春を告げる鳥の声がすっかりと当たり前になり、街を行き交う人々の服装も春らしい淡い色合いや軽やかなものが増えてきたある日の午後、今日も今日とて誠実に患者と向き合った後の疲労を覚えたウーヴェは、最近疲労がなかなか取れないから泡がふんだんに作れる新しい入浴剤を買ってみようかと思案するが、入浴剤のコーナーの前でリオンとちょっとした言い合いになった事を思い出す。
ウーヴェにその原因の自覚がほぼ無いのだが、泡立ちの良い入浴剤をバスタブに入れると、高確率でバスタブの中で居眠りをしてしまうのだ。
当初リオンが呆れたりからかったりと何とかその癖を直させようと努力を試みたが、空きっ腹に酒を飲むことと同様、バスタブで泡塗れで眠り込んでしまう事だけはどうあっても直らないと、早々に匙を投げてしまったのだ。
眠ってしまうほど気持ちが良いことを諦めの境地でリオンが悟ったようで、そうなれば仕方が無いと腹を括り、それ以降ウーヴェが泡塗れになる時はリオンも一緒に泡塗れになる事にしたのだ。
そのささやかな口論を思い出し、何故寝てしまうんだと言われても身体がそうなってしまっているのだから仕方が無いと到底理論的とは思えない反論をしたウーヴェにリオンも根負けしたのかそれ以上何も言わなくなったことを思い出す。
そんな、当人同士以外にとっては心底どうでも良いような悩みを溜息をと共に吐き出したウーヴェは、ノックとは断じて呼べないそれを聞いて飛び上がりそうになり、そんな物音を立てるのがただ一人である事からにどうぞとぞんざいに声を掛ける。
「ハロ、オーヴェ! 今日も頑張ってきたぜー」
ドアを殴りつけるノックもそうだが、ドアを開け中に入ってくる、たったそれだけの行動が何故か人一倍騒々しいが、それが失われてしまった期間を経験した今、その騒々しさも愛すべきものと実は思いつつもつけあがらせてはいけないとの思いからそれを封じているウーヴェが呆れたように溜息を吐き、そんなに激しくノックをしなくてもまだ耳は遠くないと皮肉を呈すると、何だ機嫌が悪いのかと馬耳東風と言った体で小首を傾げられる。
「……それよりもさぁ、頑張って働いて来たんだからさぁ、褒めてくれても良いんじゃね?」
春の心地よい天気の中会社で仕事をしてきたのだ、褒めて褒めて褒めまくれと開け放ったドアに肩で寄り掛かりながら腕を組んだリオンの言葉から敏感に何かを察したウーヴェが静かに立ち上がると、デスクの前にゆっくりと回り込んで尻を乗せる。
「……来い」
己の行動がもたらす結果を知り抜いた上で手招きをすると、不機嫌に膨らんだ頬から一気に空気が抜けるが、これぐらいでは許さないと伝えるように唇の片方の端が下がり、だが嬉しさも感じていることを教えるようにもう一方が器用に上がる。
「……頑張った!」
「ああ、本当にお疲れさま。今日も一日よく働いてきたな」
俺の太陽は有能だから他の人の倍ぐらいは仕事をこなしてもそれが大変だと理解して貰えないんだろうなと、ウーヴェの手に手を重ねるかどうしようか思案するように直前で足を止めたリオンを見上げ、本当に頼りになる男だと眼鏡を外して手放しで褒めると下がっていた口角が上を向き、ロイヤルブルーの双眸に嬉しそうな色が浮かび上がる。
「……My Dearest,リーオ」
その一言が完全にリオンの機嫌も気分も上げるものだった為、デスクに軽く尻を乗せているウーヴェに向けて最後の一歩を踏み出すと今朝出勤した時ぶりにウーヴェを抱きしめる。
「ただーいま、オーヴェ!」
「ああ、お帰り」
己を抱きしめる広い背中を一つ撫でたウーヴェは、無意識に身体が求めている匂いが鼻腔を通り抜けたことに気付いてくすんだ金髪に頬を宛がうように頭を傾ける。
「腹は減ってないか?」
「まだ大丈夫」
今日は何を食べようかなーとウーヴェの肩に手をついて少し距離を取ったリオンは、見上げてくるターコイズの双眸にキスをするように顔を寄せ、鼻の頭、頬、最後に唇に小さな音を立ててキスをすると、頬を両手で挟まれて笑顔になる。
