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街の中に春の兆しが芽生え始めたある日の午後、市街地の中心部である広場にほど近いアパートにあるメンタルクリニックの階段をゆっくりと昇る初老の男性がいた。
その男性の手にはシンプルな、だがその高価さを握りに被せた金具で教えてくれるようなステッキが握られていたが、ステッキをつく音と足音は規則正しいもので、そのステッキが身体の不自由を補う為のものではない事を教えてくれていた。
目的のクリニックがあるフロアにつき、額に軽く浮かんだ汗を手の甲で拭った男性は静かに廊下を進み、目の前の重厚な両開きのドアの前に立つと、上品な仕立てのコートの内ポケットに手を差し入れて変哲もない真四角の封筒を取り出して確認し、ドアノブを掴んで静かに押し開く。
「グリュース・ゴット。今日はいかがなさいましたか?」
男性がドアを後ろ手で締めた時には受付デスクの前で立ち上がり、栗色の髪を一つに束ねた余り表情のない女性が一礼をしながら問いかけてくる。
「グリュース・ゴット、フラウ」
今日はこちらのボスに用事があるのだが、アポイントは取っていない事を告げると素っ気なく頷きながらも、受付デスクから出てきた女性が本棚前のカウチに案内をすると男性の手からコートを受け取り、すぐ後ろのハンガーにコートを吊して微かに笑みを浮かべる。
「少々お待ち下さい」
一礼した後、何かを思い出したように男性の前に戻った彼女は、失礼ですがと切り出して男性のディートリヒ・アイヒェンドルフという名前を聞き出してもう一度一礼をして踵を返す。
無表情ながらもそのきびきびとした動きに男性が好ましげに目を細めて室内を見回す。
この待合室の調度品は無駄に高価ではないが、決して廉価品などは使っておらず、また大きな病院で感じる無機質さとは程遠い居心地の良い、まるで誰かの自宅のリビングのような空間を作り出している。
壁際の本棚には本が並べられているが、その種類は多岐に渡っていて、ここを訪れた患者が己の趣味に合うものを見つけ出すことが容易くなっている。
それら全てがここの主である青年医師の配慮である事をよく知っている男性は、学生の頃から全く変わっていない心を感じ取ったことに安堵し、足を組んでその上で手を組んで部屋中を見回したとき、診察室と書かれたプレートが掲げられているドアが勢いよく開いて中から顔中に驚きと歓喜を滲ませた青年が姿を見せ、初老の男性の前に大股に歩いてくる。
「お久しぶりです、アイヒェンドルフ教授。今日はどうされたのですか?」
「久しぶりだね、ウーヴェ」
初老の男性の前で久しぶりに恩師に会う事の歓喜を隠さない青年、ウーヴェのやや後ろではオルガが意外そうな色を双眸にだけ浮かべるが、久闊を叙す関係の相手だと分かった安堵から彼ら用のコーヒーの用意をする為にキッチンスペースへと姿を消す。
その背中を見送った男性が好意的に目を細め、少しこちらに来る用事があったので立ち寄った事と、相談事があるんだと笑顔で告げて立ち上がり、そんな男性と肩を並べるようにウーヴェがゆっくりと診察室へと向かう。
診察室の窓際にあるソファセットへと教授を案内した彼は、コーヒーを運んできてくれたオルガに礼を言って軽く目配せをすると、ただそれだけの動作で彼が考えている事が伝わったのか、微笑ましそうな顔で二人を見守っていた教授に礼を残して診察室を出て行く。
「今の彼女は・・・」
「先生に助手を探して欲しいとお願いしましたが、その時に採用した彼女です」
