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1月も中ごろに近づいてくれば巷では約一月後に向けたバレンタイン商戦が幕を開け、デパートやスーパー、コンビニなどはどこに行ってもチョコレートの甘い香りに包まれる。
正直言って甘いものは苦手だし、バレンタインなんてイベントにも興味はない。
毎年、ナオミがチョコを準備しているから店に来いと催促の電話が掛かって来る以外では、社内の女子社員から申し訳程度の義理チョコを貰うくらいでまさか自分がチョコレートコーナーの前をウロウロする日が来るなんて想像もしていなかった。
催事場には理人ですら耳にしたことのある有名店のチョコレートが所狭しとディスプレイされており、そこに多くの女性客が群がる光景は圧巻の一言に尽きる。
その中に、男子高校生と思わしき姿は目にするものの、流石にスーツを着た男性が一人というのは目立って仕方がないし、敷居が高すぎる。
自分ではそんなつもりは無くとも、睨んでいるように見えるのか、店内にいる女性客と目が合っただけで不審なものをみる目を向けられるのもあまり気分が良いものではない。
「……ふん、馬鹿らしい」
理人は溜息交じりに呟くとそっとその場を後にした。
そもそも、なんで自分がこんなことで頭を悩ませないといけないんだ。別に、俺はアイツの為にわざわざここに来てやったというわけではなくて、ただ単に会社帰りに駅の近くを通りかかったからついでに立ち寄っただけで……と、誰に言うでもなく脳内で言い訳をしながら帰路に着く。
瀬名に合鍵を渡してから数日、流石に毎日一緒に帰るのは怪しまれると思い、別々にオフィスを出ることにしている。
瀬名は不満そうな顔をしていたが、朝倉の時のような例もあるし何処で誰に見られるかわかったものじゃない。一応、理人なりに気を使っているのだ。
(にしても……)
今日も寒いな……と白い息と共に吐き出しながら理人は空を見上げた。東京は雪こそ降っていないものの、気温は低く底冷えするような寒さだ。コートだけでは少し肌寒くて思わず身震いしてしまう程に。
早く帰って暖房の効いた暖かい部屋で熱いコーヒーでも飲みたい。こんな時期だし、鍋を囲みながら一緒に熱燗で乾杯するのも悪くないか。
瀬名はもう戻って居るだろうか? いつも通り、ソファに座って本を読んでいるのかもしれない。それとも……
マンションのエントランスを抜けエレベーターに乗り込むと、自然と笑みが零れた。
理人は基本的に人を家に上げることは滅多にしない。親しくしているナオミでさえ、数えるほどしか部屋には入れたことが無かった。
けれど、瀬名だけは特別で、いつの間にか当たり前のように受け入れていた。それが何故なのかは分からない。
家族との縁が薄かった自分は一人でいる事の方が長かったし、その方が気が楽だった。
それなのに今は瀬名と過ごす時間が心地よくて、瀬名が傍にいないと落ち着かないとすら感じている。家で瀬名が待っているかもしれないと思うと、家に戻るのが楽しみで仕方がない。
そんな感情が自分にもあったのだと驚き、自嘲気味に笑いながら玄関の扉を開けた。
「あ、理人さんお帰りなさい」
リビングに入るとすぐに瀬名の声が聞こえてきて理人は無意識に頬を緩めた。瀬名はキッチンで何か作っていたようで、振り返ると笑顔を向けてくる。
このやり取りが幸せだと思うようになったのは、いつからだろう。
以前は瀬名も理人と同様に一人暮らしをしていたし、誰かが自分を迎えてくれるのが新鮮で、どこかむず痒い気持ちになる。
