テラーノベル
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そうして顔合わせの日は、詩乃の意思とは無関係にやってきた。
由緒ある料亭の個室。
庭に面した広い座敷は静かで、隅々まで美しく整えられている。けれどその静けさは、詩乃には落ち着きを与えるどころか、逃げ場のなさを強調しているように感じられた。
淡い色の着物に身を包み、背筋を伸ばして座る。
向かいには綾咲家の人間が並んでおり、中央に座る年配の男性――綾咲家の当主の隣には、黒い着物姿の若い男性がいた。
思わず、詩乃は息を止める。
――綺麗な人。
それが、最初に浮かんだ感想だった。
整った輪郭に、涼しげな目元。凛とした佇まいは、隣に座る父親とはまるで似ていない。
詩乃の隣で、果穂と佳奈子が同時に身を乗り出したのが分かった。
「……全然、似てないじゃない」
果穂が小さく呟く。その声には、驚きと悔しさが滲んでいた。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきまして――」
両家の父親が形式ばった挨拶を交わす中、若い男性がふと顔を上げる。
――目が合った。
ほんの一瞬だったはずなのに、心臓が大きく跳ね、詩乃は慌てて目を逸らした。
(この人が……綾咲幸人さん)
この人と夫婦になり、人生を共にする。
そう考えてみても、まだ何一つ実感は湧かなかった。
「では、あとは若いお二人で」
形式通りの流れで席が外され、詩乃と幸人は庭に面した廊下を並んで歩いた。
昨夜の雨を残した石畳が、わずかに濡れている。
「足元が少しぬかるんでいます。お気をつけください」
先に口を開いたのは、幸人だった。
「は、はい……」
短い返事しかできず、再び二人の間に沈黙が落ちる。
やがて幸人は足を止め、詩乃へ向き直った。
「――あなたは、この結婚についてどう思っていますか?」
胸が、きゅっと締め付けられる。
弘から言われた言葉が蘇った。
楠木の将来も、何百人もの従業員も、その家族も、自分一人の都合で犠牲にすることなど詩乃にはできない。
「この縁談が、両家の発展に繋がるのであれば……光栄に思っております」
それは本心ではない。
けれど、嘘とも言い切れなかった。
幸人はわずかに目を伏せる。
「……そうですか」
どこか興味を失ったような表情に、親の言いなりの女性だと思われたのだろうかと、詩乃の心が小さく沈んだ。
その時だった。
「――わっ」
小さな影が走り込んできて、詩乃にぶつかった。
幼い子どもが勢いよく尻もちをつき、何が起きたのか分からない様子で瞬きをしたあと、その顔をくしゃりと歪ませる。
「うわぁぁん!」
詩乃は反射的にしゃがみ込み、着物が汚れるのも構わず子どもを抱き起こした。
「大丈夫? びっくりしたね」
優しく声をかけながら、膝についた土を払ってやる。
「直哉! うちの子がすみません……!」
やがて母親が駆け寄り、何度も頭を下げて子どもを連れていった。
詩乃は、泣きながら何度も振り返る子どもへ小さく手を振る。
その様子を、幸人は黙って見ていた。
「……子どもが、好きなんですか?」
不意に聞かれ、詩乃は顔を上げる。
「はい。好きです」
今度は、自然に笑えた。
その瞬間、幸人の表情がわずかに柔らいだ――ように見えた。
何かを言いかけた、その時。
「綾咲さーん」
甘えた声が割り込んだ。
振り向くと、果穂がこちらへ歩いてきている。
「私も、お話ししたくって。ね、お姉ちゃん。いいよね?」
「……う、うん」
ろくに返事を待つこともなく、果穂は幸人の前へ立った。
「綾咲さんって、すごく素敵ですね。正直、驚いちゃいましたぁ」
――始まった。
詩乃は、どこか冷めた気持ちでそう思った。
果穂はいつだって、“奪う側”なのだから。
幸人はちらりと果穂へ視線を向ける。
「……はあ」
それ以上話を広げる気がないことは明らかだったが、果穂は気にも留めない。それどころか、さらに距離を詰めると、声を潜めながら上目遣いで幸人を見つめた。
「それで……一つ、提案があるんですけど。結婚するの――お姉ちゃんじゃなくて、私にしませんか?」
詩乃の胸が、きゅっと縮む。
やはり、来た。
果穂の顔には、断られる可能性など微塵も考えていない自信が浮かんでいた。それも当然なのかもしれない。これまでだって、果穂が欲しいと言ったものは果穂の手に渡り、詩乃はいつだって譲る側だったのだから。
今回もきっと――選ばれるのは、果穂。
「お断りします」
即答だった。
果穂の笑顔がぴたりと固まり、詩乃も思わず幸人を見た。
「……え?」
幸人は果穂から視線を外すと、静かに言葉を続ける。
「政略結婚である以上、楠木家の人間であれば誰でもいい。――最初は、そう考えていました」
果穂の指先が、わずかに震える。
「ですが、考えが変わりました」
幸人の視線がゆっくりと動き、まっすぐに詩乃へ向けられた。
「楠木詩乃さん」
自分の名前を呼ばれた瞬間、心臓が大きく跳ねる。
「私と、結婚していただけますか」
一瞬、周囲の音が消えたように感じた。
冗談でも、気まぐれでもない。
まっすぐに自分だけを見ている幸人の瞳が、そう告げている。
言葉を探している間にも、果穂から突き刺さるような視線を感じた。それでも詩乃は小さく息を吸い込み、震える声で答えた。
「……はい」
幸人が、わずかに目を細める。
それは、初めて見る柔らかな表情だった。
その傍らで、果穂は何も言わずに二人を見つめている。握り締められた手は、爪が掌へ食い込むほどに強い。
詩乃を見つめるその瞳には、隠しきれない憎悪が滲んでいた。
コメント
1件
わあ…このエピソード、すごく刺さりました。 詩乃が小さな子どもをかばったときの、無意識のやさしさが「好きです」って自然に笑えた瞬間、あそこで幸人の目が変わった感じがして。果穂にあっさり「お断りします」って即答するところ、めちゃくちゃ胸がすいたよ……今まで詩乃がずっと譲ってきた人生だったからこそ、選ばれた意味が重い。 果穂の最後の憎悪の視線も怖くて、次が気になって仕方ない。また読みにきます🌙
12
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ゆずき
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#子育て
都築七美
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