あのは本当にお世話になったと己の恩師に頭を下げたウーヴェの前ではその恩師がカップを片手にコーヒーの芳香を楽しむように目を閉じていたが、そうか、あの時の彼女は役に立っているんだねと笑い、カップを置いて彼を真正面から見つめる。
「今日は何だか春を思わせる陽気で嬉しいね」
「そうですね。暖かくなってきて過ごしやすくなってきました」
教授も奥様もお変わりはありませんかと問いかけた際、足を組み替えたアイヒェンドルフがにこりと笑みを浮かべて手を組む。
「私も妻も元気だよ。ただ・・・」
「?」
「今度企業が新しく作った病院があるのだけれどね、そちらの精神科の責任者になることが決定したよ」
ウーヴェが学生の頃からそうだったが、この教授は重要な発表があるときはそれが人の生き死にでも無い限りは嬉しそうな顔で告げていた事を思い出し、己の身の処遇を事も無げに語る教授の顔を失礼な程見つめてしまう。
「先生・・・?」
「責任者と言っても毎日の勤務ではないし、まあ一種の名誉職のようなものだな。新しい私立の病院だからね。名の通った医者が欲しいと言う事らしいが、環境も勤務予定も悪くない」
だから引き受けたよと穏やかに、それでも嬉しそうな顔で笑う教授に一つ頷いたウーヴェの脳裏に浮かんでいたのは、己が卒業した母校で後進の為に教鞭を振るっているこの教授が、学内での出世争いに巻き込まれたのではないかという危惧だった。
大きな病院や大学関係の病院に勤務すれば必ずと言っても良いほど巻き起こるこの手の類の争いが嫌でウーヴェは開業医の道を選んだのだが、己の背中を見せる事で医師として歩む道へとウーヴェを導いた人が学内の政争に巻き込まれたのだとしたらという思いから眼鏡の下で目を細めれば、そんな教え子の思考回路をすっかり見抜いているのか、アイヒェンドルフが穏やかに目を細めてゆっくりと頭を左右に振る。
「安心しなさい、ウーヴェ。そうではない」
「ならばどうしてですか?」
どうして貴方ほどの人が大学を離れるんだと問いかけ、二人の間にあるソファテーブルに手をついたウーヴェの耳に意外な言葉が流れ込む。
「・・・・・・私も妻も、そろそろ先の事を考えることが多くなってね」
この先の事を思えば色々と考えさせられたんだと告白されて目を瞠る彼に、往時を思えば皺が増えた手で頬をつるりと撫でて笑みを浮かべる。
「私もそろそろ後を譲っても良いと思えるようになった、そういうことだね」
「そんな事は・・・まだまだ・・・」
出来るのならば母校で教鞭を執って頂きたかったと俯き加減に呟くウーヴェを見守るアイヒェンドルフは、妻にも今まで負担を掛けてきたからそろそろ二人でゆっくりと何処かに旅行にも行きたいと、この先に訪れる未来を思い描いて明るい表情になって頷くと、本来の用事を思い出した様に軽く目を瞠り、コートから取り出しておいた真四角の封筒を指の間に挟んでウーヴェの顔の前でひらりと振る。
「そこで、だ。私の愛弟子でもあるきみに是非とも今回の件で祝いに駆けつけて貰おうと思ってね」
こんなものを用意したんだと笑顔で封筒を差し出され、訝りつつ受け取ったそれを開封し、有り触れた文面で書かれている記念パーティへの招待状に一通り目を通すと、封筒にそれを戻してテーブルに置く。
「月が変わって第一週目の金曜ですね?」
「来てくれるかね?」
「教授が大学を離れるのは残念ですが、新たな職場でのご活躍を期待しています」
その為の第一歩が記念パーティならば喜んで出席しますと笑みを浮かべ、必ず顔を出しますと約束をし、コーヒーカップを手に取る。
「きみがそこまで言ってくれるのならば間違いはないだろう。・・・・・・安心したよ」