理人は鞄を床に置くと、ネクタイを外してシャツのボタンを一つ二つと外す。そして、キッチンで作業をしている瀬名の腰に腕を回すとそのまま引き寄せて抱き着いた。
突然の事に驚いた瀬名だったが、抵抗することなくされるがままになっている。
瀬名の体温と匂いを感じるとホッとして、ずっとこうしていたいと言う気持ちにさせられる。
「理人さん、どうかしたんですか?」
「……外が寒かったんだ。あったまらせろ」
「ふふ、猫みたい」
「うるせー……」
瀬名の肩口に顔を埋めてグリグリと押し付けるようにすると、瀬名はくすりと笑って理人の頭を撫でてきた。
瀬名の手が触れる度に胸の奥がきゅんとなる。こんな風に甘える事が出来るのも瀬名の前だけだ。
「はい、出来ましたよ」
暫くして瀬名がそう言うと同時に身体を離され、テーブルの上には二人分の食事が並べられていく。
瀬名は料理が上手い。初めて手料理を振る舞われた時は、あまりに美味しくて夢中で食べてしまった。
顔が良くて、仕事が出来て、その上料理も出来るなんて、こんな超優良物件を女性が放っておくはずがない。
実際、以前瀬名には長く付き合っていた彼女がいたと言っていたし、モテないわけが無いだろう。
今は自分に興味が向いているからいいとして、いつか本気で彼に好きな人が出来た時、果たして自分はどうするのだろうと、時々考える事がある。
その時が来たら潔く身を引けるだろうか。そんな事をぼんやりと考えていると、瀬名の顔が間近に迫っていて、ちゅっと軽く唇が触れた。
「ご飯にする? それとも……僕? なんちゃって」
「……ばーか」
ふざけたように笑う瀬名の額にデコピンをお見舞いしてから、理人も席につく。
こんなやり取りですら愛おしいと感じるなんて……重症だなと苦笑しつつ、理人も瀬名に倣っていただきますと両手を合わせた。
「そう言えば、理人さん今日は随分遅かったですね。仕事、そんなに長引いてたんですか?」
「あ、あぁ……まぁ……」
瀬名の言葉に、ぎくりと身体が強張り飲んでいた味噌汁を吹き出しそうになって、適当に言葉を濁した。流石に、チョコレート売り場の前でうろうろしてたなんて言える筈もない。ましてやバレンタインなんて行事に全く興味のないと言っている自分があんな場所にいたなんて瀬名に知られた日には恥ずかしさで憤死してしまいそうだ。
「ふぅん……。あ、そうだ、理人さん」
「なんだよ」
何食わぬ顔をして箸を進めていると不意に名前を呼ばれて視線を上げる。すると、そこにはにっこり微笑みながらこちらを見る瀬名の姿が目に入ってきて……嫌な予感がした。
「僕、理人さんにどうしても食べて欲しいチョコがあるんですよ」
「……わざわざ言う事じゃねぇだろ」
「どんなのか聞かないんですか?」
聞きたくない。絶対にろくでもない物に違いない。
理人は眉間にシワを寄せて不機嫌さを露にしたが、瀬名は怯むことなく話を続ける。
「別に……」
「まぁ、そう言わずに。コレなんですけど」
「って、おい! 結局見せるんじゃねぇか!」
視線を逸らした先にスマホを押し付けられ、渋々と画面に目を向けると、そこには至って普通のチョコレートが映し出されていた。
もっと如何わしい形をしていたりするのかと想像していたのにびっくりするほど普通だ。
「なんだ、ただのチョコじゃねぇか……」
「えっ? いいんですか? 買っても」
「ん? あ、ぁあ……」
