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園香は希咲の夫である名希沢清隆と会う約束の為に、事故の現場であるオフィスビルを訪ねた。
日記にその目的までは書いていないが、瑞記と希咲の不倫の件なのは間違いないだろう。
だってその頃の園香は、夫婦関係をなんとかすることしか頭になかったのだから。
そして清隆との話がどうなったのかは分からないけれど、階段から落ちて記憶を失う程の事故に遭った。
やはりなんとなく立ち寄った訳ではなかったのだ。
単に足を滑らせただけなのかもしれない。実際事故だと処理されていたのだし、清隆は関係ないかもしれない。
(でも……許せないと思う)
体の内からこみ上げる衝動は激しく、怒りの炎になって全身を巡る。
(瑞記も、名木沢希咲も、清隆も……みんな許せない!)
病院で目覚めて瑞記に夫だと名乗られた時から今日までの日々が脳裏を過る。
誰もが気づかう顔や困ったような表情を浮かべていた。
でもそれは嘘だった。何もかも忘れた園香を好都合とでも思っていたのだろう。
瑞記は園香が不倫を疑っているのを知っていたのに、希咲を改めて紹介した。
希咲はいかにも心配そうに、自分達はただの同僚だと言った。
そして清隆はまるで初対面のような顔をして園香を訪ねて来た。きっと記憶喪失が本当なのか自ら観察していたのだろう。
彬人は……彼だけは悪気はなかったのだと思う。
真実を教えてはくれなかったけれど、何も覚えていない園香に酷かった結婚生活について正直には言い辛かったのかもしれない。それに部外者の彼が知っている事情は一部なのだろう。仕方がない態度だと言える。
しかし瑞記たちからは悪意しか感じない。園香を心配なんてしていない。都合よく扱いたいだけだ。
なんて酷い人たちなのだろう。今すぐ罵倒したいくらいだ。
(瑞記に言ってしまいたい。前から不倫をしているのを知っているって、騙したことを絶対許さないって、)
瑞記は怒るだろうが、全て事実だ。彼が優等生のふりをしている義家族に暴露するのもいいかもしれない。
(そうすれば瑞記にも少しはダメージを与えられる。でも……)
ずきりと胸が痛み、ぽろりと涙が溢れて落ちた。
この痛みはどれだけ瑞記を罵倒してもきっと癒されない。
一時的にすっきりしたとしても、出来た傷はずっと残ったままだ。
人は蔑ろにされるとここまで傷つくのだと初めて知った。夫への愛なんて何も無い今ですらにこんなに苦しい。
もし大切な人から裏切られ、尊厳を踏みにじられたと感じたらどれ程苦痛なのだろうか。
怒りと悔しさ孤独感、様々な想いが胸を過る。
それでも……ようやく見つけたのだと園香は乱暴に涙を拭った。
瑞記と希咲が不倫関係だというはっきりした証拠がこの手にある。
心の痛みは消えないけれど、ただ猜疑心に苦しむだけの日々からようやく開放されたのは確かだった。
「お帰りなさい」
瑞記が帰宅したのは、園香が日記を発見してから三日後のことだった。
リビングで出迎えた園香を、瑞記は面倒そうな表情で見る。
「ただいま」
直前まで希咲と一緒に居たのだろうか。彼女の移り香が瑞記の体から漂って来る。
園香は苦笑いをした。
(匂いを消すことすらしないのは、私を甘く見ているから)
ばれてもなんとかなると思っている。
彼にとって園香は警戒する相手ではなく、面倒な相手なのだろう。
(でもそれももう終わりだけどね)
「話があるんだけど」
「はあ……またか」
瑞記はうんざりしている気持ちを隠しもせいずに、肩を落とす。
「会うのは十日ぶりなのに“また”?」
「嫌な言い方だな。喧嘩売ってるのか?」
瑞記の目じりが上がる。威嚇しているつもりなのだろう。
はい、その通りですと言いたい気持ちを抑えて、園香はダイニングテーブルの椅子を引く。
「座って。大切な話だから」
「はあっ、なんなんだよ」
ふてくされた瑞記が乱暴に椅子に座る。まるで反抗期の子供のようだ。
呆れていると瑞記がぎろりと睨んで来た。
「話があるなら早くしろよ!」
「そんなに急かさなくても……まあいいや。私、記憶が戻ったから」
もったいぶらずにさらりと告げる。瑞記の口が小さく開いた。
「え?」
瑞記はそれまでの激高が嘘のように、ただ驚愕の表情で園香を見つめる。
信じられないと言うよりも、信じたくない状況と言ったところだろうか。