「先生?」
一体何が安心なのだと小首を傾げたウーヴェの前ではアイヒェンドルフがにこりと笑みを浮かべて手を組み合わせ、何かを納得したような顔で一頻り頷くと、眼鏡の下で瞬きを繰り返すウーヴェのターコイズ色の双眸を見つめて笑みを深める。
「他の生徒達にも招待状を出したが、やはりきみには来てもらいたいんだよ、ウーヴェ」
パーティに出席する妻も久しぶりにきみに会えて喜ぶだろうと頷き、奥様も出席なさるのならば必ずと確約すると、アイヒェンドルフが心底安堵した顔で頷いて立ち上がる。
「もうお帰りに?」
「ああ。今日は招待状を届けに来ただけだが・・・きみの仕事ぶりが安定しているようで本当に良かったよ」
それを見ることが出来ただけでも来た甲斐があったと、ウーヴェを言葉以上に表情で褒め称えた彼は、ウーヴェがそんな事はないと謙遜するのを立てた掌で押し止め、ステッキの先で絨毯をトントンと叩く。
「ウーヴェ、きみが良くやっている事はこのクリニックを見れば分かる事だ」
だから自信を持って胸を張りなさいと、穏やかな中にも強さを秘めた声に背中を押されたように感じたウーヴェは、そのようにしたいと思いますと頷き、診察室を出て行く恩師を送り出す為にドアを開けてすぐさま立ち上がったオルガに目配せをする。
「フラウ・オルガ」
「・・・はい」
「彼をこれからも補佐してやってください」
「私に出来る事ならば」
ウーヴェが苦笑するのを見守ったアイヒェンドルフは、くれぐれも今度のパーティへの出席を頼むと告げるが、大切なことを忘れていたと思い出した様に拳を掌に打ち付けると、フラウ・オルガも一緒に来て下さいと告げ、受け取ったコートを羽織って軽くステッキを上げて挨拶代わりにすると、来た時同様に軽い足取りで愛弟子のクリニックを出て行く。
久闊を叙す割にはあっという間に帰っていった己の恩師の背中を見送ったウーヴェは、珍しく何かを問い掛けようとして躊躇しているオルガに気付いて苦笑し、中でコーヒーを飲もうと誘って診察室に戻っていく。
「ウーヴェ」
「どうした?」
自分のためのカップを片手にオルガが窓際のソファセットに腰掛け、己の前で懐かしさに目を細めるウーヴェに問い掛けると、その表情と声のまま先を促されてさっきのパーティの件だと切り出す。
「あなたの恩師の就任祝いのパーティに私が出席しても良いのかしら・・・?」
「ああ、先生が直接言ってるのだから気にすることはない」
一緒に来ればいいし、もしかするとパートナー同伴のパーティなのかも知れないと肩を竦めればオルガの目が見開かれた後、激しく躊躇うような顔で視線を彷徨わせる。
その顔から今度はウーヴェが眼鏡の下で軽く目を瞠るが、恋人がいるのに誤解を受けてしまうなと苦笑する。
「私は構わないわ。でも、あなたが・・・」
パートナー同伴のパーティとなれば私があなたの横に立つことは出来ないと首を振って苦笑するオルガに確かにそうだが仕事では掛け替えのないパートナーだと彼女を手放しで誉める。
「リアがいないと本当に困る。・・・教授に問い合わせて良かったよ」
何年前になるだろうか、この診察室でウーヴェの以前の秘書であり元彼女であった女性が殺されると言う事件があったが、その後新たに雇ったのがオルガだった。
もっとも、彼女を雇った後に発覚した事実からウーヴェが感情的になってしまい、一度彼女を解雇したのだが、紆余曲折を経て今の関係に収まったのだ。
その後の彼女の働きは優秀で、オルガがいないことを考えるだけでウーヴェはぞっとしてしまう程だった。