なんでそんな嬉しそうな顔をするのかわからないが、いそいそとスマホを操作して購入ボタンを押す姿を見て、わざわざ買いに行かなくてもネットというものがあったかと目から鱗が落ちた。
だが、同じようなものが宅配で届いて真似をしたと思われるのもなんだか癪だ。
動揺を悟られないように、食事を済ませると瀬名に風呂に入るよう促した。
「理人さんも一緒に入りませんか?」
「は!? 入る訳ねーだろッ!!」
突拍子も無い事を言い出す瀬名に、思わず声を荒げてしまう。
「そんなに怒らないで下さいよ。冗談ですから」
「ったく……馬鹿なこと言ってないでさっさと入ってこい」
瀬名をバスルームに押し込んで、理人はソファにどっかりと腰を下ろすと深い溜息を吐いた。
本当に心臓に悪い。油断しているとすぐこれだから、気が抜けない。
一緒に風呂になんて入ったら、何をされるかわかったもんじゃない。
ブツブツと文句を言いながら、手を伸ばして煙草を掴む。一本取り出し口に咥えた所で瀬名のスマホがメッセージの着信を告げた。
別に、見るつもりなんて毛頭無かった。 ただ、ディスプレイが光って目に飛び込んできた文字を見た時、無意識に指が動いてしまった。それだけの事。
メッセージには真奈美という女の名前で『今日は久しぶりに会えて嬉しかった♡』とだけ書かれていて、こめかみの辺りを思い切り殴られたように一瞬、目の前が真っ白になった――。
一体誰だ? 瀬名の元カノの名前だろうか。瀬名は別れたと言っていたが、もしかしたらまだ続いているのかもしれない。
でもどうして今頃……? 今まで気付かなかっただけで、もしかすると他にもそういう相手がいるのか? いや、瀬名に限ってまさか……。
ぐるぐると考え込んでいると、瀬名が浴室から出て来たので理人は慌てて手に持っていたスマートフォンをテーブルに伏せた。
「理人さんも入れば良かったのに。お湯、張ってあるから気持ち良いですよ」
「そ、そうか」
瀬名は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、そのままソファに座ってゴクゴクと喉を鳴らして飲み始めた。
至って普通の光景だ。とても何かやましい事をしている男の姿には見えない。
理人はその様子を横目に見つつ、瀬名には気づかれない様に小さく息を吐き出すとゆっくりと立ち上がる。
「俺もシャワー浴びてくるから、お前はゆっくりしてていいぞ」
「はい」
理人は逃げるようにしてその場を離れると、足早に脱衣所に向かった。そして、中に入り扉を閉めるなりその場にしゃがみ込むと盛大なため息と共に頭を掻き乱す。
瀬名が真奈美と言う女性とどういう関係なのか。何故、連絡を取り合っているのか。
知りたいけれど、知るのが怖い。
「俺はアイツのこと何も知らねえんだな……」
ポツリと自嘲的な笑みを浮かべながら呟き、シャツのボタンに指を掛けた。ふと、鏡に映った自分の左手に目が留まる。
薬指に嵌められた指輪が鈍い輝きを放っている。瀬名と恋人同士になってから、ずっと身に着けているものだ。
この指輪は瀬名と自分を繋ぐ証のようなもので、理人は無意識にそれを撫でると再び大きな溜息を漏らした。
瀬名と一緒に居られるならそれでいいと思っていたのに、いざその事実を突きつけられると胸が苦しくて仕方がない。
理人はのろのろと立ち上がって服を脱ぐと、熱いお湯を頭から被る。
この気持ちは何なのだろう。
真奈美という女は瀬名のなんなんだ? 今日会ったと書かれていたがいつの間に? そう言えば、今日は外回りに行くと言って2時間ほど戻って来なかった。もしかして、その時だろうか?
