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『嫌だ、行かないで』
翌朝。
午前六時五十五分。
みすずはベッドの端に座っていた。
ほとんど眠れていない。
心臓がずっと、早鐘のように鳴っていた。
今日。
今日、逃げる。
怖い。
手も震えている。
それでも。
帰りたい。
その気持ちだけは、変わらなかった。
やがて。
廊下から足音が聞こえてくる。
カツ、カツ、カツ。
みすずは息を整えた。
コンコン。
「みすず。朝ごはん」
「……うん」
扉が開く。
「おはよう」
いつものなぎ。
いつもの笑顔。
いつもの朝。
なぎはトレーを持って、部屋へ入ってくる。
「ちゃんと寝れた?」
「……まあまあ」
「そっか」
なぎが机に朝食を置く。
その瞬間。
みすずはポケットを見た。
鍵。
昨日と同じ場所。
――今。
今しかない。
「なぎ」
「ん?」
「これ、落とした」
みすずは机の上のペンを床へ落とした。
カラン。
「拾ってくれる?」
「いいよ」
なぎがしゃがむ。
その瞬間。
みすずの手が伸びた。
ポケットへ。
指先が鍵に触れる。
あと少し。
あと少しで――。
「……みすず」
「……!」
低い声。
みすずの手首を、なぎの手が掴んだ。
「何してるの?」
「……っ」
みすずは固まった。
なぎは怒っている。
そう思った。
けれど。
違った。
なぎの手が震えていた。
「……鍵?」
「……」
「僕の鍵、取ろうとした?」
「……ごめん」
「なんで?」
「……帰りたいから」
その言葉を聞いた瞬間。
なぎの表情が変わった。
「……帰る?」
「うん」
「どこに?」
「僕の家」
「……嫌だ」
なぎの声が震える。
「嫌だ……」
「なぎ?」
「帰らないで」
「……」
「みすず、いなくならないで」
呼吸が速くなっていく。
「なぎ、大丈夫?」
「……っ、は……」
なぎは胸元を押さえた。
息がうまく吸えない。
「待って……」
「なぎ!」
「……っ、はぁ……っ」
肩が激しく上下する。
目には涙が浮かんでいた。
「みすずが……逃げる……」
「俺はここにいる」
「……でも……」
「今はいるから」
「また……いなくなる……」
なぎはその場にしゃがみ込んだ。
「嫌だ……」
その声は。
今まで聞いたことがないくらい弱かった。
「僕……みすずがいなくなったら……」
言葉が途切れる。
息が苦しくて、うまく話せない。
「……僕、一人になっちゃう」
みすずは黙った。
いつも自分を閉じ込めて。
何を考えているのか分からなくて。
余裕そうに笑っているなぎ。
そんななぎが。
今は、壊れそうになっている。
「なぎ」
「……っ」
「俺のこと見て」
なぎがゆっくり顔を上げる。
涙で目が赤くなっていた。
「大丈夫」
「……ほんと?」
「うん」
みすずはしゃがみ込む。
そして、震えているなぎの手をそっと握った。
「俺は今、ここにいる」
「……」
「ちゃんと見てるから」
なぎの指が、みすずの手を弱く握り返す。
「……みすず」
「ゆっくり息して」
「……できない」
「じゃあ、俺に合わせて」
みすずはゆっくり息を吐く。
「……ふぅ」
なぎも真似をする。
「そう」
「……っ、ふ……」
「もう一回」
「……ふぅ……」
何度か繰り返す。
少しずつ。
なぎの呼吸が落ち着いていく。
握っていた手にも、少しだけ力が戻ってきた。
「……みすず」
「ん?」
「手……離さないで」
「……うん」
「もう少しだけ」
「分かった」
みすずはその手を握ったままにした。
しばらくして。
なぎが小さく呟く。
「……怖かった」
「うん」
「みすずがいなくなるって思ったら……息ができなくなった」
「……」
「僕、変だよね」
「……ちょっと変かも」
「ひどい」
なぎが涙の跡を残したまま、ほんの少し笑った。
みすずも小さく笑う。
「でも」
みすずは続けた。
「今のなぎは、嘘ついてるようには見えない」
「……」
「本当に怖かったんだろ?」
「うん……」
「だったら、少なくとも今はここにいる」
「……うん」
なぎは握った手を見つめた。
「みすず」
「何?」
「僕のこと……嫌い?」
みすずは少しだけ考えた。
「……嫌いになりたい」
「……」
「だって、俺を閉じ込めてるから」
なぎの目が伏せられる。
「でも」
みすずは続けた。
「今みたいな顔をされたら……完全には嫌いになれない」
なぎが顔を上げる。
「……ほんと?」
「うん」
「じゃあ……僕のこと、少しは好き?」
「それはまだ分からない」
「そっか」
なぎは寂しそうに笑う。
けれど。
さっきよりずっと穏やかな顔だった。
「……ありがとう」
「何が?」
「手、握ってくれて」
「……別に」
「僕、嬉しかった」
なぎはみすずの手を見つめる。
「だから……もう一つだけお願いしていい?」
「何?」
「今日は……逃げないで」
みすずは黙った。
「今日だけでいい」
「……」
「今日だけ、僕のそばにいて」
みすずはなぎを見る。
逃げたい。
帰りたい。
その気持ちは変わらない。
それでも。
今だけは。
「……分かった」
そう答えた。
なぎの目から、また涙が一粒落ちた。
「ありがとう、みすず」
その日。
みすずは逃げなかった。
けれど。
それは、諦めたからではない。
なぎを許したからでもない。
ただ。
自分を閉じ込めているこの少年が。
初めて見せた弱さを。
見なかったことにできなかったから。
そして、なぎも。
初めて知った。
みすずを閉じ込めておくだけでは。
本当にそばにいてもらえるわけじゃないことを。
二人の間にあったものが。
ほんの少しだけ。
「恐怖」から「信頼」へ変わり始めていた。
コメント
1件
ああ、この回……胸がぎゅっとなりました……。 なぎの「帰らないで」があんなに切実な声で聞こえてきて、息が止まるかと思いました。普段は余裕ぶってる彼が、初めて見せる弱さ、震える手、うまく息が吸えない様子。それに対してみすずが「俺に合わせて」と呼吸を整えてあげるシーン、すごく好きです。支配と監禁の関係だった二人が、初めて「恐怖」じゃない何かで繋がった気がしました。 「嫌いになりたい」って言いながら、手を離さないみすずの気持ち、とてもリアルで切なかったです。 続き、どうなっていくんでしょう……気になります。