そんな彼女と一緒に恩師の就任祝いのパーティに顔を出す事はウーヴェにとっては当然と言えば当然だったが、パートナー同伴となれば話がややこしくなる可能性もあった。
ウーヴェにも彼女にもそれぞれパートナーがいるのだが、ウーヴェのパートナーは年下の同性で、ついこの間ひょんな事から姉には己のパートナーが男である事を伝えたばかりだが、同級生も集まるだろうパーティに彼を連れて行く事はまだまだ考えていない事だった。
姉が突然やって来た際に抱いた悩みをまた抱えなければならないのかと思うと些か気分が重くなるが、仕事のパーティだと説明すれば己の恋人は行ってこいと快く送り出してくれるだろうし、それは疑う余地のない事ではあったが、内なる声が小さな囁きを発する。
今回は同級生に紹介する良い機会かも知れない。
その声をしっかりと聞き届けたウーヴェは、後で恋人にそれとなく予定を聞いてみようと決め、どうするべきか思案顔のオルガを安心させるような笑みを浮かべて手を組んでゆっくりと頷く。
「リアの予定が空いているのなら一緒に来てくれないか?」
「でも・・・」
「ああ、きみが心配するのは分かる。・・・・・・あいつには後で話をしておくし、可能ならば連れて行く」
いつかのようにその場凌ぎで顔を合わせないなどという無様な事はせず、あの日恋人に告げたように誰にも恥じることも臆することもなく恋人だと紹介するつもりだと目を伏せれば、心底安堵したような吐息が二人の間にこぼれ落ちる。
「そう言うことなら・・・」
でもパーティなど久しぶりだから何を着て行こうかしらと、今度は別の悩みで顔を曇らせるオルガに少しだけ形式張ったものになるかも知れないと招待状から判断をし、ウーヴェ自身も最近はスーツを作っていない為に新たに用意をした方が良いことに気付いて苦笑する。
「教授が就任する病院の名前は聞いたの?」
「・・・・・・そう言えば聞いていないな」
「珍しいわね」
あなたがそんな初歩的なことを聞き忘れるなんてとオルガに驚かれてバツが悪くなったのか、ウーヴェが足を組み替えて当日に行けば分かるだろうと嘯くが、久しぶりに恩師と顔を合わせて浮かれていたこと、彼が新たなスタートを切る場所を聞くことすら忘れていたと素直に告げれば、余程嬉しかったのねと言いたいのを堪えるような顔でオルガがそっと頷く。
「招待状を見せて貰っても良いかしら」
「ああ」
テーブルに置いたままのそれを彼女に差し出して窓の外へと目を向けたウーヴェは、教授に告げたように最近過ごしやすくなってきた事への喜びを口元の笑みで表して足を組み替える。
「場所は・・・駅のすぐ傍のホテルね」
「そうなのか?」
「ええ。それなら電車で行けるわ」
駅のすぐ傍の、しかも名前の通ったホテルで行われる祝賀会と知ったオルガが気合いを入れ無ければならないと目を輝かせ、ウーヴェの顔の笑みを深めさせてしまう。
「当日は頼む」
「ええ」
あなたもスーツを新調するのならばそれを楽しみにしているわと笑い、今日の勤務は終わりだと二人で互いを労い合ってパーティよりも早くに来る明日一日の仕事も頼むと言葉を交わすのだった。
日が沈むまでは春の陽気に包まれていた街だが、太陽が姿を隠すと同時に訪れる闇が急速に熱を奪い取ってしまったのか、急ぎ足で長身の青年が帰路に就く頃にはすっかりと真冬のような寒さの中に街は沈んでいた。
市街地から少し外れた高級住宅街の一角に青年が向かう目的の家があるのだが、銜え煙草でぶつぶつと文句を垂れながら歩いていると、程なくして目的地であるアパートが見えてくる。