考えれば考えるほど疑念は深くなり、理人の心の中にドス黒い感情が生まれる。こんな気持ちは初めてだった。
こんな醜い自分なんて見たくなくて、必死に抑え込もうとするが上手くいかない。
この気持ちをぶつけてしまったら瀬名との関係が壊れてしまいそうで怖い。
「……クソッ……」
理人は苛立たしげに舌打ちすると、乱暴にシャンプーのボトルを掴んだ。
入浴を終え濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると、瀬名はテレビを見ながら寛いでいた。理人に気付くと嬉しそうに手招きして自分の側に来いと呼ぶ。
「また濡れたまま出て来て……拭いてあげるからこっち来て」
「面倒せぇしそのままでも」
「ダメ。風邪ひいたらどうするんですか。ほんっと、理人さんって仕事は完璧なのに、私生活だらしないですよねぇ……。ま、そう言うところもいいんですけど」
クスクス笑いながら髪をタオルでわしゃわしゃと拭いてくれる。何気ない日常的な行動なのに今はそれが逆に辛かった。瀬名は自分に嘘をついているのだろうか。それとも、真奈美という女とはもう別れてしまったので過去の事として割り切っているのだろうか。
だったらなんで、あんなメッセージが届く? 聞いてみたいが、聞けない。もし、実は二股掛けていました。なんて肯定されてしまったら……と思うと途端に怖くなる。自分はいつからこんなに憶病になってしまったのだろう。
「理人さん、どうかしました?」
「なんでもない」
「……?」
「それより、明日早いんだろ? 早く寝ろよ」
「えー、まだ宵の口じゃないですか」
「遅刻したら洒落にならんだろうが」
理人がぶっきらぼうに言うと瀬名は少し不思議そうに見つめてきたが、特に追及する事なく素直に立ち上がった。
「ねぇ理人さん、今夜は一緒に寝てもいい?」
「……好きにしろ」
今夜も、だろうが。内心毒づきつつベッドへと潜り込む。それに続いて瀬名が入ってくる気配を感じて理人は瀬名に背中を向けた。
「理人さん、こっち向いて?」
「いやだ」
「じゃあ、勝手にします」
瀬名はクスクス笑いながら、理人を後ろから抱き締めてきた。
「おいっ……」
「こうやってくっついて眠ると暖かいんですよ。それに、落ち着くんです」
「……俺は落ち着かねぇけどな」
言いながら首筋に唇を寄せられて、理人は身を捩らせる。
「エッチな事考えるから?」
「ばっ、違っ……ん……っ……」
耳を甘噛みされて思わず声が漏れそうになり、理人は慌てて口元を手で覆った。
「理人さん……キスしたい……」
「……っ」
瀬名の声が熱を帯びていて、身体の奥が疼く。
仕方なく身体を反転させて向かい合うと瀬名の唇が重なって来て、啄むような優しいキスが繰り返される。
「ん……ふ……っ……」
「理人さん……可愛い……」
「うるせぇ……っ……」
瀬名に言われると恥ずかしくて堪らない。理人は顔を背けて逃れようとしたが、瀬名は許さないとばかりに顎を掴んで強引に正面を向かせた。
「理人さん……好きだよ」
「……ッ」
真っ直ぐな瞳に射抜かれて心臓が跳ね上がる。
この言葉に嘘は無いと思いたい。ただ、先ほどのメッセージが頭にちらついて離れなかった。
「どうかしたんですか?」
「何でもねぇよ……」
瀬名は怪しむように顔を覗き込んでくるが、理人は顔を逸らすと腕の中からすり抜けて布団を被った。
「理人さんってば!」
「お休み。明日は大事な会議があるんだから手ぇ出すんじゃねぇぞ」
「……」
理人はわざとらしくそう釘を刺して目を閉じる。最初は不満げだった瀬名も流石に諦めたのか大人しく隣に横になる。暫くして、規則正しい呼吸音が聞こえてきて、理人もそれに倣うように目を閉じた。
瀬名の事は信じている。だが、どうしても真奈美の事が気になって眠れない。
瀬名の言葉を信じたいのに、疑ってしまう自分が嫌で仕方がなかった。
朝起きて、支度をし別々に家を出る。 いつもより1本遅めの電車は混んでいて、ぎゅっと押しつぶされそうになる。
あぁ、憂鬱だ。今日は何となく瀬名と顔を合わせ辛くて朝からそっけない態度を取ってしまった。
まぁ、普段からそこまでなれなれしい会話をしているわけでもなかったので、怪しまれずに済んだのだがいつまでもこのままでいいわけがない。
仕事に私情を挟んではいけない。なんとか気持ちを切り替えて出社した理人は、オフィスに入るなり妙な雰囲気を感じた。
ざわめきと不安げな空気に、思わず足を止めてしまった理人に、片桐が足早に近づいてきた。
「部長、ちょっと……」
「なにかトラブルでも?」
「それが、今朝早くに岩隈専務から不思議な問い合わせがあったらしいんだ。最新型の情報書き換え装置はまだ社内で未発表のはずだが、どういうことかと」
「新型? 何の話だ……」
「さぁ、僕たちにもさっぱり」
新型の情報書き換え装置。心当たりがあると言えば、朝倉の事件の時に間宮に渡したアレだが、なぜ岩隈がその情報を知っているのだろう?