「昨日のシュニッツェルがまだ残っていた気がするな」
「あー、じゃあそれ食べようぜ」
「ああ、そうしようか」
鼻の頭が触れあう距離でクスクスと笑いながら今夜のメニューについて話していると今度はちゃんとノックだと分かる音が聞こえ、リオンが名残惜しそうに、ウーヴェもその気持ちをぐっと隠してどうぞと返事をする。
「……やっと気持ち良い季節になったね」
「ルッツ!? 久しぶりだな!」
春は暖かいから何か浮かれてしまうよと笑いながら紙袋を顔の高さに掲げたのは、ウーヴェの大学の同級生であり大切な友達の一人のマウリッツで、久しぶりの訪問に自然と顔を綻ばせたウーヴェは、リオンも同じように笑みを浮かべて久しぶりと手を上げたことに気付き安堵に胸を撫で下ろす。
「久しぶり、ウーヴェ、リオン」
前に会ったのは二人が精神的にどん底にいる時だったから今二人の笑顔を見ることが出来て本当に嬉しいと、誰よりも喜んでいる顔で頷く友人がデスク前にやってくるのを二人並んで待っていたが、デスクに袋を下ろすと同時に痩躯に手を伸ばし、久しぶりに背中を抱き合い互いの頬にキスをする。
「今日はどうした?」
「うん、……ちょっと良い天気だったし気分も良いから出てきた」
ちゃんと小児科医としての務めは果たしてきたよと笑い、紙袋の中にはタルトが入っているから皆で食べるつもりだが、リンゴのタルトはきみのために買ってきたものだと片目を閉じられてウーヴェがデスクに投げ出していた眼鏡を掛けて嬉しそうに目を細める。
「リオンにはチーズケーキを買ってきたよ」
「え、マジ? ダンケ、マウリッツ」
マウリッツの言葉にリオンが条件反射のように笑みを浮かべてウーヴェとはまた違う整った顔を見つめるが、そんなリオンに微苦笑しつつマウリッツが肩を竦める。
「ルッツで良いと前にも言っただろ?」
「……はは、ダンケ、ルッツ。あっちに座って食おうぜ」
もう知り合って結構経つのだからルッツで良いと提案されたことを思い出したリオンだったが、何かがいつもと違っている事を敏感に察してウーヴェの様子を伺うものの己が気付いた何かに気付いていないようで、勘違いだろうかと内心首を傾げつつ窓際のソファセットへと向かう為ウーヴェの手を己の腰に回させる。
「リアがもう帰るって言ってたから彼女の分は明日渡して欲しいな」
「ああ、そうする」
ウーヴェをまず座らせマウリッツには向かいのソファを示したリオンだったが、何を飲むと問いかけながら二人の顔を交互に見つめ、やはり何か違和感があると眉を寄せる。
「どうした、リオン?」
「んー……気のせいか?」
「?」
リオンのその様子にウーヴェとマウリッツが顔を見合わせてしまうが紅茶で良いかと問われて二人同時に首を縦に振ると、すぐに用意をしてくるから待っててくれダーリンとの言葉をウーヴェの頬にキスとともに届けて診察室を出て行く。
その背中を見送った二人は本当に存在するだけで騒々しいと事情を知らない者からすれば貶しているのかと思われる言葉を同時に零し、でもきみ達が前のように仲良くしてくれることは嬉しいなとマウリッツが数ヶ月前の二人の様子を思い浮かべながらぽつりと呟くと、ウーヴェもあの時は本当に助かった、ありがとうと素直に礼を言う。
騒々しいとたった今貶したばかりのリオンだが、その存在がない間世界の総てが真冬でも感じることの無い冷たさに支配されたような感覚をウーヴェは覚えていて、その軽減にマウリッツが一役も二役も買ってくれていたのだ。
その思いを何度目かの感謝の言葉で伝えたウーヴェにマウリッツが照れながらも友人の力になれた事が嬉しいと、僅かに頬を赤くしつつ頷いてウーヴェの感謝の言葉を受け止める。
「ルッツ、今日は本当にどうした?」
リオンがさっきお前の顔を覗き込んで不思議そうにしていたがその由来を教えてくれないかと、実は気付いていないフリをしていただけだと教えるように足を組みつつウーヴェが問いかけると、マウリッツのアイスブルーの双眸が躊躇うように左右に泳ぐ。