最上階の窓には暖かな色が磨かれているガラス越しに見え、目的地である家に一人で暮らす彼がそこにいることを教えてくれていた。
その光を見た途端、一秒でも早く彼の元へと向かい、痩躯を抱き締めて疲れた身体を癒すように抱き締めて欲しいと訴える心が浮き足立ってしまい、警備員の苦笑の眼差しにも負けずに笑顔で頷き、携帯からではなく警備員室横のドアベルを押して貰って連絡をすればドアが静かに開いた為、エレベーターに乗り込んで最上階のフロアへと向かう。
高級感を縁取った真鍮でのみ表すシンプルなドアの前に立ち、横にあるベルを押そうとした時、いつものタイミングでドアが開いて足下を光が照らし出す。
「ハロ、オーヴェ」
「お疲れさま」
今日も頑張った、疲れたと腕を伸ばせばそっと己の身体に回させた後、暖かな空気が伝わってくるような腕が背中へと回される。
仕事で疲れた身体を引きずるようにこの高級アパートを訪れる様になったのは結構前だったが、つい先日、今癒すように抱き締めてくれる恋人の姉が不意に訪れた際に巻き起こった騒動の結果、以前とは変わらないようでいて決定的に変わった気持ちでこのドアをノックするようになったのだ。
端的に言えば、ここがもう一つの家、彼の元に帰る、そんな気持ちが芽生えていたのだ。
自らの心の動きを感じつつ彼の痩躯を抱きしめ、擦り寄せるように頬を白い髪に押し当てて心のままに小さく笑い声を上げれば、一体どうしたと言葉と気配で問いかけられてしまう。
「うん・・・ただいま、オーヴェ」
ここに帰ってきたこと、帰ってこいと言ってくれたあの日の言葉が思い出されて体中が歓喜に震えていると秘密を告白する声で告げると沈黙の後、呆れたような溜息がこぼれ落ちて目を瞠る。
「オーヴェ?」
「・・・早く中に入れ」
本当に仕方がないと溜息を吐いて前髪を掻き上げるが、青年、リオンの顔に不満未満の感情が浮かんだことに気付いた刹那、月の下でのみ開く花のような笑みを浮かべて彼、ウーヴェがリオンのくすんだ金髪に手を差し入れて頭の形を確かめるように撫でる。
「リーオ」
きっと今日も一日、お前の手を必要とする人々に貸し与えていたのだろうが、朝を迎えるまでその手は自分のものだと手の中に握った金髪に告白したウーヴェにリオンが笑みを切り替えて大きく頷いた後、少しだけ意地の悪い色を浮かべて己の恋人の眼鏡の下の目を覗き込む。
「独り占めはダメだぜ?」
くすくすと笑って恋人の頭を逆に抱いた後その頬にキスをしたリオンは、背中を一つ叩かれたのを合図にして中に入り、暖かな空気に包まれながら長い廊下を進んでいく。
この居心地の良い空気にすっかり馴染んだせいか、自宅の老朽化の進んだアパートにはここのところ帰る気持ちが起こらず、冷蔵庫の中身を今朝見た途端、何事もなかったかのようにドアを閉めてしまうほどだった。
この家に帰るようになってしばらくが経つが、いつかここで二人で暮らそうと約束を交わした事を思い出せば自然と顔がにやけてしまい、先程よりも胡乱なものを見る目つきで恋人が見つめてきた為、そんな目で見るなよと口を尖らせて白い髪にキスをすると、目元がうっすらと赤味を帯びて何とも言えない艶のある笑みを浮かべて見つめてくる。
「・・・・・・後で、な」
「・・・バカたれっ」
その言葉が照れ隠しであることを誰よりも知っているリオンが鼻で笑い、腹が減ったとのたまえば悔し紛れの拳が横っ腹にたたき込まれ、大げさな声を挙げてじろりと隣を睨めば、端正な横顔が澄まし顔でキッチンに向かう廊下を曲がっていく。
「この野郎!」
「用意をしておくから早く着替えてこい」
「あ、うん。オーヴェ、ベーグルある?」
