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本来はこの船と同じ方舟があと九隻あるはずだった。だがそれは何年も前までの話だ。
この船に乗る際、徹底的な除菌・滅菌が行われた。物に限らず、人もあらゆる検査の陰性を証明しなければならなかった。
船の中という密室で、一番危険なのが感染症だったからだ。
神経をすり減らすような対策をしたにも関わらず、出港からあまり日が経たない内に二隻の船が航行不能になった。
船の中で流行った病によるものだった。
それからも機械の故障などによる食料不足や飲料不足、そして酸素濃度の低下などが度々起こり、結局十隻あった船がその半分にまで減った。
残った船とかろうじて取っていた連絡も、衛星通信の不調により何年か前に途絶えていた。
そういう事情もあり、この船が他の船に会うのは、出港してから初めての事だった。
「お、真子。お前も来たのか」
食堂に行くと集まる人の中に灯の姿があった。
「うん、目が覚めちゃって」
「まぁそうだよな、こんなに騒がしいんじゃ」
皆の顔に不安の色が表れている。状況も分からずに戸惑っているのだろう。
「号長は?」
「上の連中と対策を話し合ってるよ」
上の連中というのは、この船を組織している運営グループのメンバーの事で、要するに号長の部下達の事だ。
「対策ってどういうこと?」
真子が聞くと灯が真子の耳元に顔を寄せた。
「ここだけの話、その船、遭難信号の旗が出ているらしい」
「え……」
真子も一度だけ見た事がある。授業の中で見たその旗を、真子は出来ることなら一生使わないでいいようにと願った。
その旗を掲げているという事は、中で何か問題が起きているという事だった。
「皆さん、少し耳を傾けていただけますか」
食堂に入ってきた号長がよく響く声でそう言った。ざわついていた視線が一点に集まる。
「こんな夜中にお騒がせしてすみません」
今までにないくらいの真剣な眼差しの号長に、真子は息を飲んだ。
「数時間前に、近くを漂流中の三号船を操舵室が確認しました。三号船には遭難信号の旗が出ています」
号長の言葉に一瞬その場に緊張が走る。
「生存者がいるかは確認出来ていません。いずれにしても夜が明けるまで状況は変わらないでしょう。今は、あらゆる可能性を考えている段階です。朝になり方針が決まり次第、すぐに皆さんにお伝えするので、今は部屋に戻って休んで下さい……」
「…………真子……真子!」
灯の声に顔を上げると、集まっていた人達がもう部屋に戻りだしていた。
「あ、ごめん。ボーッとしてた」
「しっかりしろよ」
「うん……」
「俺達も部屋に戻ろう。号長があー言ってんだから、朝まで待とう」
「そうだね……」
部屋に戻り再びベッドに入った真子だったが、中々眠りにつくことは出来なかった。
頭では理解していたつもりでも、いざ近くに航行不能の船があって、その中に人がいるんだと思うと、胸を掴まれたように苦しくなった。
その現実は、いつか真子達に起こる未来かもしれないのだから。
夜が明ける頃にやっと眠りにつけた真子が目を覚ましたのは、すでに十時を過ぎた頃だった。
時計を見て慌てて飛び起きる。
幸い今日は学校は休みだ。昼まで寝ていても構わないのだ。
だがそういうわけにもいかなかった。
逸る気持ちを抑えながら真子は部屋を出た。
「遥姉!」
昨晩のように食堂に行くと遥季の姿があった。
「あ、真子……」
「私、今起きたところで全然話聞いてないんだけど、あの後どうなったか知ってる?」
『遥季さん! 号長が呼んでます!』
真子の話を遮るように、遠くから遥季に声が掛かった。
「今行く」
遥季はそう言ってから真子の方を見た。
「ごめん、真子、アタシ行かなきゃ。話は灯から聞いて、あいつが全部知ってるから」
「あ、うん、分かった……」
真子がそう言い終わる前に遥季は号長室へと足早に歩いて行った。
今まで感じた事のない嫌な予感がした真子は灯を探して船を走り回った。
屋上までの階段を駆け上がり、やっと灯を見つけた。
「真子! どこにいたんだよ!」
「灯こそどこにいたの!」
「俺はお前を探してたんだよ」
「私も灯を探して……」
緊張と息が上がったので心臓がバクバクする。
「ねえ、何があったの? 遥姉が灯に聞けって……」
「それが…………」
灯の表情が曇る。嫌な予感が当たったんだと真子は思った。
「遥姉があの船に乗り込むって……」
灯の言葉に真子の目の前は真っ暗になった。
