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NARI
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放課後。
窓の外にはまだ柔らかな春の日差しが残り、部屋には部活へ向かう生徒たちの声が遠く響いていた。
美術部の片付けを終えた菊は、鞄を肩に掛けたまま、何度目かのため息を飲み込む。
――今日も来ない。
いつもなら。
運動部の練習を終えたヨンスが、校舎のどこかから、
「菊ー、帰るんだぜ!」
そんな声を響かせながら迎えに来る時間だった。
けれどここ数日、ヨンスは来ない。
昼休みも、以前ほど絡んでこなくなった。
話しかければ普通に返す。だが、どこか距離がある。
原因に、菊は心当たりがあった。
先週。
図書委員の仕事で一緒になった別クラスの男子と、少し話し込んでいた時だ。
あの日、迎えに来たヨンスは妙に機嫌が悪かった。
「帰るんだぜ」
「すみません、今日はこのあと用事が」
「…ふーん」
それだけ。
それだけだったのに。
そこから少しずつ、空気が変わった。
「………」
菊は静かに席を立つ。
教室を出て昇降口へ向かう。
すると、窓際に見慣れた後ろ姿を見つけた。
ヨンスだった。
スマホをいじりながら、壁にもたれている。
菊は足を止めたあと、ゆっくり近づいた。
「ヨンスさん」
呼びかけると、ヨンスが顔を上げた。
「あ」
その反応が妙によそよそしくて、胸がざわつく。
「…帰らないんですか」
「帰る」
「そうですか」
会話が続かない。
前はもっとどうでもいい話をしていたのに。
沈黙が気まずくて、菊はぎゅっと鞄の持ち手を握った。
そして。
「最近、避けてませんか」
ぽつりと聞く。
ヨンスの眉がぴくりと動いた。
「別に」
「別に、には見えません」
「考えすぎなんだぜ」
目を逸らしたまま言う。
その態度に、菊は少しだけむっとした。
「…何か気に障ることをしたなら言ってください」
「してないんだぜ」
「ならどうして」
「だから別に――」
言いかけて、ヨンスが口を閉じる。
数秒の沈黙。
やがて、小さく舌打ちした。
「…あの男」
「え?」
「図書室のやつ」
菊は瞬きをした。
「なんであいつとあんな楽しそうだったんだぜ?」
「は?」
「しかも『今日は先約がありますので』みたいな」
真似をするように言われて、菊は目を丸くした。
――そんなことで?
そう思ったのに。
心臓が妙にうるさい。
ヨンスは不機嫌そうに眉を寄せたまま続ける。
「いつも俺と帰ってたじゃん」
「…帰ってましたね」
「なのに急に他のやつ優先されると、なんか…調子狂うんだぜ」
最後だけ少し声が小さくなった。
菊はその横顔を見る。
不貞腐れたみたいな顔。
けれど、その奥にある感情が分からなくて、胸がざわついた。
「…私は」
気付けば、言葉が漏れていた。
「あなたと帰る時間、結構好きだったんですが」
その瞬間。
ヨンスが固まった。
「…え」
しまった、と思った時には遅かった。
顔が熱い。
なぜこんな言い方をしたのか、自分でも分からない。
だがヨンスは、冗談も言わなかった。
ただじっと菊を見ている。
窓から差し込む春の日差しが、その黒い瞳に映っていた。
「…菊」
名前を呼ばれる。
やけに真面目な声だった。
「俺さ」
ヨンスが、少しだけ視線を逸らす。
こんなふうに言葉を探している姿を、菊は初めて見た。
「なんか最近ずっとイライラしてて」
「…はい」
「菊が他のやつといると嫌で」
「……」
「でも意味わかんなかったんだぜ」
ヨンスは困ったみたいに笑った。
「今わかった」
その瞬間、菊の心臓が大きく跳ねる。
昇降口にはもうほとんど人がいない。
遠くから部活動の声が聞こえてくる。
なのに、そこだけが妙に静かだった。
「…俺、菊のこと」
ヨンスが言葉を区切る。
そして、珍しく逃げるみたいに視線を逸らしたまま言った。
「友達じゃ足りないみたいなんだぜ」
どくん、と耳の奥で音が鳴る。
菊は何も言えなかった。
顔が熱い。
言葉が出ない。
沈黙が落ちる。
ヨンスの表情が少しずつ不安そうに曇っていく。
「あー…その、今の忘れて――」
「…私もです」
小さな声だった。
けれど、確かに届いた。
ヨンスが息を止める。
「え」
「だから…」
菊は俯いたまま、ぎゅっと鞄を抱えた。
「友達のままでは、嫌です」
言ってしまった瞬間、恥ずかしさで消えたくなる。
だが次の瞬間。
「……っはは」
頭上で、ヨンスが笑った。