東雲が岩隈に話すとは考えにくいし、資料はすべて自分が持っている。 それこそ今日の会議でプレゼンしようと思っていたところだったのに。
不穏な予感に思わず眉間にしわが寄る。だが、詳細がわからない以上こうしていても仕方がない。
「り……鬼塚部長……大丈夫ですか?」
瀬名が不安げに話しかけてくる。
「……っ大丈夫だ。どうせ、会議で顔を合わせるんだ。ついでに話を聞いてくるから」
極力平静を装い、小さく息を吐いて答える。 周囲を見渡せば異様な空気が肌を刺した。
何やら書類を片手にヒソヒソと話している者たちが複数グループで固まり、視線は一瞬理人に集中したが──すぐに逸らされる。
耳を澄ませても会話の内容は判然としない。
「……新型装置の……」「でもどうして……」「鬼塚部長が……」
断片的な単語が鼓膜を引っ掻く。
(……まさか、俺が関与してると思われてるのか?)
書類の束を抱えた指先に、じっとりと嫌な汗が滲む。普段なら絶対にありえない些細な動揺が、確かな形となって現れたことに自分でも驚いた。
「鬼塚部長……」
背後から遠慮がちな声がかかる。振り返ると、片桐が心配そうに眉を寄せていた。
「大丈夫ですか? 少し顔色が……」
「問題ない」
即答するも、声が僅かに揺れるのを抑えきれなかった。
(落ち着け。会議で何を言われるかわからない以上、必要以上に狼狽えるべきじゃない)
深く息を吸い込み、思考を整理しようとする。瀬名のスマホにあった「真奈美」という女性の影──その不安は依然として胸の奥で燻り続けている。だが、今は職場でのこの妙な状況に対処しなければならない。
会議開始の時間が近づくにつれ、ざわめきはさらに色濃くなっていった。
普段なら軽口を叩き合っている若手たちも、今日は皆、どこか落ち着かず視線を伏せている。
(……完全に何かあるな。俺の知らねぇところで)
胸の奥でざらついた不安が広がる。
書類の束を持ち直すと、手汗で紙が少し湿っているのに気付いた。こんな感覚は久しぶりで、正直気分が悪い。
「……部長」
片桐が小声で呼びかける。その目は「気をつけて下さい」と言外に告げていた。
理人は小さく頷き返すと、重い足取りで会議室の扉を押し開けた。
――定例の企画会議。
既に幹部たちが揃っており、視線が一斉に理人へ向けられる。その中に、余裕たっぷりに椅子へふんぞり返る岩隈の姿もあった。
予定通り、理人はプレゼン資料を映し出し、冷静に開発中の新製品の概要を説明していく。
数件の質疑応答を受け、最後のスライドを閉じて席に戻った瞬間――。
「……ふむ。実に興味深い」
岩隈の声が、わざと響き渡るように会議室に落ちた。
次の言葉を待つ空気が張り詰める。
「だが、今説明のあった“新型の電波ジャック装置”――既に市場に出回っているようだが?」
岩隈の声音は冷ややかで、まるで最初から結論ありきの問いかけのようだった。
会議室の空気がピタリと止まり、数十の視線が一斉に理人へと突き刺さる。
「……は?」
理人は思わず声を洩らした。まさか、この場でその名を聞くことになるとは思わなかった。
あれはまだ試作品の段階で、資料も現物もすべて自分が管理していたはずだ。社内でもごく一部の人間しか知らない。
あと一人持っている可能性があるとするならデモ機を一つ、間宮がまだ持っていたはずだ。先日回収しようと思っていたのに、うっかり忘れてしまっていた。
(……まさか、あいつか……!)
