を卒業したら、そのまま綾咲の家に入れ」
「……っ、でも」
詩乃は必死に声を絞り出した。
「私は、保育士として働くつもりで……もう内定も出ていて……」
その瞬間、弘の表情がわずかに歪んだ。
「仮にも楠木から出す嫁が、外で働くなどみっともない。保育士なんて、誰にでもできる仕事だろう。わざわざやることじゃない」
胸を冷たい刃で抉られたような痛みが走る。
「内定先には、こちらから断りを入れておいてやる」
「そんな……!」
「詩乃」
低く、鋭い声に、詩乃の肩がびくりと震えた。
「この縁談には、楠木の将来がかかっている。お前一人の我儘で、何百人という従業員が路頭に迷ってもいいのか? その中には、幼い子どもを抱えた家庭もあるだろうな」
その言葉に、詩乃の脳裏へ浮かんだのは、つい先ほどまで自分を囲んでいた子どもたちの顔だった。
『しのせんせぇー!』
無邪気な笑顔と弾むような声を思い出し、詩乃は唇を噛みしめる。
「……分かりました」
それは、同意ではない。
ただの、降伏だった。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん!」
果穂がぱっと明るい声を出す。
「きっと、お姉ちゃんにはお似合いの人だって♡」
無邪気を装った笑顔の奥に潜む悪意に、詩乃だけが気づいていた。
コメント
1件
いやー、冒頭の保育園の温かい空気から、家での冷たい決定への落差がすごくて一気に引き込まれたわ。子どもたちに囲まれてる詩乃の笑顔がすごく自然で「ここが彼女の居場所なんだな」って思えたのに、父親の「保育士なんて誰にでもできる」発言でガツンとやられた…。果穂の「お似合いだよ♡」の奥底にある悪意にもゾッとしたし、詩乃の将来が無理やり奪われていく感じがめちゃくちゃ辛かった。次どうなるんだろう、気になるわ🔥