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かんな
あかね ♛❤️♛
その後ろ姿を見送りながら、穂乃果はぎゅっと布巾を握りしめる。
(もしかして、怒らせちゃった……?)
言うことを聞いて、素直に下がった方が良かったのだろうか。自分の我儘でナオミの手を煩わせているのではないかという不安が、暗い波のように押し寄せる。
「大丈夫。アレは喜んでるだけだから」
「え……?」
不意に隣から届いた、軽やかでいて確信に満ちた声。
湊が、カウンターへ持っていくグラスをトレイに乗せながら、悪戯っぽく微笑んでいた。
「穂乃果さんが、自分の意志でここに居たいって言ってくれたのが、ナオミさんは嬉しいんだよ。あれでも精一杯の照れ隠しじゃないかな」
「照れ、隠し……」
「そう。ナオミさんって、人の事には敏感なくせに、自分の気持ちをストレートに表現するのが死ぬほど下手なんだと思うんだ。……まあ、だからこそ僕みたいなのが居座っちゃうんだけどね」
湊はクスクスと笑うと、穂乃果の肩をポンと軽く叩いた。
指先から伝わるその軽やかなリズムに背中を押されるように、穂乃果は心の奥に澱んでいた問いを、そっと口にした。
「私、本当に此処に居ていいんでしょうか?」
場違いではないだろうか。地味で、何の特徴もない自分が、こんなにも美しく鮮やかな夜の欠片(かけら)のような場所に。 問いかけた声は、カチャカチャと響く氷の音に混じって、消え入りそうなほど細かった。
「何言ってんだよ」
湊はトレイを脇に抱え、真っ直ぐに穂乃果の瞳を覗き込んだ。 琥珀色の照明を反射する彼の瞳には、迷いも、値踏みするような色も一切ない。
「……君が此処に居たいって決めたんなら、いいに決まってるじゃん。此処では性別とか容姿とか、いろんなしがらみとか、そんなの何にも関係ないんだよ。自分が居たいって気持ちが、何より大事なんだから」
湊の言葉が、穂乃果の強張っていた胸の隙間に、温かな砂のようにさらさらと流れ込んでいく。 彼はカウンターの向こうで忙しなく立ち働くナオミの背中――その、凛としていて、どこか孤高なシルエットに視線を投げた。
「どんな人でも、居心地よく楽しめる空間にしたい。それがナオミさんの夢で、このお店がある理由なんだ。……だから、君が笑ってそこにいてくれるだけで、ナオミさんの夢は一つ叶ってるんだよ」
そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもみなかった。 「居ていい」と言われるだけでなく、自分の存在が誰かの夢を支えているのだという、初めて感じる自己肯定感。 職場で囁かれる婚約の噂も、直樹が押し付けてくる「従順な女」という型紙も、ここでは何の意味も持たない。
店内に流れるスローテンポなジャズが、今は心臓の鼓動に心地よくシンクロしている。 穂乃果は深く息を吸い込み、少しだけ濡れたままのグラスを、今度は力強く、丁寧に拭き上げた。
この場所を、この空気を作っているナオミを、自分も守りたい。 そんな淡くも熱い決意が、ライトブルーのワンピースの下で、静かに、けれど確かに芽吹き始めていた。
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