理人の脳裏に嫌な予感が走る。もしあのデモ機がまだ間宮の手元にあるなら、外部へ流出しても不思議はない。だが、それを説明したところで誰が信じるだろう。今さら「うっかり忘れていた」などと言えば、弁解どころか自らの無能を認めるようなものだ。
「鬼塚君」
岩隈の声が再び鋭く響く。
「今朝がた、警察官を名乗る人物からこちらに連絡があってね。キミが出社前で受付の子が困っていたので代理で私が対応したんだよ。そしたら、新型の情報書き換え装置?を警察の方で導入したいから発注を頼みたいと言うじゃないか。ついさっきこれから本格的に製品化に向けてプレゼンをしたばかりの商品の情報を、どうして警察が知っているんだ? 」
「そ、それは……」
ざわめきが一段と大きくなり、理人の視線がわずかに揺れる。その様子を見逃さず、岩隈はさらに追い打ちをかけてきた。
「どうやら心当たりがあるようだね?」
勝ち誇った笑みを浮かべ、わざと声を張り上げる。その声で、理人は確信した。岩隈は自分を潰そうとしに来ているのだ。
副社長就任が目前に迫った今、裏で彼を支えてきた理人の存在は逆に脅威になると考えたのだろう。そこに、偶然情報漏洩の可能性が転がり込んできた。まさに水を得た魚のように活気づき、周囲に理人に対する疑惑を植え付けようと躍起になっているのだ。
「待ってください。鬼塚部長がそんなことをするはずがありません!」
思わず片桐が声を上げる。しかし、岩隈は冷たい視線を向け、鋭く切り捨てた。
「君は黙っていなさい、片桐課長。今は情に流される場ではない」
「……っ、す、すみません」
片桐は悔しそうに唇を噛み、渋々引き下がる。拳を握りしめながらも、それ以上言葉を続けることができなかった。
唯一自分を庇おうとした声までも封じられ、理人は静かに息を整えた。
ここで動揺すれば、相手の思う壺だ。
ざわめきが再び広がり、誰もが理人の次の言葉を待っている。
しかし、その空気は「弁解してみろ」というより「白状しろ」とでも言いたげな圧力を孕んでいた。
「……」
理人は口を開きかけたが、すぐに閉じた。中途半端な言い訳を並べても状況を悪化させるだけだ。
その沈黙を、岩隈は勝利宣言と受け取ったのだろう。
「残念だよ、鬼塚君。君ほどの人材がこのような形で社の信用を損なうとはね。社長――」
わざと大仰に視線を動かし、社長席へと話を投げかける。
「この件、会社の存続にも関わる重大コンプランス違反です! 徹底的な調査を行い、その間、鬼塚君には謹慎を言い渡すのが妥当かと」
周囲の役員たちがざわめき、数人は無言で頷いた。
理人は俯いたまま、拳を膝の上で固く握りしめる。
(……ここまでか)
胸の奥がじわじわと冷えていく。
だが、それでも理人の瞳は濁らなかった。逆境にこそ燃える性分が、ここで挫けることを拒否していた。
社長が静かに目を閉じ、長い沈黙のあとに口を開いた。
「……岩隈君の言う通り、この件は軽視できない。鬼塚君、正式な調査が終わるまで、君は謹慎処分とする」
その言葉が落ちた瞬間、会議室の空気が一気に決定事項として固まった。
理人は膝の上の拳をぎゅっと握り締め、短く「……承知しました」とだけ答えた。
無数の視線が、まるで罪人を見下ろすかのように突き刺さる。
それでも理人は背筋を伸ばし、椅子を引いて会議室を後にした。
背中越しに聞こえるざわめき――疑念、安堵、嘲笑。
それらすべてを無視し、理人はドアを押し開けた。
廊下に出た瞬間、張り詰めた空気が途切れ、理人は小さく息を吐いた。
「お、鬼塚くん大丈夫かい……?」
心配そうに声をかける片桐に、理人は困ったように眉を寄せ、ため息交じりに応えた。
「片桐課長……すみません。あとの事は……頼みます」
「で、でも……! こんな一方的な……!」
「いいんです。今、あれこれ言ったってどうせ誰も聞く耳なんて持っていないでしょうし、私自身情報を整理する時間が欲しいんです」