「何かあったのか?」
お前の様子から何か酷く悪いことが起きた訳では無いだろうが気になると己の素直な気持ちを口にしたウーヴェだったが、なかなか返事が無い事に小首を傾げて友人を見ると、今まで見たことがないような表情のマウリッツがウーヴェの視線から顔を逸らすように俯いていた。
その様子がウーヴェの中で過去のマウリッツの言動と結びつかなかったため、本当に何があったと胸中で呟いた時、リオンが紅茶のカップを載せたトレイを少しだけ乱雑に運んで戻ってくる。
「お待たせー……」
「ああ、ありがとう、リオン」
これがリアであればタルトを載せる皿やフォークなども持ってくるのだろうが、飲み物の用意だけで限界だったリオンがトレイをテーブルに置いたあと、デスクで出番を待っている袋を取ってウーヴェの横に座る。
「フォーク持ってきたけど、皿持ってくるの忘れた」
「……仕方ないな」
タルトと一緒にペーパーナプキンが入っていたのでそれを使おうとウーヴェが溜息混じりに呟きマウリッツも微苦笑しつつも頷くが、一瞬だけ意識が別に飛んだような表情になり、次いで小さな小さな笑みが口元に浮かぶ。
それを見逃さなかったリオンとウーヴェが視線だけで互いの感情を読み取り、やはり今日のマウリッツは何かが違うと確信する。
「……まあ、別に地面や床に直接置いて食べるわけじゃないし」
気にしないで良いよと一瞬見せた笑顔とは違う笑顔で頷きタルトを食べようと二人を見るが、何故か呆然とした目で見つめられて目を瞬かせる。
「ウーヴェ? リオン? どうした?」
心配そうに眉を寄せて顔を突き出してくるマウリッツに二人同時に喉の奥で奇妙な音を鳴らしてしまい、本当にどうしたと小首を傾げられてリオンが手で口元を覆う。
「……やべっ!!」
リオンの呟きにマウリッツが意味が分からないと少しだけ気分を害した顔になったため、ウーヴェが二人を救う様にロープを投げる。
「なあルッツ、さっきも聞いたが何かあったんだろう?」
「……う、ん」
話を聞いて欲しいからここに来たんだろうと己の顔を見に来ただけではないだろうと笑うウーヴェにマウリッツも釣られて笑みを浮かべるが、ウーヴェの手によって救助されたリオンが何かを閃いた顔でマウリッツを見つめて口を開く。
「……ルッツ、好きな人か恋人が出来たのか?」
「!?」
「!!」
リオンの疑問の声にマウリッツの頬が染まりウーヴェの目が驚きに見開かれてしまうが、そんな二人を気にする事なくリオンが前のめりになってニヤリと笑みを浮かべる。
「すげー雰囲気変わったなーって思ったんだけどな」
もし好きな人や恋人が出来た結果の変化ならば喜ばしいことだと笑うリオンにマウリッツがソファの上でもぞもぞとしてしまい、やっと事情を察したウーヴェが足を組んで肘置きで頬杖を付いて友人のアイスブルーの双眸を見つめると、白皙の頬だけでは無く全身にまで広がるのではと思える程肌が染まり、う、んという短いはずなのに途切れてしまう声にウーヴェが無意識に喉を鳴らしてしまう。
「……ウーヴェ?」
「……ん、何でも、ない」
元々友人達から美人とからかわれるほど整った顔立ちをし、穏やかな表情、物腰の柔らかさから実は男女ともに人気のあったマウリッツだったが、今目の前で頬だけでは無く全身を赤く染めている姿に余程のことが無い限りそういった感情に心を動かされることが無いウーヴェでさえも鼓動を早め、それに気付いたリオンが肘でウーヴェの肘を突く。
掌に荒い息を一つ吐き出した後、咳払いをしてそうかと笑顔で頷くと、マウリッツが鼻の頭を指先で引っ掻きながら視線を左右に泳がせる。
「……どんな人なんだ?」
聞いても良いのなら教えてくれと促すと今まで自分の周りにはいなかった人だと教えられて眼鏡の下で目を丸くし、リオンも似たような表情でチーズケーキを頬張ろうとする手を止める。
「そうなのか?」