いつもの騒がしい笑い方じゃない。
安心したみたいな、力の抜けた笑いだった。
「よかった……」
「な、何がですか」
「振られるかと思ったんだぜ…」
その声が情けなくて、菊は思わず吹き出しそうになる。
そして次の瞬間。
そっと制服の袖を引かれた。
見ると、ヨンスが少し照れくさそうに笑っている。
「…じゃあこれからは」
「?」
「堂々と一緒に帰れるな」
菊は数秒黙ってから、静かに笑った。
「今までも十分堂々としていたでしょう、あなたは」
「あ、それもそうなんだぜ」
昇降口を出ると、外はもう薄暗かった。
春先の夕方は風が少し冷たい。
付き合うことになった。
――なった、はずなのだが。
「………」
「………」
並んで歩きながら、二人とも妙に静かだった。
さっきまで普通に喋っていたのに、今は互いに何を話せばいいのか分からない。
ヨンスがちらちらこっちを見ているのは分かる。
菊も気になってしまって落ち着かない。
やがて耐えきれなくなったみたいに、ヨンスが口を開いた。
「…なんか変な感じなんだぜ」
「…はい」
「急に彼氏?」
「声に出さないでください!」
反射的に言い返してから、菊はさらに顔を赤くした。
ヨンスが吹き出す。
「いやでも菊、照れすぎ」
「誰のせいですか」
「俺か」
妙に嬉しそうだ。
その顔を見ていると、菊まで調子が狂う。
今までと何が変わったわけでもないはずなのに。
隣を歩く距離も。
帰り道も。
コンビニに寄る流れも。
全部いつも通りなのに、“恋人”という言葉が乗った途端、ひとつひとつを意識してしまう。
自動ドアが開く。
店内の明るい音楽が流れた。
「菊、今日なんか買う?」
「…お茶だけで」
「また?」
「いつも通りです」
そう言って棚に手を伸ばした瞬間。
ほぼ同時に、別の手が同じペットボトルに触れた。
「あ」
ヨンスだった。指先がかすかに触れる。
それだけで、心臓が跳ねた。
「………」
「………」
妙な沈黙。
ヨンスが先に視線を逸らした。
「…なんか今の、やばくない?」
「いちいち反応しないでください…」
小声で返しながら、菊は逃げるように商品をカゴへ入れた。
絶対に顔が赤い。
レジを済ませ、いつもの店横のベンチへ向かう。
ヨンスは肉まんを買っていた。
「はい」
ベンチに腰掛けた後すぐに、自然な動きで肉まんを差し出される。
菊は受け取りかけて、止まった。
「今日は半分こ」
「……」
「あ、お金足りなかったとかじゃないんだぜ!?
……彼氏っぽいことしたくなった」
ぶふっ、と菊は危うくむせそうになった。
「あなたは本当に…!」
「な、なんだぜ」
「急にそういうこと言うのやめてください…!」
「でも本当に彼氏だし〜…」
その一言が致命傷だった。
菊は完全に黙り込む。
ヨンスはそんな反応を見て、肩を震わせながら笑っていた。
「菊かわいーんだぜ!」
「うるさいです」
「顔真っ赤だし」
「あなたもですよ」
言い返すと、ヨンスがぴたりと止まる。
そして数秒後、ぼそっと言った。
「…やっぱり?」
その声が思ったより弱くて。
菊は思わずヨンスを見る。
いつもならもっと自信満々なのに、今は少しだけ不安そうだった。
「…なんですか」
「いや、その」
ヨンスは肉まんの袋をいじりながら目を逸らす。
「付き合えたの、嬉しすぎて」
「………」
「なんか今日、俺ずっと変」
菊は瞬きをした。
それから、ふっと小さく笑う。
「…実は、私もです」
ヨンスが顔を上げた。
「マジか」
「マジです」
「うわ、なんかそれ嬉しいんだぜ…」
へにゃっと崩れるみたいに笑う。
その顔を見た瞬間、菊の胸がじんわり熱くなった。
――ああ。
好きだな、と。
今さらみたいに実感する。
すると次の瞬間。
「なあ菊」
「なんですか」
「手、繋いでみる?」
菊は固まった。
「……は?」
「恋人っぽいかなって」
ヨンスは少し照れた顔のまま右手を差し出している。
断ればいい。
そう思うのに。
断りたくない。
しばらく迷ったあと、菊は観念したように小さく息を吐いた。
「…少しだけですよ」
「うん」
次の瞬間、ぱっと手を掴まれる。
思ったよりずっと温かい。
その熱にまた顔が赤くなって、菊は俯いた。
すると隣で、ヨンスがやたら機嫌よさそうに笑う。
「菊」
「…なんですか」
「明日からも毎日一緒に帰ろうな」
その言葉があまりにも自然で。
菊は小さく笑って、「…はい」と答えた。
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