テラーノベル
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ギルドの大扉を抜けると、すでにグランフォートの街は茜色の夕暮れに染まり、昼間の様相とはまた違う熱気に包まれていた。
「わぁ……っ」
ソラスは思わず足を止め、感嘆の息を漏らした。祖国――エルディアの整然とした、しかしどこか冷たく息苦しい石造りの街並みとは、すべてが対極にある。
大通りには、色鮮やかな天幕を張った露店が所狭しと並んでいた。スパイスの焦げる香ばしい匂いと、甘い果実酒の香りが入り混じり、風に乗って鼻をくすぐる。行き交う人々も様々だ。人間の商人とエルフの傭兵が肩を並べて笑い合い、獣人が迷宮で採掘したと思われる発光性の鉱石を大声で売り捌いている。あちこちの軒先に吊るされた、ガラスと魔石でできた風鈴が、風紡ぎの国の名を示すようにチリン、チリンと涼やかな和音を奏でていた。
「どうだ、お嬢ちゃん。たまげたか?」
カイルが豪快に笑いながら、露店で買ったばかりの巨大な肉串をソラスに差し出した。
「ほら、食ってみろ。迷宮の浅層で狩れた岩石鳥の串焼きだ。硬えが噛めば噛むほど味が出るぞ」
「ありがとうございます……、ん、おいしい!」
おずおずと口に運んだソラスの青い瞳が、ぱぁっと輝く。それを見て、カイルだけでなく、横を歩くハイネスも微かに口角を上げた。
「ここは迷宮の恩恵と、自由を求めて集まった奴らの吹き溜まりだからな。良くも悪くも過去なんて誰も気にしねえ。生きてりゃ丸儲けって街さ」
カイルの言葉に、ソラスは串焼きを頬張りながらコクリと頷いた。雑多で、騒がしくて、混沌としている。けれど、誰もが明日を生きるための活力に満ちている。この空気が今のソラスには心地よかった。
「ほら、寄り道しないで。今日はもう休むわよ」
先頭を歩いていたゼータが、振り返って手招きする。彼女が案内したのは、喧騒から少し離れた高台にある、一際立派な三階建ての建物だった。
白亜の壁に、蒼い屋根瓦。入り口には”光樹の回廊”と刻まれた上品な看板が掲げられている。扉を開けると、上質な香木の匂いと、暖炉のパチパチとはぜる音が一行を出迎えた。床にはふかふかの絨毯が敷かれ、ロビーには長旅の疲れを癒すための豪奢なソファが並んでいる。荒くれ者が集うギルドの熱気とは打って変わって、ここは選ばれた者だけが立ち入れる静謐な空間だった。
「あら、ゼータ様。それにカイル様にハイネス様、メルティナ様も。おかえりなさいませ」
カウンターの奥から現れたのは、仕立ての良いドレスを着こなした初老の女将だった。A級冒険者である四星を相手にしても全く物怖じしない、肝の据わった笑みを浮かべている。
「女将さん、ただいま。いつもの最上階の貸切フロアなんだけど……もう一部屋、空きはあるかしら。新入りが一人増えたの」
ゼータがソラスを前に押し出すと、女将は目を丸くした後、ソラスの頭のてっぺんから足の先までを興味深げに見つめた。
「まあ、随分と可愛らしいお嬢さん。暁月の方々が新顔を入れるなんていつぶりでしょうね。……ええ、ゼータ様の隣の部屋が空いていますわ」
「はいはーいっ!! 待った、待ったぁっ!!」
静かなロビーに、突如としてメルティナの絶叫が響き渡った。彼女はものすごい勢いでソラスの隣にスライディングし、ソラスの手を両手でガシッと握りしめる。そのルビーの瞳はこれ以上ないほど血走っていた。
「へ、部屋割りなら、このメルティナにお任せください! 私がソラスちゃんと同室になります! 夜通し、魔法の真髄について語り合い、あんなことやこんなことを教え合う必要がありますからっ!!」
鼻息を荒くして熱弁を振るうメルティナ。
しかし、次の瞬間。
ゴッ!
