テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#恋愛
ばたっちゅ
19,196
臣桜
49,100
#両片思い
当麻月菜
268
車に乗り込んだ菜穂子は、シートに深く身体を埋める。
「……なんか、思ってたのと違ってた……」
「既に結婚届は提出済みなんだから反対されても困るだけだろ?」
「それはそうなんですけど……」
なんか喜べない、と渋面になる菜穂子に、隣に座る真澄は呆れ顔になる。
「なんだ?俺が君の父親に一発殴られるのを期待してたか?」
頬杖を付いてクスリと笑った真澄は、からかっているだけなのかもしれない。
でも菜穂子は、ムッとしてしまう。誰がイケメンの殴られる姿を見たいというのか。
「そんなこと期待するわけないじゃないですか!柊木社長、私のことどんな風に──」
「真澄だ」
「え……?」
「これからもずっと俺のことを柊木社長と呼ぶ気か?」
「……駄目ですか?」
「駄目に決まってる」
秒で却下され、菜穂子は「えー……」と、困り顔になる。
「なんか名前で呼ぶより、柊木社長って呼ぶ方がしっくりくるんですけどぉ……」
「なら君も社長にしてやろうか?そうすれば君も、そう呼ばれることがおかしいことに気づくはずだ」
「なっ……!」
サラリと言った真澄の規格外の提案に、菜穂子は思わず身を引く。
「じゃあ!先に私のこと名前で呼んでくださいよ。柊木社長だって、私のこと”君”とか”お前”って呼んでるじゃないですかっ」
子供みたいな言い分だが、ごもっともな指摘に真澄は「うっ」と声をつまらせる。
「ほらっ、言えないじゃないですかぁー」
昨日から、なんだかんだいって真澄のペースに吞まれていた菜穂子は、必要以上に、にんまりと笑ってしまう。
「結婚したならこうしなきゃいけないとか、こうするべきとか……色々ありますけど、そもそも私たちって、まともな結婚じゃないんですよ?だから別に、無理して型にはめようとしなくたっていいと思うんですよね。そう思いません?」
菜穂子なりにまともな意見を口にしたつもりだったが、真澄は頷かない。
「もしかして柊木社長……名前で呼んで欲しいんですか?」
「そういうこと、はっきり口にするか?」
拗ね顔になった真澄は、大財閥の御曹司感は消えて、ただの青年みたいだ。なんだか散歩をお預けされた大型犬みたいで可愛い。
「もぉー、しょうがないですね。真澄さん。それとも、まぁ君のほうがいいですか?」
「っ……!」
クスクス笑いながら菜穂子がそう言った途端、真澄は小さく息を吞んだ。
「あ、ごめんなさい。ちょっと調子こき過ぎでしたね。やっぱ名前は……っ!」
両手を胸の前で振って発言を取り消そうとした菜穂子の手を、真澄はギュッと強く掴んだ。
「いい」
「え?」
「今ので、いい」
吐息が触れるほど真澄に顔を近づけられ、菜穂子は不覚にもドキッとしてしまう。
「……いいん、ですか?」
「ああ」
「じゃあ……まぁ、君」
「なんだい?菜穂ちゃん」
菜穂ちゃんなんて呼ばれるの、小学生ぶりだ。スチール缶を片手で握り潰せる今の菜穂子には、ちょっと可愛すぎる。
でも、嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑う真澄を見て、菜穂子はすんなり受け入れた。
「まぁ君、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。菜穂ちゃん」
契約結婚なのに、一年後には離婚するのに。
甘酸っぱい雰囲気に飲まれて、菜穂子はモジモジしてしまう。
でも、この数時間後──菜穂子は真澄の25歳年上の清楚で美人な片想い相手と対面することになる。
*
人妻になった菜穂子だが、デザイン事務所での業務は昨日と変わらない。
菜穂子は専門的なデザイン技術を身に着けていないので、アシスタント作業が主な仕事だ。見積もりを作って、先方との納期の連絡のやり取りをして、変更依頼を受ければ在籍しているデザイナー達に振り分ける。
誰でもできる仕事と言われたらそれまでだが、それなりにコツが必要だし、やりがいもある。
そして、かなり忙しい。おかげで既婚者になった現実にネガティブなる時間もなく終業時間を迎えることができた。
「お疲れさまでした!お先に失礼しまーす」
18時きっかり。菜穂子は通勤カバンを手にして、デザイン事務所の自席から立ち上がる。
「うん、お疲れ。来週から忙しくなるから週末はゆっくり休んでね。あと、改めて契約本当にありがとう」
所長から感謝の言葉を受けたのは、今日で通算25回目だ。
さすがに貰い過ぎだ。でも絵にかいたようないい人である所長は、毎回心を込めて「ありがとう」を口にしてくれる。
所長は48歳、バツイチ、独身。振り返るほどハンサムではないが、すこしぽっちゃり体系で優しい性格だ。
そのせいで、奥さんの浮気を毎度許してしまい、最終的に「あなたの優しさが辛い!」と離婚を告げられてしまった。
『俺さ、何が正解だったのか未だにわかんないんだよね……』
ポツリと、窓に目を向けながら呟いた所長は、達観した表情を浮かべていた。
あの頃、まだ大学生だった菜穂子は気の利いた言葉を返すことが出来なかったけれど、来年の今頃なら、所長と語り合える予感がする。
ただ、真澄と結婚をしたことは、しばらくデザイン事務所には内緒にしておくつもりだ。
大口のクライアントの妻が事務所で働いている。そんな状況は、仕事がやりにくいだろうし、気を遣うだろう。
薄給だし、残業も多いが、この職場を大事にしたい菜穂子は、秘密を抱えたままデザイン事務所を後にした。
コメント
1件
菜穂子さんと真澄さんの距離感がじわじわ縮まっていく感じ、すごく好きです。特に「真澄さん」と呼んだ瞬間の真澄さんの反応が可愛くて、思わずニヤニヤしちゃいました。契約結婚なのに甘酸っぱい雰囲気に流されていく二人に、これからどうなるんだろうとドキドキ。最後の所長のエピソードも、この作品の優しい空気を深めてて良かったです。続きが気になります!