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日付をまたぎ、深夜の街を抜けて帰宅した。
最近涼しくなってきたからか、玄関の鍵を回す手が、少しだけ震える。
「…ただいま」
「おかえり」
一瞬固まる。期待していなかった言葉が、返ってきたからだ。
靴を雑に脱ぎ、歩を早め、リビングに進むと、ソファに座る兄貴が顔を上げた。
キョトンとした顔で何を言うでもなく俺を見つめる兄貴。
それが、今の自分には十分すぎることだった。
「ただいま」
「ん。」
別にそれ以外なにかする訳でもなく、脱いだコートをソファにかけ、ネクタイを緩める。背伸びをすると、無駄に気張っていた全身の力がすっと抜けた。
横をむくと、ダイニングテーブルに目が止まる。ラップに包まれた夕食と二つの取り皿。
「…待っててくれたん?」
軽く呟くと、兄貴は手元のスマホを覗きながらノールックで答える。
「ん?うん。」
「お腹減っとらん?」
「昼遅かったから。」
そっかと一言発し、踵を返す。首をコキコキと鳴らしながら、台所で手を洗う。
水音の間、目を細める自分。視線の先には、静かに座る彼の姿。
言葉は少なくても、その存在が己の全てを満たしてくれているのを感じる。
時計が静かに時を刻む。
別になんてことのない時間なのに、どうしようもなく愛おしい。
ここにいるだけで、心の痼のような物がゆっくりと溶けていくようだった。
手に残った水滴を散らしながらリビングに戻る。
そこにはもちろん彼がいて、どうしようもない安堵が身体中を巡る。
「…今日も長かった」
自然に漏れた愚痴に、兄貴は肩越しにちらりと視線を向ける。
「相変わらず大変そうで。デカい企業だからって、待遇がいいってのもお門違いやな」
からかうような口調。でも、その奥にほんのり滲む気遣いが心をくすぐる。
「ねぇ」
疲れ切った体のせいか、声が沈む。呼びかけるだけで胸が詰まる。
そんな俺に手をちょいちょいと動かして、こちらに来いと合図する兄貴。
素直にソファに腰掛けると、隣から体温がゆっくりと伝わってきた。
「兄貴」
「ん?」
「…兄貴」
「…お疲れさん」
ふわりと向けられる笑顔に胸がきゅとしまった。
「…今日、なんか変なことあった?」
何か話したい。その一心でポロッと漏れた言葉に兄貴の眉が少し上がる。
「変なこと?…まあ、今日は特別なんかあったってのはないな。」
「そっか…」
聞いといてアレだが、別に内容はどうでもいい。ただ、彼の声が聞けるだけで嬉しい。
「まろは?」
「俺?…あ、でも、上司には通常運転でイラっとした」
「あー、例のな」
「アイツが紙で用意せいって言うから態々やってやったんに。いざ出来たら資源がどうたらって。」
「はー?なんそれ」
「後から聞いたら、俺が出てったあと部長になんか言われたらしい。で、俺になすり付けたわけ。」
「くはは、そら災難やな」
「笑い事ちゃうわー…」
「ははは」
ケタケタと笑う兄貴。そんだけで今日の理不尽も全てが正当化されていく。すべてがどうでも良くなる。
何も言わず、じっと顔を見つめている俺に何か思ったのか、にこりと微笑んでくれる。
「…お前はえらいよ」
「うん…」
短くても確実に伝わる言葉。
いつもみんなに向けている優しさを、今は自分が独占している。
なんて贅沢で、なんて幸せなんだろう。
確かめるように、ほんの少しだけ体を寄せる。
袖が擦れる音、指先が触れる感覚、肩が触れ合うだけで胸の奥がじんわり熱くなる。
視線の端で互いの微妙な動きや呼吸を意識しながら、ゆっくりと時間が流れていく。
「…兄貴、ぃ」
「はいはい」
「…んー」
ただ隣にいるだけで、心の奥の緊張も、肩の張りも、ゆっくりと解けていく。
「飯、食うか?」
兄貴の声に、俺は答えない。
「今日は魚に、…したん、やけど」
視線を絡める。
言葉を使わず、ただ目で訴える。
それだけで、兄貴は小さく眉を動かし、次の言葉を呑み込んだ。
ゆっくりと手を伸ばし、その指を取る。
軽く握るだけ。けれど離さない。
返事代わりに、指先がわずかに震えて俺の手を受け止める。
肩に額を預ける。
できるだけ、わざとらしくないように。
兄貴はあざといの、苦手だから。
大人の男がするには少し不格好かもしれない仕草だが、気にしない。
「……」
兄貴はただされるがまま、体温を許してくれる。
その無抵抗さが、欲を煽る。
顔を上げ、視線を絡ませたまま、ゆっくりと唇を近づける。
声もなく、理由もなく。
ただ「欲しい」という感情だけで。
触れた瞬間、兄貴の肩がかすかに揺れた。
それでも拒まない。拒まないで居てくれる。
俺の手に絡め取られるまま、瞼を伏せて受け入れる。
唇が重なるたび、静かな熱がじわじわと広がっていく。
それの感覚が愛おしすぎて、さらに深く口付ける。
「…兄貴」
呼ぶ声が、自分でも驚くほど甘く響いた。
その声だけで、兄貴の指が小さく動く。
手の中の温度が、じわりと上がる。
「…なに?飯いらん?」
「……あとで。」
囁くように答え、もう片方の手で兄貴の頬に触れた。
顔を近づけ、額を合わせる。
それだけで息が詰まるほど、空気が熱い。
求めるでも、拒むでもなく、ただ静かに、互いの存在を確かめるように。
「……悠祐」
「……ん。」
小さく応える声が、やけに遠く聞こえた。
「……ベット、いこ?」
「……あぁ。」
短い返事。
それだけで…十分。
立ち上がり、手を取る。
横目で兄貴を見ると、恥ずかしそうに目をそらす。
いつも男らしいのに、こういう時だけ初心で。
こういうの…慣れてる、だろうに。
「(…やめやめ。なんか気分落ちる)」
「まろ?」
「っ!」
いつの間にかぼーっとしてたのか、気づくと寝室の前で突っ立ってしまっている。
「え、?ん?」
「…早く行こや。」
丸くて大きい、可愛らしい瞳を潤ませ、見上げてくる。
あぁ…なんて。なんて…幸せ…
「うん、おいで…」
そのままパタリと寝室のドアが閉まった。
テーブルの上、ラップのかかった夕食が月明かりに反射していた。
温もりをまだ残したまま、ふたりの背中を見送っている。
静かな夜の中で、誰かの「おかえり」がどれほどの救いになるかを書きたくて描きました。
読んでくれて、ありがとうございました