「そう。……正反対、かな」
「性格が?」
マウリッツの声に滲む色に気付いたウーヴェが単なる好奇心ではなく応援する気持ちから首を傾げると、性格ではなく好きなものが正反対に近いと答えられて目を瞬かせるが、それに対する感想を口にしたのはリオンだった。
「好きなものが正反対だと辛くねぇ?」
「うん、どう言えば良いかな。正反対というか、自分では絶対に選ばない選択をする人かな」
だから臆病な僕にとっては知らない世界を教えてくれる人と再度目撃した二人が口元を手で覆い隠しかねない表情で呟いたマウリッツだったが、己の中の好きな人と対面するのに必死なのか二人のそんな様子に気付かないようだった。
ここに共通の友人がいれば大騒ぎになっていただろうが、幸か不幸か今はリオンしかおらず、そのリオンも普段ならば軽口を叩いてウーヴェに叱られたりするところをさすがに今はからかってはいけないと思っているのか、頬を赤くするマウリッツに見惚れているような顔で頷いていた。
「良いな、そーいうの」
人の恋バナとか聞けるタイプでは無いがルッツに関しては聞いて見届けたい気がすると笑うリオンにウーヴェも同意の頷きを見せるとマウリッツが一瞬目を瞠り、二人にそう言って貰えると嬉しいやら恥ずかしいやら分からないと頭に手を宛がうが、恋愛の大先輩の君たちに教わりたいことが山ほどあると上目遣いに笑うとリオンが肩を揺らしてしまい、その結果チーズケーキがこれ以上は食べられたくない、だから逃げるなら今だとばかりに手の中から飛び降りてしまう。
「……んっ!!」
「リオン、大丈夫かい!?」
「……」
いつもならばウーヴェがフォローするのだがマウリッツの言葉にウーヴェも肩を揺らして顔を背けたため、本当に二人ともどうしたんだとくっきりと眉を寄せる。
そんなマウリッツの前、足にケーキを落としてしまったリオンと目尻を僅かに赤くしたウーヴェが顔を寄せ合い、あれは全く自覚が無い、非常にマズいぞと囁きあう。
「何がマズいんだ?」
「……あれだよなぁ。好きな人が出来たらさー、男でも女でも関係なく雰囲気変わるよなー」
だからお前の全身から得も言われぬ色香が滲み出ていてもおかしくないし当然のことだが、オーヴェで免疫のある俺でも一瞬妙な気になってしまうから好きな人の前以外ではその色気を隠せと、どうかそれを目撃した人が不幸にならないように自制しろとマウリッツにとっては全く意味の分からないことを呟いたリオンは、天井を見上げて長い息を吐く。
「分かってねぇよなぁ。ぜってー分かってねぇ」
今のルッツがどれ程美人に見えるか、一晩だけでも相手をしてもらえたことが自慢になる、だからぜひ相手をして欲しいと思わせる色香を纏っているのか絶対に分かってないはずだ、そんな鈍感がここにももう一人いたのかと、己の最後の恋人であり永遠の伴侶であるウーヴェを暗に扱き下ろしたリオンは、脇腹に拳が叩き込まれたことに気付いて大げさに咳払いをする。
「ぼくに色気?……本当にそれがあれば良いのにね」
「あーもー! オーヴェ! この鈍感な超絶美人に説明してやれよ!」
リオンが吼える横で煩いと耳を押さえたウーヴェだったが本気でそう思っていそうな友人の様子に咳払いをし、確かにリオンの言葉にも一理あると苦笑する。
「ルッツ、お前の腹の蝶を目覚めさせたのはどんな人なんだ?」
「え……、と、さっきも言ったけど、ぼくが見ることのなかった世界を見せてくれる人」
知らないことを知れる、それが嬉しいし楽しいと、性格から来るもの以外の穏やかさを滲ませた笑顔で同じ言葉を繰り返したマウリッツだったが、色々な経験をしてそれでもまっすぐに生きている人と消え入りそうな声で呟くと、ウーヴェとリオンの顔に似たような穏やかな笑みが浮かぶ。
目の前の友人が浮かべる笑顔がどれ程自分たちに穏やかな時間をプレゼントしてくれているのかも気付いていないだろうとウーヴェが胸中で苦笑するが、そんなウーヴェの横でリオンが小さく口笛を吹き腿の上に落ちたケーキを無造作に手で掴んで口に放り込む。