間抜けな顔だ。園香は噴き出しそうになる衝動に耐えもう一度言う。
「一昨日、突然記憶が蘇ったの」
「う、嘘だ……」
「本当だけど。妻の記憶が戻ったのに喜んでくれないの?」
「い、嫌、そうじゃないけど……でもどうして今更記憶が……」
瑞記はかなり動揺している。園香の想像以上の慌てようだ。
「なんだか記憶が戻ると都合が悪いような態度だね」
「は? まさかっ! そんなはずないだろう」
大袈裟に否定する瑞記。彼は治って良かったと言ったり、お祝いするか? など落ち着きなく口を動かす。けれど。
「まあそうだよね。思い出して欲しくないことがたくさんだものね。例えば名希沢さんとの不倫についてとか」
続いた園香の言葉に、顔色を失くし目を見開いた。
血の気が引く様子を目の当たりにし、園香の口元が歪む。
「な、なに言ってるんだよ……くだらないこと言うな!」
瑞記は始めはしどろもどろに、だんだん怒りが戻って来たのか最後は殆ど叫ぶように大きな声を出す。
「くだらないって私は名木沢さん本人から聞いたんだけど?」
「は?」
余程予想外の発言だったのか、瑞記が半笑のような表情になる。
「いやあり得ないだろ? どうして希咲がそんなことを言う必要があるんだ! だいたい園香と希咲がいつ会ったんだよ!」
瑞記の表情からは不安が読み取れる。大声を上げるのは虚勢を張っているからなのかもしれない。対して一度どん底まで沈んだ園香の心は簡単には揺らがない。彼を観察するだけの余裕がある。
「二月十日」
「え?」
「彼女がここに来たの。瑞記との不倫の件はそのとき聞いたわ」
瑞記の視線が落ち着きなくあちこち彷徨う。
記憶を探っているのか、または何か言い訳を考えているのか動揺が隠しきれていない。
やがて彼は冷静になったのか園香をきっと睨み口を開いた。
「どう考えても希咲がわざわざそんなことを言いに来る必要がない。嘘をつくな」
「嘘じゃないけど。彼女が突然訪ねて来たのは、二月八日に私と瑞記が大喧嘩したから。私はそのとき既に瑞記と名木澤さんの関係を疑っていて、かなり問い詰めたよね。瑞記は私との喧嘩の件を名希沢さんに報告したんじゃないの? 彼女は私に余計なことを言うなと釘を差しに来たんじゃないのかな?」
「……希咲がそんなことをする訳がない! 彼女は俺の離婚を望んでいないんだから!」
瑞記の叫びに園香は片眉を上げた。
(この言葉は本気に見える。もしかしたら名木沢希咲に離婚しないように言われてるの?)
頑なに離婚を拒否するのは世間体ではなく、希咲の意向だった?
事実をなんとか聞き出せないかと、園香は何を聞くべきかと慎重に思考を巡らす。
「……私には離婚を仕向けるような発言をしてたけどね」
「嘘を言うな!」
「嘘じゃないよ。だって離婚して欲しくないなら、どうしてわざわざ私に会いに来たの?」
「そ、それは……」
「離婚しないで欲しいと思うなら、やましい関係ではないことを証明するのが自然じゃない? でも彼女はむしろ挑発的な態度で私に嫌味を言うくらいだった」
日記に書いてあったことから状況を読み取って話している。つまりは想像なのだが、瑞記と話しているうちにそれが現実に起こった、自身の記憶だと感じるようになっていた。
そんな園香の態度を目の当たりにした瑞記は、本当に記憶が戻ったのだと信じたようだった。
口惜しそうに唇を噛み、それから怒りの眼差しを園香に向ける。
「希咲が挑戦的なのは怒っていたからだ! だって本当にその頃の俺たちはやましい関係じゃなかったんだからな。勘違いで責められたら怒るのは当たり前だろう」
(その頃の俺たちは?)
園香はすっと目を細めた。
瑞記が気付いているかは分からないが、彼は現在の不倫を自白したようなものだ。
(でも少なくとも二月の時点では不倫関係じゃなかったということ?)
「確かに家には帰らなかったけど、それは園香がいつも不機嫌で居心地が悪かっただからだ。それに仕事に対して理解がなかった。家にいるのが嫌だったんだよ! それだけなのに希咲のせいにするなよ!」
瑞記は不倫の自白に気付いていないのか強気だ。
園香は小さく息を吐いた。
「仮にそのときやましいことが無かったとしても、今は不倫してるってことね?」
「は……何言って」
「自分で言ったんじゃない。“その頃の俺たちはやましい関係じゃなかったんだ”って」
瑞記の顔が驚愕に染まる。ようやく自身の失態に気付いたようだった。