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キーボードをたたく長い指が止まる。
気配を感じたのか、結城がこちらを見上げた。
「———お疲れ様です。麻里子さん」
集金袋を手にそこに立っている麻里子に、薄く微笑むと、視線をディスプレイに戻しながら言う。
「勘定ですか?」
「うん」
「来店?」
「ううん。集金済み」
「じゃあそこに置いておいてください。領収書と一緒に。やっときますから」
結城のその冷たい対応に、坂井が慌てて麻里子を見上げる。
「麻里子さん、私でよければ、数えるくらいやりますけど」
「ありがとう」
麻里子は坂井に微笑んだ。
「でも結城にやってもらいたいから」
言いながら、ディスプレイから視線を離そうとしない彼のデスクに札束を置いていく。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
六つ。
七つ。
「ーーー嫌がらせですか」
思わず結城が吹き出しながら手を止める。
八つ。
九つ。
十。
「一本(1000万円)すね」
頬杖をつきながら微笑む。
「新車5台、よく頑張りました」
先週、意地で売り切ったその成果を、なぜか知っている結城を見て、麻里子も微笑んだ。
「結城、今までありがとう」
その意味を察したのか、坂井が目をそらす。
「私、もう、大丈夫だから」
その言葉に結城の顔から笑みが消える。
「来月から車両代、完全振込制になるんだってね。だからこれは、最後の嫌がらせ」
笑って麻里子が踵を返そうとすると、結城はその手をつかんだ。
「待ってください、麻里子さん」
「———え?」
「こんな大金、数えるときにくすねたと思われるの癪なんで、ちゃんと勘定する間、見ててください」
言いながら、談話室を指さす。
麻里子は頷くと、札束と領収書を抱える彼についていった。
談話室から見える新車展示スペースには、ホワイトパール、ワインレッドマイカ、シルキーブルーにボルドーメタリックと、色とりどりの展示車が、9月の日差しを浴びて光っている。
椅子に腰かけながらそれを見ている麻里子に、二束目を数え終わった結城が話しかける。
「あの。ちゃんと見ててもらいたいんですけど、数えるところ」
「大丈夫、音で聞いてるから」
「———————」
シャシャシャシャシャシャシャ……
「今、何枚ですか?」
「38枚」
即答した麻里子を結城は見上げた。
「ーーー正解」
「8年目ですからー?」
麻里子は久しぶりに正面から見る元彼に微笑んだ。
「そういえばさ、促進販売部の寒河江さん、いるじゃん」
「はい」
答えながらも結城は数える手を止めない。
「長澤医療機器販売の契約切られて、大目玉くらったらしいよ」
「きっとなんかやらかしたんでしょう。女性関係で」
「ね。みんなそう言ってる」
両手で頬杖をつきながら、結構普通に話せている自分に安堵する。
「ああいう悪い男から、坂井さんを守ってあげてね」
言ってみると、最後の札をパチンと鳴らして、四束目に取り掛かった結城はちらりと視線を上げた。
「彼女は大丈夫ですよ。自分でなんとかできる子ですから」
「へえ。そう」
(じゃあ、これからは安心できるね)
その言葉を飲み込みながら軽く息をつく。
「今何枚ですか?」
俯く麻里子に結城が聞く。
「52枚」
「さすが」
言いながら笑っている。
「経理部に来たらいいじゃないですか」
「まさか」
今度は麻里子は笑う。
「私は、営業が好きなのよ」
言うと、彼は視線を諭吉に戻し、
「知ってます」
また数え始めた。
「知ってるから、あなたの邪魔をしないように、負担にならないように、あんまり連絡も誘いも、こっちからしないようにしてたんですよ」
「そうだったんだ」
「平日も休みの日も全部忙しいってわかってたから」
「うん」
「でも」
その手が止まる。
「こんなことになるなら、我慢なんてしなきゃよかったな」
結城の口から、何かが零れた。
「余裕も隙もないように、時間的にも精神的にも拘束して、閉じ込めておけばよかった」
「ーーー」
麻里子は彼の本音が零れ落ちるのをただ目で追っていた。
「でもできなかった。ディーラーとしてのあなたが、ものすごく輝いていたから。
楽しそうで、人間味あふれてて。『車は人から買う』って研修で習った言葉を、あなたを見ていると本当の意味で理解できた」
「ーーー」
「輝くあなたは、いつか、俺のことなんてどうでもよくなってしまうんじゃないかと。
営業という、黒田支店という、同じ舞台で戦う宮内のもとに、いつか戻ってしまうんじゃないかと。
常に捨てられた時のことを考えて。いつでも離れられるように、一線を引いて付き合っていました」
一線を引いていた。
だからずっと、つかみどころがなかったのか。
だからずっと敬語だった。
「あなたに寄ってくる男たちに何度も不安になって。
なにも気づかずにのほほんとしているあなたに何度も腹が立って。
そのくせ往生際が悪くて諦めきれずに、ここまでズルズルと引っ張ってしまったんですけど」
こくんと喉を鳴らして唾液を飲み込んだ彼は、言葉を続ける。
「でも。この四年間。俺は、あなたの隣にいられて、幸せでした」
その目に光るものを見て、麻里子は膝の上に置いていた手を握った。
「52枚だよ」
「————え?」
「52枚。早く、続き、数えて」
言うと、結城は一瞬悲しそうに目を伏せ、そしてまた静かに紙幣を数えだした。
壁にかかっている静音式の秒針の音。
次々と折れ曲がっていく一万円札。
麻里子は目を伏せたまま、ある決心を固めていた。
数え終わった結城が、それを互い違いに受け皿に置いていく。
「一本あった?」
「はい」
「じゃあ、これ、端数ね。4358円」
「確かに」
それを確認すると、麻里子は立ち上がろうと椅子をずらした。
「麻里子さん。俺……」
結城が麻里子を見上げる。
「俺、やっぱり、麻――――」
「結城」
彼が何か言いだす前に麻里子はそれを遮った。
「私、思ったの。結城を不安にさせるくらいなら。仕事辞めようかなって。どこか別の職場に転職しようかなって」
麻里子は視線を上げた。
「でもダメだった。私、この仕事が好き。
自分から車を買ってくれたお客さんが好き。
先輩も後輩も、本部もバイトも、みんなのことが好き」
結城が視線を下げる。
「知ってますよ」
「だから」
麻里子はその寂しそうな顔に微笑んだ。
「結城だけを選べない」
「————」
(そんな顔をしないで。あなたを幸せにできるのはーーーー)
視線を落とした結城を見て、麻里子は立ち上がった。
(私じゃない)
「じゃあね。結城」
談話室を出る。
後ろでドアの閉まる音がする。
通路を歩き、顔を上げた坂井と視線が合わないように俯きながら通過すると、本部のドアを開けた。
階段を滑り落ちる。
空を駆ける馬が、輝く瞳でこちらを見下ろす。
(私も走り出そう。大きな空へ)
麻里子はそれを見て、涙が流れないように口を結んだ。
(結城を解放しよう。自由な空へ)