「俺、ルッツの今の顔すげー好き。下心なしでオーヴェが笑った時と同じぐらい好き」
「え?」
「なあ、誰なんだよ、ルッツの腹にチョウチョを産み付けてった人」
腹のチョウチョが孵化した、つまりお前が今恋をしている相手はどんな人だとチェアの肘おきに上体を預けるように身体を傾けたリオンは、無意識の動作で髪を撫でてくれる手に目を細め、俺の蝶を孵化させたのは勿論オーヴェだと歌うように告げる。
「すぐにいなくなるかなーって思ったけど、今でもずーっとここにいる」
今まで付き合ってきた恋人達や恋人と呼べる関係になる事すら無かった彼女達には悪いが、今でも腹にはウーヴェが孵化させた蝶がいると己の腹を撫でて笑ったリオンにウーヴェが眼鏡の下で目を細め、マウリッツが軽く目を瞠った後アイスブルーの双眸を瞼の下に一度隠す。
「……うん。病院の事務方の責任者をしてる人」
「医療従事者か」
「そう。……アイヒェンドルフ先生の後輩でもあるって」
「先生、の……っ!?」
マウリッツの呟きにウーヴェが同じ医療従事者かと呟くが、その人が恩師の後輩と聞いてリオンと顔を見合わせてしまう。
「そ、うか」
「そう……仕事には厳しいけど、離れれば優しい人」
先生のことも知っていると話していたと笑いながら肩を竦めたマウリッツは、ウーヴェの驚きの理由を察し、自分でも驚いていると苦笑しつつ冷めてしまった紅茶に口を付ける。
「ぼくもまさかそんな年上のおじさんを好きになるなんて思わなかった」
でもそんなことは関係なくここに蝶が生まれてしまったんだと、リオンと同じように腹に手を当ててぽつりと呟いたマウリッツの前、全身全霊で驚愕の声を飲み込んだ二人がさらに顔を見合わせるが、リオンよりも素早く立ち直ったウーヴェが気持ちを切り替えたかのように穏やかな顔で頷き、それがマウリッツの心を軽くしたのか、今日一番の笑みを浮かべて小さく頷くと、初めての事だらけですごく戸惑っているけど最近外に出ることが楽しくなったと恋をしている己の心境の変化を伝えると、ウーヴェとリオンの顔にほぼ同時に満面の笑みが浮かぶ。
「良い事だな!」
「うん……ありがとう、リオン」
君たちには本当に心配を掛けた、だからこの報告を一番にしたかったんだと笑うマウリッツの前、本日何度目になるのか分からないが口元を掌で覆い隠した二人が喉の奥で奇妙な声を立ててしまう。
「んっ!!」
「……ルッツ、リオンの言うとおりだ」
その顔はお前の好きな人以外には見せない方が良いとウーヴェが疲労感の滲んだ声で呟けば、そんなことを言われてもとマウリッツが反論する。
「だから、ぼくは何も……っ!」
「あーもー! その相手連れてこいっ!」
今度一緒にメシを食ってその時にその相手に一生囲って外に出すなと忠告してやると、聞きようによってはかなり危険なことを叫んだリオンにウーヴェも半ば同意するように頷く。
「……彼の名前は?」
「……パスカル」
「忠告するかどうかは別にして、お前さえ良ければ彼も一緒に食事をしたいな」
どんな人なのか直接自分の目で確認してみたいと伝えるとマウリッツの顔から不満が消えて僅かに不安が浮かび上がるが、プラチナブロンドが小さく上下する。
「うん、言っておく」
「ああ、ぜひそうしてくれ」
どうせ今夜会うんだろうとこの後の予定を見越したウーヴェがにやりと笑みを浮かべて頬杖を付くと、マウリッツの首筋が真っ赤に染まる。
「……ルッツ、外に出ることが楽しくなって良かったな」
心境の変化をもたらしてくれたのがパスカルという名の年上の恋人ならば彼に心から感謝をしないといけないなと、友人に訪れた幸福を手放しで祝うようにウーヴェが目を覗き込むと、ウーヴェの言葉を素直に受け止めたマウリッツの頭がしっかりと上下する。
「うん。……恋をするってこんなにも楽しいことだったんだね」