「あ痛ぁっ!?」
ゼータの容赦ない手刀が、メルティナの脳天にクリーンヒットした。
「あんたの欲望がだだ漏れなのよ。初対面の子を怯えさせてどうすんの。ソラスが一睡もできなくなるでしょ」
「ひどいっ! 私はただ、この愛くるしい妖精さんを夜の冷え込みから守ってあげようと……っ!」
「いいから黙ってなさい。……で、ソラスの部屋は私の隣にするわ」
涙目で頭を抱えるメルティナを放置し、ゼータは女将から鍵を受け取った。
「俺が同室でもいいが。護衛なら請け負う」
ぽつりと、ハイネスが感情の読めない顔で恐ろしい爆弾を発言した。その瞬間、ゼータとカイル、そして床にうずくまっていたメルティナの三人が同時に彼を指差す。
「「「男は論外だ(よ)!!」」」
「……冗談だ。少しからかってみただけだ」
総ツッコミを受け、ハイネスはふいっと視線を逸らす。しかし、その耳がほんの少しだけ赤くなっているのを、ゼータは見逃さなかった。
――こいつもこいつで、ソラスの顔立ちに見惚れてんじゃないわよ……。ゼータは深いため息をつき、ソラスの肩に手を置いた。
「いい? ソラス。あんたの部屋は私の隣。壁一枚隔てたコネクティングドアの鍵を開けておくから、夜中に何かあったら……そうね、メルティナが夜這いをかけてきたりしたら、すぐに私の部屋に逃げ込んできなさい。黎刃で一思いに斬り捨ててあげるから」
「な、なんで私前提なのっ!? 心外!!」
喚くメルティナの声がロビーに響き、カイルが腹を抱えて笑い転げる。
「ふふっ……あはははっ」
そのドタバタ劇を見ていたソラスの口から、自然と笑い声が零れた。最初はクスクスと、やがて、お腹を抱えるような弾ける笑顔で。かつての冷たい尖塔での壮絶な日々を経た後、故郷を出てあんなに孤独だったのに、こうして今は、騒がしくて温かい人たちに囲まれている。
「……よろしくお願いします、ゼータさん、皆さん」
ソラスが満面の笑みでそう言うと、暁月のメンバーたちは――メルティナは鼻血を出しそうになりながら――それぞれ柔らかく微笑み返す。自由の風が吹く街グランフォート。宿舎の温かな灯りの中で、少女の新しい生活が幕を開けた。
■
夜の帳が下りると、盟都の喧騒は遠い波の音のように穏やかなざわめきへと変わった。ソラスはあてがわれた豪奢な部屋のベッドに腰掛け、ふう、と小さく息をつく。
ふかふかのマットレス。上質なシーツ。窓の外で揺れる、魔石の街灯の淡い光。今日一日で起きた出来事がまるで夢だったのではないかと思えるほど、静かで平和な夜だった。
トントン。
不意に控えめなノックの音が響く。隣のゼータの部屋に通じるコネクティングドアからではない。廊下に面した本扉からだ。
「……ソラスちゃん。起きてる……?」
昼間の嵐のようなテンションとは打って変わった、すっかり声のボリュームを落とした囁き声。ソラスが”起きてますよ”と答えて扉を開けると、そこには薄手の上着を羽織り、もじもじと身をよじるメルティナが立っていた。手には、湯気を立てる二つのマグカップが握られている。
「あの、ね。眠れなくて……温かいカモミールミルクを淹れてみたんだけど、一緒にどうかなって思って。……迷惑だったかな?」
上目遣いで様子を窺うルビーの瞳は、昼間の変態的な暴走が嘘のように、しおらしくて初々しい。二人きりになった途端、極度の緊張と本来の気質が混ざり合い、すっかり大人しくなってしまったようだ。
「ううん、全然! 嬉しいです。入ってください」
ソラスが微笑んで招き入れると、メルティナは”お、お邪魔します……”と少し顔を赤らめながら部屋に入り、ソラスの隣にちょこんと腰を下ろした。二人並んで温かいマグカップを両手で包み込む。カモミールと甘いミルクの香りが、張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。