「ああ。焼いておこうか?」
「ダンケ!」
つい先程のじゃれあいを忘れて遅い夕食に対する注文を付けたリオンは、ベッドルームのドアを開け放って無駄に広いとしか思えない部屋を大股で進み、クローゼットの中で着替えを済ませて飛び出すとキッチンに駆け込み、呆れ顔のウーヴェに満面の笑みを浮かべて着替えてきたと元気よく告げ、冷蔵庫を開けて二人分のビールとチーズを取り出してテーブルに並べていく。
「ベーグルにはバターを付けるか?」
「オーヴェはどうするんだ?」
「オリーブオイルと塩も最近美味しいと思うな」
「それ賛成!」
トースターの中で香ばしく焼き上がるベーグルを今か今かと待ちきれない顔で覗き込んだリオンが顔を上げて賛成を表明し、ウーヴェも仰々しく頷いてオリーブオイルと岩塩を取り出してテーブルに並べていく。
「ああ、そうだ。リオン」
「んー?」
早く焼き上がれと、今にも歌い出しそうな恋人の背中を見つめ、何気ないふりで心の緊張を覆い隠したウーヴェがそっと名を呼べば、どうしたと肩越しに見つめられて目を細める。
今日の午後、招待状を持って訪れたアイヒェンドルフの顔が脳裏に浮かび、可能ならば連れて行くと告げた時のオルガの顔も思い浮かんできて一度目を閉じると、頬に大きな掌が宛がわれたような温もりが広がり、無意識にその熱に頬を寄せる様に首を傾げる。
「どうした、オーヴェ?」
先程まで見ていた子供のような笑みはなりを潜める代わり、きっと自分だけが見ているのだろうと思わせる真摯な色を浮かべた双眸に見つめられている事を、半ば持ち上げた瞼の下で確認すると一つ頷き、今日自分の恩師がクリニックにやってきた事を告げる。
「大学の先生?」
「ああ。・・・その人がいたから、今の俺がいる」
そう言える人だと告げて事情を掻い摘んで説明すると、自分がいる警察でも出世が絡めば友人関係も何もない人たちもいるが、その先生もそんな出世競争に巻き込まれたのかと不安げに問われ、そうではない事を告げた後、頬に宛がわれる手に手を重ねてもう一度瞼を下ろす。
「今度就任祝いのパーティがある。────お前がもし・・・その・・・」
「?」
口ごもるウーヴェを急かすでもなく、またそんな状態に陥る彼を笑うでもなくただ黙って見守っていたリオンは、途切れ途切れの音が織りなす言葉が作り上げたそれを確認し、ウーヴェの頬に宛がっていた手で頬を撫でる。
「パーティ?」
「そのパーティには同級生も来るだろう・・・から・・・」
だから今度はその友人達にお前を紹介したいと思うと、電気ケトルが湯を沸かす音よりも小さな声で告白されたリオンの顔から表情が消えていくが、次いで浮かんだものは真正面から見たウーヴェが呼吸すら忘れそうな程真剣なものだった。
「良いのか・・・?」
本当にお前の友人に俺を紹介するつもりなのかと、感情の籠もらない声に問いかけられてそっと頷いたウーヴェは、誰にも恥じることも臆することもなくお前は俺にとって大切な存在である事を伝えたいと告げれば、そっと腕が回されて抱き寄せられる。
「・・・俺、パーティで着るような服って持ってないんだよな。選んでくれねぇか、オーヴェ」
「ああ。好きなブランドがあるのならそこに買いに行こう」
その言葉でパーティへの出席の返事としたリオンにウーヴェが安堵の吐息を零して広い背中を叩くが、視界の隅に入り込んだトースターから煙が出ている事に気付いてリオンの大きな身体を突き飛ばす。
「ぃてぇ!」
目を吊り上げるリオンの前ではウーヴェが珍しい程慌てふためいてトースターから中身を取り出しているが、出されたそれはと言えば炭の親戚と呼べるような物体に変身してしまっていた。