「……頼みます」
それだけ告げると、理人は踵を返した。
会議室に残ることも、言い争うこともせず。それが、いまの自分にできる唯一の選択だった。
「りひ……鬼塚部長!」
席に戻って荷物を整理していると、瀬名が血相を変えて飛んできた。何か言いたげな視線が痛いほど刺さる。
「……悪いが、一人になりたいんだ」
短く告げると、瀬名は泣きそうな顔になりながらも唇を噛みしめ、小さく頭を下げた。
「っ……でも……」
「すまん。……しばらく迷惑掛ける」
その言葉に微かに頷き返し、理人はオフィスをあとにした。
廊下を歩く靴音が、いつもより少しだけ重く響く。
途中、いくつかの部署の前を通り過ぎると、ヒソヒソとささやき声が耳に届いた。
「やっぱり……」
「あの噂は本当だったのか……」
「情報漏洩だって」
「……犯罪じゃないか」
(くだらねぇ。全部俺のせいにしときゃいいんだろ)
内心で毒づきながらも、それらの声を振り切るように足を速める。
重い足取りでエントランスを抜け、駅までの道のりを歩きだそうと一歩踏み出した時、スラリとしたモデル体型の女性とすれ違った。それだけならよくある光景なのだが、その彼女から瀬名が愛用している香水の香りがして理人の足がぴたりと止まる。 オフホワイトのワンピースを身に纏い、背中まである美しい黒髪を靡かせながら今、理人が出て来たばかりのオフィスへと足取り軽く向かって行く。間違いない、コイツが真奈美だ。
直感的にそう思った。
その手にはランチボックスらしきものを持っているのが見えて、胸が締め付けられるような思いがした。
何処で何をしている人物なのかは知らないが、わざわざ弁当を届けに此処まで来たと言うのだろうか。その事になんとも言えないモヤモヤした気持ちが湧き上がってくる。瀬名は真奈美に愛されている。それを再認識させられて胸がズキズキと痛んだ。実際に彼女の姿を目の当たりにしたことで、益々自分の存在意義がわからなくなっていく。
胸の奥を氷水で満たされたような感覚。足が止まりかけるが、振り返ることすらできない。
つい先ほどの心配そうな瀬名の顔が脳裏を掠め、胸を締め付けた。
(……もしかしたら、俺の居場所なんて、最初から無かったのかもしれない)
「……っ」
きっともうすぐ瀬名もここから出て来るだろう。仲睦まじい姿を見せ付けられるなんて考えるだけでもゾッとする。
そんなの見たくない――。
理人は急いで駅まで走り、電車に飛び乗った。家に着くまでに数件瀬名から着信が入っていたようだが、折り返すこともせず着の身着のままベッドに倒れ込んだ。スーツが皺になるかもしれないとも思ったが、どうでもいい。このまま闇に沈んでしまいたかった。
ふと、部屋の隅に置かれている渡しそびれたままのプレゼントが目に付いた。 血痕が付いたままになっているソレは酷い有様で、こんなもの渡せるわけがないと自嘲気味に笑う。
中途半端な状態が今の自分と重なって余計に虚しくなった。
じわりと滲んできた涙を枕に擦り付け、気持ちを落ち着かせる為に深呼吸を繰り返した。
結局、なんだかんだと甘い言葉を囁いていたのは、ただのリップサービスみたいなものだったのだろう。
本気で思ってくれていたとしたら、女遊びなんて出来るはずがない。
(自分だけ舞い上がって浮かれて……馬鹿みたいじゃねぇか)
真奈美の存在を知った以上、瀬名との関係はこれで終わりだ。続けていく事など出来るはずがない。
瀬名の本命は間違いなく真奈美で、自分など眼中にない事がよくわかった。これ以上一緒に居ても傷つくだけで、それならば早いうちに離れた方がいい。
初めて抱かれたあの日から、瀬名の腕の中が心地良い場所になっていた。瀬名に触れられると心が満たされた。だが、それも全て自分の勘違いだったのだ。
瀬名にとっては都合がいい男だったんだろう。妊娠させる心配はないし、身体の相性がすこぶる良かった。ただそれだけだったのに、それを愛されていると勘違いしてしまった。