「……すごい一日だったね」
ぽつり、とメルティナが静寂を破った。
「ソラスちゃん、魔法の詠唱も知らないって言ってたのに、あんな凄いことできちゃうんだもん。魔法使いの端くれとして、ほんとにびっくりしちゃった」
「ごめんなさい……。私、本当に世間知らずで。ずっと田舎の塔みたいな場所にいて、そこを去った後は一人だったから……こんなにたくさんの人がいる街を歩いたのも、みんなで賑やかにご飯を食べるのも、初めてに近くて」
ソラスがマグカップを見つめながら、ぽつぽつとこぼす。その横顔には、強大な魔力を持つ者には似つかわしくない幼さと孤独の影が落ちていた。
「一人で……」
メルティナの胸が、ぎゅっと締め付けられる。こんなに白くて、細くて、綺麗で、儚い女の子が、長く孤独の中にいた。その事実が、彼女の過保護なまでの庇護欲を激しく掻き立てる。
「……これからは、一人じゃないからね」
メルティナは少しだけ勇気を出して、ソラスの空いている方の手に自分の手をそっと重ねた。
「私たちが……ううん、私が、ずっとソラスちゃんの傍にいるよ。魔法のことも、この街のことも、美味しいお菓子の店も、全部教えてあげるからね」
「メルティナさん……」
「メル、でいいよ。ね?」
優しく微笑むメルティナに、ソラスも”メルさん”と嬉しそうに目を細める。その直後だった。
こくり。
ソラスの頭が小さく揺れた。とろんとした青い瞳が、ゆっくりとまぶたの裏に隠れていく。
「あれ、ソラスちゃん……?」
「……んん……なんだか、急に、目が……」
見知らぬ土地への長旅、人の多すぎる大通りでの困惑、極度の緊張を伴ったギルドでの魔力暴走。そして、初めて触れる無条件の他人の歓迎。本人が思っている以上に、ソラスの心と体は限界まで疲労しきっていたのだ。カモミールミルクの温かさとメルティナの優しい声が、彼女の張り詰めていた最後の糸を解いてしまったらしい。コテンと、無防備な銀色の頭がメルティナの華奢な肩へと倒れ込んだ。
「えっ……あ……」
スゥ、スゥと、規則正しい寝息が聞こえてくる。マグカップを落とさないようにそっと受け取り、テーブルに置いたメルティナは、肩に伝わる確かな体温と柔らかさに、全身を石のように硬直させた。
ね、ねね、寝ちゃった……!? 私の肩で!?
心臓が、肋骨を突き破るのではないかというほどの早鐘を打つ。息をするのも忘れて、メルティナはゆっくりと、自分の肩に寄りかかるソラスの寝顔を見下ろした。
長い銀のまつ毛が、陶器のように白い頬に影を落としている。無防備に少しだけ開いた、ほんのりと桜色に色づく柔らかそうな唇。同性だとか、今日会ったばかりだとか、そんな理性はとっくに消し飛んでいた。ただ、この世界で一番美しい宝物が自分の腕の中にいる。
「……ソラス、ちゃん」
魅入られたように、メルティナの震える右手が持ち上がる。彼女はソラスの頬にかかった銀糸のような髪をそっと耳にかけ、そのまま、吸い寄せられるように指先を滑らせた。触れるか、触れないかの距離。メルティナの指の腹が、ソラスの柔らかな下唇に、そっと触れた。
「ん……」
ソラスが身じろぎをして小さく寝言を漏らすと、メルティナは弾かれたように手を引っ込め、顔から火が出るほど赤面して口元を両手で覆った。
わ、わたし、なんて大胆なことを……っ!! でも、すっっっごく柔らかかったぁ……!!
罪悪感と、それを上回る底知れない幸福感。メルティナは完全にノックアウトされた状態のまま、起こさないように細心の注意を払ってソラスをベッドに寝かせ、そっと毛布を掛けた。
「……おやすみなさい。可愛い妖精さん」
誰にも聞こえないほどの小声で最後に囁き、ソラスの額に落ちる前髪を優しく撫でる。こうして、波乱に満ちた夜は静かに更けていくのだった。
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