「・・・・・・あちゃ」
「・・・・・・」
何ともやるせない顔でウーヴェが取り出したそれを見つめた二人は、仕方がないと諦めの溜息を零した後、結局チーズやクラッカーやパントリーに買い置きしておいた缶詰などで質素すぎる食事にするのだった。
快楽の海から浮上する為に互いの腰に手を回し、荒い息を吐いて何とか呼吸を整え無ければならない程の時が過ぎ去った、心身ともに得た満足に身を委ねてしまいたくなる空気に包まれながら目を閉じると、額に濡れた感触が生まれてそっと瞼を持ち上げる。
「なぁ、オーヴェ」
「どうした・・・?」
気怠さと満足さの間で微睡みながら返事をしたウーヴェの耳を舐めたリオンが躊躇いを感じながらも問いを発し、それに答える為にウーヴェが腕を上げて汗ばむ背中を掌で撫でる。
「無理をしてる訳じゃない・・・本当にお前を紹介したいと思ってる」
「・・・うん」
リオンがウーヴェの肩口に顔を押し当てながら籠もった声を挙げた為、背中を撫でていた手でくすんだ金髪を撫で付けて頭を更に抱き寄せる。
先日姉に自分の恋人だとリオンを漸く紹介したのだが、友人にはまだ紹介しておらず、リオンとの関係を知っているのは、市内で人気レストランのオーナーシェフをしている幼馴染みのベルトランと、クリニックで助手をしてくれているオルガだけだった。
自分の全てをさらけ出せる相手はこの二人だけだと思っている為、ウーヴェはこの二人にはごく自然にリオンの存在を伝えて紹介し、今では自分と同じように仲が良くなっていた。
だがその二人以外の友人、たとえば大学の友人達にはまだ伝えた事は無かった。
いつかリオンが言ったように、リオンは己の家族同然である孤児院のシスターやマザー・カタリーナにはウーヴェとの関係を伝えているが、自分はその勇気が持てなかったと内心忸怩たる思いを抱いていたウーヴェは、今回のパーティへの出席を理由にして集まるだろう友人達に紹介しようと決めたのだ。
そのウーヴェの決意はリオンには嬉しいものだったが、今までの事を考えれば何やら急に話が進んでいるようで、何かしら不安を感じ取ってしまったのだろう、その不安から問いを発したリオンに気付いて大丈夫だと髪に頬を寄せて囁き、俺の言葉を信じてくれとも囁くと、腕の中で金髪が上下に揺れる。
「・・・パートナー同伴のパーティなのか?」
「ああ。・・・仕事上のパートナーと言う事で、リアにも来てもらう」
良いだろうと苦笑すれば沈黙が生まれた後、リオンが顔を上げてにこりと笑みを浮かべる。
「リアはどんなドレスだろうな?」
「気合いを入れると言っていたな」
自分もまたスーツを新調しようと思うと告げ、お前はどこのブランドが好きなんだと問いかけながら、枕に両肘を付いて上体を支えるリオンを見上げて横臥すれば、余りブランドなど知らないからお前の好きなところで良いと肩を竦められてしまう。
「そうなのか?」
「うん。明日さ、仕事終わったら待ち合わせしてスーツ買いに行こうぜ」
「そうしようか」
枕に頬を押し当てて笑みを浮かべるウーヴェの顔を寄せたリオンがキスをし、どんなスーツが良いだろうなぁと、明日の予定に思いを馳せて上目遣いになると、ウーヴェがコンフォーターを引っ張り上げて二人の肩にそっと被せる。
「じゃあ来月の金曜日だからな?」
「ん、分かった」
その金曜日やその前日などに事件が起こらない事を祈ると切実な声で告げられ、小さく吹き出したウーヴェにリオンが片目を閉ざして器用に肩を竦めると、お休みと欠伸混じりの声で告げて目を閉じるのだった。