結局全ては理人がひとり相撲していただけだったのだ――。
仕事でも、仲間を守れずに疑いを掛けられ、居場所を失った。
恋でも、自分だけが舞い上がって滑稽に踊っていただけ。
何もかもを失ったという現実が、胸を締め付けて離さない。
そう考えると、どうしてもあふれる涙を止めることが出来なかった。
翌朝、目覚めて喉の渇きを覚えた理人は、ミネラルウォーターを取りに部屋を出た。
すると、タイミング悪くバスルームから出てきた瀬名と鉢合わせる。上半身裸で、首には白いタオル。濡れた髪から滴る雫が鎖骨を伝っていくのを見てしまい、理人は思わずドキリとした。
――こんな時でも反応してしまう自分に呆れる。
唐突に出くわし、動揺のあまり言葉が出てこない。顔がこわばった理人を見て、瀬名は訝しげに首を傾げた。
「理人さん? よかった。電話にも出てくれないから心配したんですよ。もう、大丈夫そうですか?」
いつもと変わらぬ様子の瀬名に、理人はかえって戸惑った。
(なんで……。会社であんな目に遭ったばかりなのに。女と一緒にいるところまで見せつけられて……どうしてこいつは、何事もなかったみたいな顔で立っていられるんだ)
「……女連れで電話なんかしてくるんじゃねぇよ。どういう神経してんだ」
なるべく平静を装ったつもりだった。皮肉を込め、冷ややかに言い放った。
だが、瀬名はキョトンと目を丸くし、心底不思議そうな表情を浮かべる。
「え? 何を言ってるんですか……? あの後、社内は大変だったんですよ。それに、女連れって?」
「……っ」
まだしらばっくれるつもりか。理人は苦虫を噛み潰したような顔で睨みつける。
「昨日の昼に女と一緒にいたのはわかってる。わざわざ弁当持って迎えに来てたじゃねぇか。会社でイチャイチャとはいいご身分だな」
「ちょ、ちょっと待ってください! 何の話ですか?」
「誤魔化すんじゃねぇ! どうせ帰りも一緒に出て行ったんだろう?」
胸の奥にこびりついた疑念と、会社での失態による自責の念――。それらが混ざり合い、怒りとなって溢れ出す。
一方の瀬名は困惑を隠せない。しばらく口を噤んでいたが、やがて深く息を吐き、小さく呟いた。
「ええっと……どうしたんですか? さっきから会話がかみ合ってない気がするんですけど……?」
それでも理人は睨みを緩めなかった。瀬名の態度は演技にも見えず、だからこそ余計に苛立つ。
「ふざけんな! わざわざ弁当持ってきた女が居ただろうが! 帰りも一緒だったくせに……好きな女が出来たんなら、はっきりそう言やぁいいじゃねーか!」
怒鳴りつけると、瀬名が大きく目を見開いた。
「理人さん、何か誤解してます。真奈美はとはそんなんじゃ――」
「うるせぇ!! 言い訳なんて聞きたくねぇ! さぞ滑稽だっただろうな。浮気してるのに気付かず、馬鹿みてぇにお前に溺れてた俺の姿は。……どうせ俺なんてただのセフレだから、傷ついても構わねぇって思ってたんだろ!」
吐き出すほどに惨めさが募り、胸が焼け付く。悔しくて、情けなくて、自分でも何を口走っているのかわからない。
「理人さん、落ち着いて下さい。とりあえず話を――」
「話なら後で聞いてやる。今はとにかく出て行ってくれ」
「理人さ――」
「触るな!!」
伸ばされた手をパシッと払い除け、鋭く睨みつける。
「さっさと出て行け! 頼むから、今だけは一人にしてくれ」
泣きそうな声で懇願すると、瀬名は困惑の色を浮かべたまま小さく息をつき、「わかりました」と呟いて背を向けた。
だが、その背に理人は冷ややかに言葉を重ねる。
「あぁ、それと。今後は仕事以外で俺の部屋に来るのも、連絡するのも一切止めてくれ」
「……っ」
「それがお互いの為だ」
冷たく言い放ち、リビングへと歩き去る。瀬名は伸ばしかけた腕を途中で止め、肩を落として立ち尽くすしかなかった。