本来、危機管理的な立場から他の船との接触は禁止されている。万が一、病気を持ち帰ったりしたら共倒れになるからだ。
それに、機械で空気を作っているこの船を出たら、すぐに呼吸すらままならなくなるかもしれない。外でどれくらい息が出来るのかは行ってみないと分からないのだ。
もし向こうの船に行ったなら、もうこの船には戻って来られないかもしれない。
「何で? 遥姉だけ? 号長は何て言ってるの?」
真子は灯を責め立てるように不安をぶつける。
「一旦落ち着け」
「落ち着いてなんかいられるわけないじゃん!」
灯の言葉を遮るように真子は大きな声を出した。
何も悪くない灯を責めてしまった事と、大切な人を失うかもしれない恐怖で、真子の目に涙が溢れた。
「……ごめん…………」
「いや、俺は大丈夫……」
しゃがみ込んだ真子の背中に温かい手が触れた。
真子は言葉じゃない優しさを肌で感じ、余計に胸が苦しくなった。
「号長は反対したんだ……」
「え……?」
「でも遥姉は、中に生きてる人がいるかもしれないのに放っておけないって引かなくて……」
そうだ。遥季はそういう人だった。強くて正しくて真っ直ぐで。
真子はそういう遥季が大好きだった。
「でもそれじゃ、遥姉はもうこの船に戻って来れないかもしれないじゃん……」
「号長も遥姉にそう言ったんだ。でも、それでも構わないから行かせてほしいって……」
「いつ…………いつ行くの……?」
涙で掠れた声で真子は尋ねた。
「すぐにでも行きたいって遥姉は言ってたけど……」
それならば急がなければならない。
真子は足に力を入れて立ち上がった。
「私、遥姉のとこ行ってくる」
「え……」
「早く行かないと……一生後悔するかもしれないから」
「分かった。じゃあ俺も行く」
灯が真子の目を見た。
真子はその目を見て深く頷いた。
「遥姉!」
医務室を訪ねると、遥季がバッグに医療品を詰めている所だった。
「二人とも、船の中を走ると危ないでしょ」
息の上がった真子達を背中に、遥季は手を休めない。
「だって…………」
「アタシの両親も医者だったんだ」
「え……」
遥季の口から家族の話が出たの初めてだった。
「開業医だったんだけどさ、休診日とか夜中だとかそういうの全然当てにならなくて、いつも患者さんの為に一生懸命だった」
真子と灯は黙って遥季の話を聞く。
「きっとそんな影響だろうね。アタシもこの船に乗って同じ道を進んだ。昔は親が年中仕事ばっかりで嫌だと思ってたのに、結局アタシもこんなだよ」
遥季が少し寂しそうに笑った。
「今、すぐ目の前に助けられるかもしれない命があるのに黙って見てるなんて、そんなんじゃ両親に顔向け出来ない」
遥季が振り返って真子の目を見る。
「ごめん、真子。でも、アンタももう子供じゃない。この船を頼んだよ。もちろん灯もね」
「…………いやだ……」
頭が動くより先に口が動いていた。
「え?」
「そんなのいやだよ! 何で遥姉だけなの? 私だって誰かの役に立ちたい。あの船に乗ってる人の為にも、遥姉の役にだって立ちたい!」
「ありがとう。その言葉だけで十分だよ」
「ダメ、私も行く」
遥季と灯の目が驚いたようにこっちを見る。
「お願い、私も連れて行って!」
「そんなの出来るわけないでしょ!」
「真子、お前何言ってんだよ!」
遥季も灯も大きい声を出す。
「何で?」
「何でって、危ないでしょ」
「それは遥姉だって同じでしょ」
「アタシはもう大人だし、覚悟がある」
「私ももう子供じゃないって、さっき遥姉が言ったんじゃん! それに覚悟もある! 結局、遥姉は私の事、役に立たない子供としか見てくれてないんだよ」
「そんな事は……」
真子の言葉に遥季の語気が弱まった。
「アタシはただ……アンタ達に生きていて欲しいんだよ……他の誰よりも、アンタ達だけは守りたいんだよ……」
遥季の目が潤んでいる。
「ごめん、遥姉……でもその気持ちは私も同じなの。もう家族を失うのは嫌……」
真子の目にも涙が浮かぶ。
「……号長に頼んでみよう」
しんとした医務室に灯の声が響いた。
「二人とも死にに行くなんてばかげてる。もちろん遥姉一人だけ行くのはもっとおかしい」
「ちょっと灯、何言ってんの?」
「三人で行こう」
「は? 灯まで何を言い出すのよ!」
「俺は機械制御の分野では二人より役に立てる」
「そりゃそうだろうけど、三人で死にに行く方がずっとバカげてる」
遥季が灯に詰め寄る。
「俺は死にに行くだなんて思ってない。死なないでいいように号長に頼むんだ」
真子は灯の言っている事が理解できずその場に固まった。