健屋花那は、カルテを閉じてからもしばらく黙っていた。
検査結果は、これまでと大きく変わらない。
数値は安定。心臓も、致命的な乱れはない。
「……りつ」
呼ばれて、りつは顔を上げる。
「身体の検査で“原因不明”が続いてる。
だから、次の話をするわね」
声は、いつもより少しだけ柔らかい。
「心因性の可能性」
りつの指先が、わずかに強張った。
「……それって」
「“気のせい”って意味じゃない」
健屋は、即座に否定する。
「脳も、心も、身体の一部。
ストレスが自覚できなくても、症状として出ることはある」
りつは、何も言えなかった。
“ストレスはない”
“無理はしていない”
そう言い続けてきた自分の言葉が、
ゆっくりと揺らぐ。
「……でも、思い当たることが」
「“ない”って言うのも、症状の一部よ」
健屋は、はっきり言った。
「特に、あなたみたいに
“我慢を自覚しないタイプ”はね」
その一言が、胸の奥に残った。
帰り道。
りつは、足取りが重かった。
“我慢している自覚がない”
“怖さに気づいていない”
それは、否定しきれない。
夜、通話が繋がる。
葛葉と叶。
「検査どうだった」
葛葉の声は、静かだ。
「身体的には、大きな異常はありません」
「じゃあ、なんで――」
叶が、途中で言葉を切った。
少し間を置いて、続ける。
「心のほう?」
りつは、うなずいた。
「……可能性があるって」
沈黙。
葛葉が、低く息を吐く。
「やっぱりか」
その反応に、りつは驚く。
「……思ってました?」
「最近のお前見てたらな」
叶が、画面の向こうで視線を落とす。
「りつさ」
少し、声が揺れた。
「“大丈夫”を守るの、上手すぎる」
その言葉で、何かが切れた。
「……怖かったんです」
りつは、初めてはっきり言った。
「倒れるのも、迷惑かけるのも、
“また”って言われるのも」
言葉が、止まらない。
「元気にならなきゃって、
落ち着いてなきゃって、
医者なんだからって」
息が、少し浅くなる。
「それで……
何も起きてない“ふり”をしてたのかもしれません」
叶は、即座に言った。
「それ、無理してる」
責める声じゃない。
断定だった。
葛葉も続ける。
「“気づかない無理”が、一番厄介だ」
りつは、震える息を整えながら言う。
「……どうすれば、いいですか」
その問いは、初めて“助けを求めた”形だった。
叶は、少しだけ考えてから答えた。
「一回、守るのやめよ」
「……え」
「元気な自分を、
ちゃんとしてる自分を、
“演じる”の」
葛葉も、うなずく。
「配信も、仕事も、
“できる”じゃなくて“したいか”で決めろ」
りつは、ゆっくり息を吸った。
今度は、苦しくない。
「……怖いです」
「当然」
二人同時だった。
叶が続ける。
「でも、ここで一緒にいる」
葛葉も言う。
「逃げてもいい場所、用意しとく」
その夜、りつは久しぶりに、
“原因を探す”ことをやめて眠った。
完璧な答えは、まだない。
症状が、すぐ消えるわけでもない。
それでも――
名前のない不調に、
“ひとりじゃない”という輪郭がついた。
胸に手を当てる。
鼓動は、少し速いが、確かだ。
――守らなくていい夜が、
――ようやく、始まった。