今までの恋が辛く悲しいものばかりだったから、今自分でも驚くほど浮かれている、いつかまた悲しいことになるかもしれないと笑う友人の言葉をゆっくりと首を左右に振って否定したウーヴェは、悲しいことになるかも知れないが必ずそこに辿り着く訳じゃない、だから万が一のことを考えて行動しないのはやめてくれと、浮かれているのならばその気持ちのまま好きな人に受け止めてもらえば良いと笑い、マウリッツもその言葉に力を分け与えられたようにしっかりと頷く。
「ダンケ、ウーヴェ、リオン。……また相談に乗って欲しいな」
「もちろん。ここでも良いし家で飲みながら話を聞いても良い」
だから今日はそのパスカルとのデートを楽しんで来いと笑うウーヴェにリオンが家で酒を飲むのなら程々にと、何度かの家飲みで大変な目に遭ったことを思い出しながら指を突きつけ、人に指を突きつけるなとウーヴェの指に頭を小突かれる。
「いて」
「タルトを食べよう」
早く彼の所に行きたいのは分かるがせっかくお前が買って来てくれたタルトを食べて行くぐらいの時間はあるだろうとウーヴェのニヤリとした笑みにマウリッツが顔を赤くするが、うんと頷いて食べられていなかったタルトを手で掴む。
流石に男三人、フォークがあっても面倒臭いの一言で手掴みで食べる事を選択すると、脳裏で驚愕から文句を言い始めるリアに言い訳をしたウーヴェはリンゴのタルトに齧り付き、いつも以上に甘さを感じるそれに内心微苦笑してしまうのだった。
じゃあ帰る、ありがとうと照れと満足を混ぜ合わせた顔でマウリッツがクリニックを出て行く。
それを見送った二人はどちらからともなく溜息を零してしまうが、その中に込めた嬉しさも互いに感じ取っていた。
マウリッツに恋人ができた、しかもかなり年上の同性だという事実は二人に衝撃を与えたが、それよりも恋人ができた事実の方が嬉しくて、その溜息が見せつけられた他人の幸福に対するやっかみではない事を確認し合うように小さく笑い合う。
「ルッツ、幸せそうだったな」
「そーだな……さっきも言ったけどさ、マジでアレはヤバい」
元々少ない語彙力が消滅してしまったのではと思うほど言葉が出てこないが、お前と出会う前の男に対して恋愛感情など持たなかった頃の俺でも声をかけてしまいたくなると、己の恋愛に関する主義主張を一切合切ひっくり返すような色気があったとリオンが素直に告白すると、ウーヴェも同じ事を考えたのか無言で肩を竦める。
「……色々あるけど、まっすぐ生きている人って言ってたな」
「そーだな……ま、ルッツが言いたくなれば聞かせてくれるんじゃねぇかな」
「そうだな」
他の友人ならばともかく、マウリッツの恋バナはさっきも言ったが最後まで見届けたいと笑うリオンの髪をそっとかき上げたウーヴェは見えた額にキスをし、一緒に幸せを祈ってくれと友を思って囁くと言葉ではなく頬へのキスで返事がなされる。
「さー、そろそろ帰ろうぜ」
マウリッツの腹に住んでいる蝶の話はひとまずおいておき、次は俺たちが飼っている蝶に餌を与えないかとウーヴェの耳元に口を寄せて囁いたリオンは、虫にも蝶にも餌を与えないといけないから大変だなと笑い返されてロイヤルブルーの双眸を丸くするが、どちらかといえば蝶に沢山餌を与えたいなと片腕を突き上げて伸びをする。
「……俺も、お前が孵した蝶がずっとここにいる」
テーブルの上をテキパキと片付けるリオンの動きを見守っていたウーヴェは、聞こえるか聞こえないかの声で頬づえをつきながら呟くと、トレイに全てを乱雑に載せたリオンが肩越しに振り返り、ちゃんと分かっているぜダーリンと片目を閉じられて眼鏡の下で目を丸くするが、帰る為の片付けを早くしてしまおうと今もひっそりと胎内で羽ばたいている蝶の気配を感じつつ頷いて立ち上がるのだった。
二重窓の外、マウリッツとパスカルの恋を見守るような暖かな夕闇が、二人がデートをしているであろう街を覆っていくのだった。
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